J.ブリュア著「コミューンと国家の問題」(その1) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

J.ブリュア著「コミューンと国家の問題」(その1)

 

p.156  コミューンと国家の問題

 

A.ギュベール

 ソヴィエト連邦の歴史家の名においてパリ・シンポジウムの本企画に参加すべく招待されたことに対して謝意を表したい。

 

M.ダヴィド(David)

  われわれはコミューンと国家の問題を研究するであろう。社会史に貢献するために、本シンポジウムの「手綱を取る」ことを、法学者ではない歴史家に要求することはおそらく偶然ではないだろう。われわれはそれが幸運なのか不運なのかはやがて見出すであろう。可能なかぎり実り豊かな論争が始まることを期待しつつ、私はまず手始めに法律家たちが国家と呼ぶところのものを想起し、法学者と歴史家に従って、国家が多かれ少なかれ存在するにいたった過程を辿ろうと思う。また、同様に出発点として、国家、主権、政府のあいだの何らかの区別を確立したい。

 私は一点のみを強調したい。私見によれば、それは法学者および歴史家のいずれにとっても気をそそるものであろう。コミューン時の国家について語ることは直ちにもう一つの概念、つまり民主主義の問題を取り扱うことになる。われわれは少なくとも2つのタイプの民主主義が確実に交錯するのを見るだろう。人は今まで、それらが過去の歴史おいてどれだけか根を張ってきたかをわれわれに示してきた。その一つは、法学者としての私は国家権力の軌跡にまさしく位置づけられる、上からの民主主義と呼ぶことのできるものであり、ここにおいて今度は国家に基礎をおくことを狙う民主主義ではなく、社会・人民に基礎を置く民主主義であるかどうかを人は問う。しかし、社会または人民は権力の視角からみると、究極的にもう一つのかたちの国家にならないであろうか?

 昨日のシンポジウムで、コミューンにおいて見出しうる多かれ少なかれ一定規模の社会に主義を取り扱った。そして、人は社会主義を語るとき、暗黙のうちに本質的に社会組織と経済組織に属する一定数の基準に依拠してきた。1871年の国家そのものの問題の検討がこの同じ社会主義に関しわれわれが学ぶべき何らかの創造的なものがあるかどうか、私は疑問に思う。

 最後に、今度はコミューンを労働、国民、国際運動の変遷の中に巻き戻すことによって、根本的にいって、非常に多様なイデオロギー的選択を貫いて、われわれが幾つかの国において国際的序列になんらかの転換をもたらすための、恒常的ではあるものの、つねに障害の散りばめられた一種の努力に、つまり、ブルジョア国家権力に立ち向かうかどうかを問う。

 思うに、これはわれわれすべてが少々心にとどめ置くべき問題の全体である。1871年のコミューンの研究はそれを幾ばくか照射することに寄与することができる。

 

 

 

p.157   権力、諸権力、1871年の国家? 

par Jean Bruhat

 

 コミューン百年祭は、墳墓にシャベル何杯かの土をかけることではなくて、探究と反省への道を切りひらく度あい応じて実りあるものを包蔵している。百年祭についてはこういえる。今年、ここかしこでコミューンに捧げられた業績の一覧表が作成されるはずだが、今後はコミューンを取り扱うすべての歴史家は、もはやこの革命を1971年以前にそうであったように取り扱うことができないことに気づかされるであろう。

 いま参集しているシンポジウムが終了したとき、1871年について以前人が書くことができたものを個人的にもう一度やりなおしたいと思わない者がわれわれの中にいるだろうか?

 私はここで国家とコミューンの問題のみに限って述べることする。

 人がこの問いにアクセスするとき、マルクス、エンゲルス、レーニンのコミューン考察からスタートしようとするだろう。私はそれにはたち戻らない。私のみるところでは、単純にそうした考察は一つの革命的経験の理論化として見なさねばならないことになる。こうした理論化は歴史的現実、事件とその概念のあいだの恒常的な往復運動としてのみ把握されうるのだ。

 私はまさしく事件そのもののみに限りたい。事件から適度に離れることなく、また法学者でない一人の人間にそうさせうるほどに明瞭に、幾つかの根本的概念を一掃しようと努めつつ。

 編年史的アクセスが不可欠であり、おそらくは人が1871年3月28日から5月28日までの期間にのみ限定するのはまちがっている、と私は思う。なぜなら、ひとつの革命的時期においてはすべてもの凄い速さで、制度も概念も人そのものも変わってしまうことを忘れてはならないからだ。

 私は2つの概念、すなわち「権力」の概念と「国家」の概念を区別する。なぜなら、私にとって、この時期を特徴づけるように思われる事がらはまさしく「権力」の「国家」への移行であるからだ。ところで、この移行は何よりもまず状況が課したのである。たしかに、私は歴史的先行物の影響を完全には遠ざけてはいないが、諸君は、私がそれに拘っていないことはご理解いただけるだろう。p.158  なぜなら、これら先行物はすでに1789年と1848年を以て2つの情報の対象となったからである。1793年と1794年に関していえば、擬態が明瞭である。公安委員会の設置がそれの一つの証明となる。にもかかわらず、語彙を尊重するとき、おそらく語の罠にひっかからないようにしなければならないだろう。それらが古い用語であったときでも、それらは新しい中身を内包していないか? マルクスはその当時にあって、今日ではすでに陳腐化した評言を発表した。つまり、彼は『ブリュメール18日』の中で書いている。「カミーユ・デムーラン、サン=ジュスト、ナポレオンらの英雄たち、第一革命の党派や大衆はいずれもローマ時代の衣装を借りて偉業をなしとげ、ローマ時代の文章構造を使った」。大革命時代の人々は古代の祭祀において養育されたから、そのようであったのである。アルベール・ソブールはそのことを思い出させる。大革命に関する著作は第二帝政の末期に多数発表された。フランケルのような人物は完全にそのことを自覚していた。彼は、自分をジロンド派として扱ったパスカル・グルッセに答えてこう言った。「キミがわれわれをジロンド派と呼ぶのは、おそらくキミが93年の『モニトゥール』と共に寝起きしているからだろう。それはまちがいなく、ブルジョアとわれわれすなわち革命的社会主義者のあいだにどんな相違があるかキミの眼を曇らせている理由であろう。」

 フランケルの警告(『官報』1871年5月20日号)は歴史家にとっても価値あることを示している。私はバブーフ主義のインパクトにもたち返らない。私はこの点では完全にソブール氏と意見を異にする。私はソブール氏のように、バブーフ主義とブランキ主義の親子関係の問題を主張しない。しかし、「権力」と「国家」を問うとき、幾人かのコミュナールがどの程度革命的独裁、そして特にパリの独裁に関するブランキ的概念に影響されたかを問うのは適切であろう。コミューンより少し前の1869年にブランキは書いている。「結局のところ、パリの政府は地方の政府、したがって唯一の合法的なものである。パリはけっしてその個人的利害にもとづいて居を定めたシテではない。パリは真実の国民的代表である。」コミューンの時代から意識してか、無意識のうちか、パリの革命的役割についてのこの概念に反響する幾つかの公式が存在する。ギュスタ-ヴ・フランセ(Gustave Français)にとってパリは「政治的・社会的変革の仕事においてヨーロッパの戦闘的な首都」である。トリドンにとっても同じく、パリは「フランスの心臓、頭脳」であった。

 一方、プルードン主義の残滓もある。おそらくそれは他のいずれよりもしつこいものであったであろう。明らかにプルードンの影響が問われるとき、人は矛盾した主張に寄りかかるがちだ。p.159  なぜなら、そうした主張(矛盾)はプルードンの著作そのものの中にあるからだ。手短に述べるために、私は単純に、人はプルードンの影響を2つの特徴において認めると提起しておこう。すなわち、国家への不信感と連邦主義的解釈への熱狂、がこれだ。

 したがって、以前からのイデオロギーの影響を否定することはできない。にもかかわらず、これらのイデオロギーは歴史家に知られていることであり、歴史の実際の運動における使者とか伝播者とかより考える者はおそらく、1世紀の隔たりをおいた歴史家の概念よりも不鮮明な概念を保持したといわねばならない。私はあまりにも厳格な分類には警戒心を懐いている。私はジャック・ルージュリ氏と同様に、シャルル・リス(Charles Rihs)氏によってかつて提案された非常に厳格な区別を取りあげねばならないと考える。私は、M.バンカル(Bancal)を尊敬はしているけれども、彼に付いて行こうとは思わない。彼は雑誌『自主管理と社会主義』(1971年3月号)の記事中で、われわれに対し「プルードン派の精細な調査」をためらうことなく提供する。この調査によれば、「少数派」の中に21人のプルードン主義者がいた。列挙してみる。ヴァルラン(Varlin)、マロン(Malon)、テース(Theisz)、アヴリアル(Avrial)、ルフランセ(Lefrançais)、クールベ(Courbet)、クレマンス(Clémence)、ランジュヴァン(Langevin)、ロンゲ(Longuet)、パンディ(Pindy)、ヴァーレス(Vallès)、ヴェルモレル(Vermorel)。3人の「相互主義的プルードン主義」としてのベレー(Beslay)、ジュールド(Jourde)、ヴィクトル・クレマン(Victor Clément)。そして、3人の「プルードン主義的集散主義者」としてA.アルヌー(Arnould)、アンドリュー(Andrieu)、トリドン(Tridon)。3人の「同調者と推定される」者としてオスタン(Ostyn)、E.ジラルダン(Girardin)、アルノー(Arnold)。彼らの外さらに「多数派の極めて偉大な人物の中から」「2人の優れたプルードン主義者ヴァイヤール(Vaillard)とガンボン(Gambon)」、それに「一見したところではそうは思われないのだが、一端のプルードン主義者」たるドレクリューズ(Delescluze)をつけ加えねばならない。上掲の名前の一人ひとりが問題を生み、正当な論議を呼び起こすであろう。私としてはこのような分類にほとんど賛同できない。私はこの立場から抜け出た。探究の立場からいえば、コミュナールをあれこれの旗のもとに分類するためにプルードンやブランキに従っての演繹法を採用するのではなく、逆行的方法を使いコミュナールそのものに従って、以前のイデオロギー的先行物にこれら動機づけを決定したほうがよい。ごく稀な例外を除いてコミュナール一人ひとりがこうしたイデオロギー的影響の十字路にいることにおそらく気づかされるであろう。

 しかしながら、私が歴史的先行物の重さから遠ざからないとしても、また、以前のイデオロギーの重さを忌避しない ― この態度は私にとってより重いと思われるのだが ― としても、それは状況の重さであり、局面の必然性の至上命令である。イデオロギー的インパクトに加えて、多くのコミュナールを「彼らの学派の教義が彼らに命じた事がらの正反対のことをなすよう」導いた政治的実践を付加する必要があり、また、しばしば対置する必要がある。

 ヴァルランのような人物は古いかたちの政治をうち壊す必要がある、とこのように強く考えた。ルージュリ氏はその著書『自由なパリ』の中で「ラ・マルセイエーズ」(1870年3月11日号)に掲載されたヴァルランの記事を引用する。1行欠落しているp.160 (私はすぐさまこう思った。著者が自由に使うことのできるスペースの限られたせいだと)。ヴァルランはこう書いている。「わが政治家たちは個人統治の政府に代えて『オルレアン』ふうの議会政治的自由主義政府を置こうとつとめ、また、このようにすることによって彼らの特権にとって脅威を与える革命の進行を逸らしてきたが、われわれ社会主義者、すなわち優れていて、すべてについて古い形態の政治は人民の要求を満たすのに不十分であることを熟知しているわれわれは、敵の欠陥と失策を利用することによって解放の時を早めなければならない。われわれは革命に課された社会的変革の事業をより容易に、かつより確実なものにするために、未来社会の組織を準備すべく積極的に努力しなければならない。」

 われわれがヴァルランの論文の残りを参照すれば、われわれは以下を知るだろう。そして、この点では私はルージュリ氏と意見を同じくする。つまり、ヴァルランにとって組織的要素は存在する。それは特に「労働者協会」である。しかし、コミューン前夜において最も影響力をもつていたこのミリタンの記事を読めば、人は次のことを確認するにちがいないし、それはまた至極当然のことだろう。つまり、古い形態の政治を破壊するという彼の計画は少々短く、いずれにせよ不確実である、と。ところで、コミュナールは問題をもっと細かく解き明かさねばならないであろう。