J.A. レート著「コミュ―ンをめぐる漫画戦争」(その4) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

  マルクスはコミューンを天を撃つ襲撃と描いた。何らかの意味を込めて運動に敵対的な絵による宣伝家は、コミュナールが月で象徴される、到達できないものを欲したことに同意したであろう。『鈴』紙の表紙に描かれた「パリの玩具」と題する大判の風刺画を通じてベルタールはパリを、フランスの残り全部を意味する田舎と乳母に対し無理難題を吹っ掛ける破壊的鼠として描いた。水面に月を浮かべるバケツが床の上の破片のあいだに位置する。キャプションにはこう書かれている。

 

 小さな、何でもぶちかまし屋とその下女

 しかし、この忌々しい25,000の若造め!

 一体全体、お前はなにが欲しいのだ?

 おれは月が欲しいのだ

 

 右派の画家たちはくり返しコミューンがおこなった処刑の場面を利用した。これらの処刑を強調することで、正規軍が実行した大量殺戮 ― 大革命時の恐怖政治がもたらしたとほぼ同数の犠牲者を出す ― を霞ませて正当化する。左派の犠牲者がごくふつうの民衆であるのに較べ、右派の犠牲者はいつも聖職者であり将軍であった。建物で二分された匿名の版画はモンマルトルにおける蜂起とルコント(Leconte)およびトマ(Thomas)両将軍の殺害との間にある関連を公衆に印象づけることを狙う。他の画家たちはダルボワ(Darboy)大司教とデゲリ(Déguerry)司教の処刑に関して多数の絵を氾濫させた。この殉教の場面は油絵、版画、カレンダー、ペナント、その他いろいろの媒体となって世に出た。

 右派の絵を普及させる宣伝家にとって正規軍のパリ入城は血の弾圧ではなく、無秩序、暴力、無責任、暗殺、破壊からの解放だった。フランスをパリの劫略から解放する軍隊を描く多くの版画が現れる。バール(Bar)による隠喩的素描では、規模の点で小さく収縮したパリをフランスが慰めている。いわゆる解放の前後において左派と右派では扱いが異なる。コミューンは廃墟と黒いタバコと関連させられた。p.143  解放後のパリは産業の再生、芸術の再興と関連づけられる。空は晴れわたり、もはや社会革命の象徴であることをやめた太陽が光り輝く。『笑いの世界Le Monde pour rire』紙におけるルモ(Lemot)と同様の隠喩はコミュ―ン弾圧を真正の復興として描いた。中央部に翼をもつ共和国が剣を手に握って立ちあがり、一方の側に暗闇、廃墟、遺体、放火女、石油缶が転がり、他方の側に陽光、踊れ狂う芸術、盃をもって忙しく走りまわる給仕、活発に飛び上がる雄鶏がいる。画家マリア(Maria)にとってコミューンの終焉は仕事を通しての自由の回帰を意味した。フランスの勝利を収めた人物が農夫と工夫によって跪かれている。

 すべてこれら視覚に訴える題材は歴史的証拠としてその模倣、特に左派の作品が多く模倣された。ある作品は現実の生きている材料から多くを学び取らなかった。また、住宅、仕事場、工房の場面を扱ったものはなかった。さらにまた、彼らが創造しようとした未来社会の本質を描くよりはむしろ旧体制を風刺するほうが容易であった。これに対する理由の一つは、コミュナールはその幾人かが協同組合的で階級差のない社会を夢想したものの、概して未来秩序について何ら明確な概念を基礎にもとづいて結合したのではなかった。しかし、積極的メッセージが弱かった主な理由は、風刺画が本質的にネガティブな面を突くものである事情に因る。むろん、積極的な要素が皆無というわけではない。p.144  たとえば、コミューンの英雄、微笑みを浮かべる鉱夫、寓話的人物、昇る太陽などがそれだが、それでも、これらは未来的ヴィジョンをはっきり語るものではない。右派にとってはネガティブな武器を翳すことで十分であったようだ。しかし、両派にともに限界をもちつつも、画像を通してのプロパガンダは同時代における歌謡と同じく、当時の雰囲気や時代精神を的確に捉えている。

 イメージを通した戦争はコミュ―ンが余波を引きずったのと同じように、すぐには終わらなかった。右派は新聞、版画、絵皿を借りてコミューンの行きすぎを告発した。ベルタールの風刺画の拡張された翻訳版「コミューン」が1873年にロンドンで出版されたとき、イギリスの編集者は次の解説文を掲げた。

 「この再版がすでに時代後れであるとか、主題と主人公たちがすでに忘れ去られたとかの意見をもつ人々に関していえば、こう言うだけで十分であろう。すなわち、歴史上の真実についてのこのような後れは必ずしも非難さるべきではないし、忘却があってもわが現代文明が共産主義的汚点を拭い去ることはないであろうし、その再発もしくは模倣を抑止できないであろうゆえに、その再発または再教唆が試みられるまえに、p.145 彼らがあったままに描くことが好ましいし、賢明といえるだろう。遠い彼方に黒煙が集まりつつある兆は完全に消え失せているわけではない。」

 

 左派は、その運動の伝統を永続化させるために画像による宣伝を使用した。ロンドン亡命中のダルー(Dalou)はコミュナールを理想化する彫刻作品を創造した。バルトロメ(Bartholomé)、ルジャン(Rejean)、デボワ(Desboy)、ヴェルディエ(Verdier)その他に、ブローチ、浮彫絵、メダルをつくった記念すべきコミューンのメンバーらがいる。ペレ(Perré)は女闘士ルイーズ・ミシェルの胸像を世に出し、ドジェイテル(Djeyter)は「赤い乙女」として彼女を彫り、ジラルデ(Girardet)は彼女の英雄的な功績を油絵にした。ピシオ(Pichio)を代表とする数多くの画家たちは、連盟兵の壁での処刑を記念する作品を残し、その場所を神殿とした。マロン(Mâlon)の『社会主義史』の購入者はコミューンを記念してアンデラル(Andéral)作のポスターを受け取った。そして、『シャンボール・ソシアルChambord sociale』紙のような定期刊行の新聞はコミューンを記念する絵を発行。新聞『ピエールPierre』は「3月18日」と題して、農民と労働者がカルマニョルの輪舞歌を歌いながらデモ行進した。

 カルマニョル隊は報復するであろう

 大砲の轟きよ、万歳

 

p.146  スタンラン(Steinlen)作の他の表紙においては連盟兵の壁の中から死者が這い出るさまが描かれている。壁の屋根の部分にいる死者はなおまだ、赤いコミュナールの飾帯を身に付けている。「これらの死者を見張るには連隊全体が必要だ」。スタンランは正しい。ある意味においてこれらの人々は今日でも生きつづけているからだ。

 

【終わり】