M. ジョンストン著「コミューンとマルクスのプロレタリアート独裁」(その1) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

M. ジョンストン著「コミューンとマルクスのプロレタリアート独裁と党の役割概念」(その1)

Monty Johnstone, The Commune and Marx’s Conception of the Dictatorship of the Proletariat and the Role of the Party

 

p.201

 パリ・コミューンはカール・マルクスの政治思想の中で中心的位置を占める。すでに「フランスの内乱に関する演説」の第一草稿(1871年4月下旬)の中で、マルクスは「19世紀の社会革命の幕開け」と書いたが、それはその運命がパリでどうなろうとも「世界中に回る」ものであった。マルクスにとって、それは労働者階級が政治的権力を掌握した ― いかに短期間のものであれ、また一つの都市内という例外的状況下のものであるにせよ ― 最初の経験を意味した。

 「社会の未来構造の空想的素描を弄ぶ」空想社会主義者たちに追随することを原則的に拒否していたため、コミューンはマルクスにとって生涯で初めて、資本主義と階級のない共産主義社会の間に横たわると信じていた過渡期の特徴に関し詳述の機会を提供することになった。特にマルクスのコミューンに関する著作は他のどの論点にも増して激しい論争を1世紀中に巻き起こしたが、彼の思想のこの側面を理解するうえで非常に重要である。プロレタリア独裁に関する彼の概念と、独裁と民主主義の関連とについて本稿はマルクスとコミューンの関連一つに絞って述べてみる。

p.202

労働者階級のヘゲモニー概念

 1870年秋以降のマルクスはフランスの首都におけるいかなる種の蜂起の試みについても戦略的説明に反対の立場を貫いた。(パリが)ドイツ軍の脅威に直面したとき、彼は書いている。「フランスの労働者は市民として己の義務を履行すべきであり」、「平静さを保ち、共和主義的自由、己の階級組織の仕事のための機会を改善すべきである」、と。しかし、ティエールが国民衛兵の大砲を捕獲しようとする企てに端を発して暴動がもちあがるや否や、マルクスとエンゲルスはパリ市民への支持を表明した。1871年4月12日、ハノーファのルトヴィヒ・クーゲルマン(Lutwig Kugelman)宛ての書簡で、マルクスはパリ革命派の「柔軟性、歴史的独創性、犠牲への能力」を称賛し、コミューンは1848年の「パリ六月暴動以降のわが党の最も光栄ある行為である」、と書いた。「党」という用語はここで「偉大な歴史的意味」において用いられており、そこでマルクスは1860年2月29日のフライリグラート(Freiligrath)宛ての書簡で、独立した階級としての労働運動を示しているが、この表現としてマルクスは今や力を込めてコミューンと同一視しているのだ。クーゲルマン宛ての別の書簡で、マルクスはさらに熱狂的でさえある。「資本主義階級とその国家に対する労働階級はパリの闘争で新たな段階に突入した」と書いている。「その直接的結果がなんであれ」…「世界史上の重要な新しい出発点が刻まれた」。ところが、4月6日付のリープクネヒト宛の書簡中でマルクスは早くもこれらの点についてきわめて悲観的見通しを表明するのである。

 マルクスがはたしてコミューンのプロレタリア的性格に関する彼の見解は正当であったかどうかということは、本稿の範囲を超える。私がここで確認しようとする意図は ― これもまた重要な論争点の一つだが ― コミューンの壊滅に際し、直接的に最終的なかたちで刊行された『フランスの内乱』という彼の著名な講演で表明されたにとどまらず、他のすべての機会にも表明された彼の見解だということである。シュロモ・アヴィネリ(Shlomo Avineri)博士の「フランスの内乱」のさまざまな草稿はマルクスがコミューンを労働階級の事件としてではなく、小ブルジョア的・民主主義的・急進的暴動として考えていたといった主張は検討するに堪えない。じじつ、マルクスの草稿はくり返し「パリ・コミューンによって取り上げられた。赤旗は実際にパリのために労働者の政府を与えた」とか「労働者革命」は「彼らのいかさまの代表者たちから中産階級の真の要素を救いだした」とかいう彼の見解を強調する。

 この最後の部分に引用した言明はマルクスのプロレタリアヘゲモニー概念の中心部分を占める。p.203 それは、彼の社会主義革命理論の中で重要な位置を占める。マルクスは言う。「歴史上初めて中小の中産階級が労働者の革命に公然と加勢し、それを彼ら自身の救済とフランスの救済のための唯一の手段であると宣言したのだ。中産階級は労働者といっしょになって国民衛兵の多数派を組織し、彼らとともにコミューンに議席を占め、彼らとともに共和主義の同盟を考える」。ただひとり労働階級のみが中産階級を財政的破綻から救うことができるだけでなく、「科学を階級支配の道具から人民権力の道具へと転換し、学者インテリたちを思想の自由の賛同者に変えることができるのだ。」じっさい、コミューンがコミューン樹立後に採った「主要政策」は中産階級つまり債権者階級に対してパリの債務者階級を救出したことであった。」

 マルクスの初稿の5ページは特に農民のために割かれていた。その議論の主要なラインは最終稿に編入されている。それは農民たちの債務から唯一の希望としてコミューンの勝利を述べる。フランス全土に向けたコミューン憲法は「農村の生産者を彼らの地方の中心都市の知的先導のもとにおき、そこにおいてコミューン憲法は「農村の生産者を彼ら利害の自然的受託者を彼らのために与えるのである。」

 したがってマルクスは、労働者階級の政治権力の樹立はプロレタリアートが住民の大多数をなす日を待たねばならないとは考えなかった。コミューンの3年後に書くとき、彼はこう表現した。「私有財産の所有者としての農民が多数いる処では、そして、西ヨーロッパ大陸のすべての国家がそうであるように、農民が多かれ少なかれ多数を占めている処では、… 次のような事態が発生する。すなわち、農民はすべての労働者革命の阻止のためにはたらき、それを挫折させる。… 今や、フランスをそのようにやったように、― あるいはまた、プロレタリアート(なぜなら、独立農民はプロレタリアートに属するのではなく、彼の地位立場に応じて所属を転換し、彼がプロレタリアートに属しているとは思わないのだから)は一つの政府として幾つかの処置 ― これを通じて農民は己の地位も改善されていくのを自覚し、また、それを通じて革命にたどり着くのである ― を講じなければならないのだ。」

 このような労働者階級の政府はプロレタリアートの指導性を受容し、農村における大多数の支持を与える他の階級との同盟に基礎づけられるであろう。そのように動く勢力 ― 徹底的でもなく、また十分に早くからなされたのでもなかったが ― であったにもかかわらず、パリの労働者は地方の農民大多数を説得することに成功しなかった。しかしながら、首都そのものにおいてマルクスは「労働者階級は … パリの中産階級つまり、商店主、小売商人、富裕な商人を除く商人の大多数によってさえ社会的指導性の能力をもつ唯一の階級として公然と認められている」ことを見出した。このようなヘゲモニーを心に浮かべつつ、p.204 マルクスはこう宣言する。「このようにしてコミューンがフランス社会のすべての健康的要素の真の代表者であり、したがって、真に国民的な政府であったとするなら、それは労働者の政府として、また労働の解放の強力なチャンピオンとして同時に国際的な革命であるはずである。」それゆえ、マルクスにおいては「人民革命」としての「労働者革命」を語っても何ら矛盾はないことになる。そして、「人民による人民の政府」として革命を樹立する「労働者の政府」を語る際も然りである。

 

プロレタリア独裁

 マルクスはコミューンを語るとき、「プロレタリア―トの独裁」なる用語を実際上は使用しなかった。彼が「プロレタリアの支配」ないしは「労働階級によって掌握された政治権力」のような表現を同義的に用いたが、それは彼の著作の随所に出てくる。ところが、彼のコミューンに関する著作『フランスの内乱』中にこのような句はほとんど出てこない。この著作は彼自身の名で書かれたのではなく、イギリスの労働組合員とともに第一インターナショナルの名において書かれた作品である。イギリスの労働組合員にとってはこの用語は不慣れな言い方であり、潜在的には驚くべき表現だった。しかし、マルクスがコミューンを特徴づけるやり方とプロレタリアート独裁の機能について彼が他の箇所で表現したことを比較すれば、両者の同一性は明瞭となる。

 エンゲルスは1872~73年に記している。「プロレタリアートによる政治的行為の必然性に関するドイツ流の科学的社会主義の諸見解は(階級廃絶の過渡期としてのプロレタリアート独裁についても)すでに「共産党宣言」において表明されており、それ以降、数多くの多くの機会を借りて述べられているのだ。」1848年の「共産党宣言」においてプロレタリアート独裁の概念は用語としてはまだ使われていず、マルクスが使用したのは1850年1月が最初である。曰く。「労働階級による革命における最初のステップはプロレタリアートが民主主義闘争で勝利すべく支配的位置にのし上がるときである。プロレタリアートはその覇権を、ブルジョアジーからあらゆる資本を徐々に剥ぎ取るため、そして、すべての生産手段を国家の手中に、つまり支配階級に組織されたプロレタリアートの手中に集中するために使われるであろう。」エンゲルスは1858年、J.ヴァイデマイヤー(Weydemeyer)宛ての書簡中で彼の所論で何か新しい要素として「階級闘争は必然的に『プロレタリアートの独裁』へ導き、『この独裁はすべての階級の廃絶ないしは階級のない社会への過渡期をなす』という彼の信念を強調した。

 コミューン後4か月が経過するまでにマルクスがこの語を使った形跡はない。4か月後になってコミュナールの亡命者たちが多数参集した夕食会の席上でマルクスは、階級支配の基礎を除去することが可能になる前に「プロレタリアートの独裁が必須となろう」と述べた。p.205 この時期の彼の最もよく知られた思考形式は1875年の『ゴータ綱領批判』において表わされる。彼はそこで書く。「資本主義社会と共産主義社会のあいだには、前者から後者へ推移する革命の時期が存在する。国家が『革命的プロレタリアートの独裁』としてのみ存在する政治的過渡期がこれに該当する。」

 これらすべての引用文を検討すれば明瞭に浮き出るように、マルクスにとってプロレタリアートの独裁は、完成した社会主義経済がもつところの階級のない社会を意味するのではなかった。それは長期化した過渡期であって、その過渡期において政治権力は労働者の手に渡り、彼らはその権力を、階級の存在のための経済的基礎の破壊のために行使するのである。

 以上のことは、正確にこのような過渡期的体制として位置づけた「フランスの内乱」の第一草稿におけるコミューンに関するマルクスの初期の叙述に対応する。それは、「社会解放、労働手段の独占的簒奪(奴隷所有)から労働の解放を図るための政治的形態」であった。最終稿になると、コミューンは「本質的には労度階級の政府であり、… 労働の経済的解放が作動するような、遂に発見された政治形態であったとなる。…コミューンは、階級の存在が、したがって階級支配の存在が依拠する経済的基礎を根扱ぎにする手段として有効であるはずのものである。」

 私の意見によれば、20世紀のマルクス主義者が時おりそうであったように、マルクスが労働者政府とプロレタリアート独裁を区別したとするのはアナクロニズムであると思う。政治的諸問題への判断において概ねマルクスと同じ見解をもっていたことは両者の往復書簡が示すところだが、エンゲルスがコミューンないしはプロレタリアート独裁の概念を彼の偉大な共同の思想家(マルクス)とは異なったやり方で解放したのかもしれないという見解に対しては私は賛同しかねる。エンゲルスは、マルクスの「フランスの内乱」に関する1891年版への序文の中で、完全に明瞭なかたちで次のように書いているのだ。すなわち、「プロレタリアート独裁 … この独裁がどのようなものに見えるかについて諸君は知りたいか? パリ・コミューンを見たまえ、それこそプロレタリアートの独裁である」、と。