M. ジョンストン著「コミューンとマルクスのプロレタリアート独裁」(その2) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

M. ジョンストン著「コミューンとマルクスのプロレタリアート独裁と党の役割概念」(その2)

 

コミューンは社会主義か?

 1881年、つまり10年前とはまったく異なった雰囲気の中でマルクスは、パリの3月革命の記念すべき弁護論を書いた。彼はオランダの社会主義者F.ドメラ=ニューウエンフイス(Domela-Nieuwenhuis)宛ての書簡で、コミューンは例外的状況下の一都市の叛乱であるにすぎず、コミューンの大多数は思慮ある社会主義者でもなければ、そのようになる可能性もなかったと書いた。この言明はマルクスがコミューンを少なくとも萌芽形態におけるプロレタリアート独裁と見なした ― そのように見えることがあっても ― p.206  彼の元の主張を無効にする見解である、と私は思わない。すでにコミューンが成立している期間中にマルクスは、その潜在的力を実現するのにいかに恵まれなかったかを認めていた。かくして「フランスの内乱」の第一草稿で彼はこう書く。

 「現実の『社会的』共和政の性格はただ一重にこの点にある。つまり、労働者がパリ・コミューンを支配するという点に。彼らの政策に関していえば、彼らは事の成り行きで、主としてパリの軍事的防衛とパリの食糧供給に極限された。」

 「若干の傾向を除けば」、コミューンのあらゆる決定の中にも「社会主義的要素」はまったくない。マルクスは言う。「運動の真の状態はもはやユートピア的寓話の中でぐずぐずしている場合ではない」といった事実を歓迎するにいたるのである。

 「フランスの内乱」においても、また、当時マルクスが書いた他のどんな著作中でも彼はコミューンをフランス銀行の奪取に失敗したがゆえに、批判をしたのではないことは十分に興味深い。じじつ、彼は「コミューンの財政政策はその機敏さと寛大さのゆえに優れていた」との見解を表明した。10年後のニューウエンフイスへの書簡でこの批判をおこなったとき、それは社会政策のゆえではなく、コミューンがヴェルサイユ派を抑制すべき致命的梃子を自ら喪失することになった「政治的」過誤の次元に鑑みて批判的となったのである。「フランスの内乱」で彼は「コミューンの偉大な社会政策は、それ自体が作用を及ぼしている存在である」と主張する。

 しかしマルクスは、その所有者に対する若干の補償と引き換えにすべての閉鎖された作業場を労働組合への引き渡しを決めたコミューンの4月16日の決定で表明されたことを未来に投じることで「フランスの内乱」より遠くに進んだ。かくして、マルクスは「コミューンは、多数者の労働を少数者の富に転換する階級的所有の廃止を意図し」「収奪者の収奪」と共産主義への目標をもつことだと結論づけた。「コミューンの … 多かれ少なかれ、意識的計画としての信用への『無意識的』傾向をコミューンに認めたことはエンゲルスの見解において「正当化され、状況下では必然的でさえあった。」そうすることによってマルクスは、パリの労働運動における社会主義的傾向と要求に関する彼の知識はむろんのこと、社会に関する階級分析を行うことにより遅かれ早かれ労働者の政府に期待するようになった。「生産者によるこの政治的支配は彼の社会的隷属状態の永続化と共存できない」と彼はAddness??において述べている。このような考え方はマルクスにとって何も目新しいことではなかった。それは彼の社会発展の弁証法の本質に属する事がらである。すでに1844年の『聖家族』のなかで彼とエンゲルスは書いている。「あれこれのプロレタリア、あるいはプロレタリアートの全体がその時においてその目的として考える」ことが問題なのではない。問題は「プロレタリアートが何であり、そして、そうであることからプロレタリアートがどのように仕向けられるかである。」「フランスの内乱」の第一草稿でマルクスは言う。「コミューンは階級闘争 ― それを通して労働階級がすべての階級の廃止のために闘う ― を廃絶したのではなく、p.207 コミューンが合理的手段を与えたのだ。その合理的手段を通じて階級闘争は最も合理的で人道主義的な方法でそのさまざまな局面を通りぬけることができる」、と。

 パリ・コミューンはマルクスにとって労働者階級の支配とプロレタリアート独裁の初歩的な形態を意味した。もし彼がコミューン中にパリの労働者のハイレベルな指導能力を歓迎することができたとしても、マルクスは労働者の相対的に低いレベルの指導性 ― それは工業と工業プロレタリアートの未発達状態に関連するが ― について何らの幻想も懐かなかった。彼はこうした考え方をプルードン主義とバクーニン主義のイデオロギーの中に認めた。これらこそ、彼が多年批判してきたと同時に、当時の主として半職人的なパリ労働者間のあれこれの組織において有力なイデオロギーであった。コミューンにおいてマルクス主義者はほとんどいなかった。マルクス自身の組織のパリのメンバー(すなわち第一インターナショナルパリ支部)はプルードン社会主義者であった。当時の反コミューン主義の新聞の物語に反してマルクスは彼らに対して政策を指揮することもできなければ、また進んでそうしようとは思わなかった。

 

党の必要性

 特にパリでは労働者階級の政党(マルクスが久しい前から革命の成功のために不可欠と見なしていた政党)を欠いていた。ヨーロッパの主だった国でこのような党を創設するために、マルクスとエンゲルスはこの点で明瞭に弱点をかかえていた。コミューンの敗退後特に党の創設に積極的に献身した。1871年9月におけるインターナショナルのロンドン会議における9つ目の決議はマルクスにより起案されたインターナショナルの一般綱領に挿入されたが、それは「プロレタリアートの政党への組織化」を「社会革命の勝利とその究極的目標としての階級の廃絶のために不可欠の要件であると書いた。これらの綱領は「労働者階級の解放は労働者階級自身によってなされねばならない」いう宣言でもって始まる。マルクスとエンゲルスにとってこれら2つの概念は相互補完の関係にあり相矛盾するものではなかった。2人は労働者階級の政党を、それ自体分散的な階級からその歴史的利害に関し自覚的な階級にまでプロレタリアートを発展させるうえで必要な段階と規定した。すでに『共産党宣言』で彼らは最も決断的で最も進歩的な階級部隊 ― これに対してこそ、その理論的意識の高度な基礎が与えられる ― としての政党概念を説明していた。しかしながら、このことは全体としてのプロレタリアートに対して家父長的な保護監督の行使を何ら意味するのではない。彼らは書いている。共産主義者は「プロレタリアートの建物を形成し、形づくるようなどんな固有の分派的原理をも提示しなかった」、と。1873年、『住宅問題』におけるエンゲルスの記述はこうだ。

p.208 「政党が国家におけるその原則を確立するため乗り出して以来、ドイツ社会民主党は必然的にそのルールを、すなわち労働者階級のルールに従って『階級統治』を確立すべく努力している。」

 このような政党は弾圧法により地下活動に追いやられる場合を除き、公然と姿を現した。バクーニンとは異なり、マルクスは秘密結社には反対した。そして、彼は第一インターナショナルの内部を一つの意思に組織するようなことはしなかった。世人が言うところの第一インターナショナルの独裁願望をマルクスは非難する一方で、無政府主義的な指導者はその独裁を官僚制的に組織された、責任を負わない秘密結社の支配下に置こうとした。「もし諸君がこの集団的で目に見えない独裁権を樹立すれば、諸君は勝利するであろう。もしそうしなければ。勝利はありえない」とバクーニンは1870年4月1日、その支持者アルベール・リシャール(Albert Richard)に書き送った。これは、マルクスが愛好した公的・民主的組織化と対照をなすものである。エンゲルスの言葉を借りれば、マルクスは「共同行動と相互的討論から確実に行きつくところの労働者階級の知的発展を完全に信頼していた」。マルクスが「長期闘争において状況と人間を変えつつある彼らの解放を成し遂げるうえで」フランス労働階級において固有のものと信じた社会主義的傾向に信頼をおいたのも、この精神があればこそのことだった。これらの闘争の論理は明らかにパリに既存の労働者組織、特にインターナショナル支部、社会主義的政治クラブ、近隣の監視委員会、パリ防衛夫人同盟のような婦人組織から固有の政党を結成する方向に導くのである。