討論【Ⅱ】(その4)
M.マスカン(Maskin)
モワッソニエさん、あなたは地方のコミューン運動とアルビジョワの運動の共通する特徴に関してはひと言も述べなかった。当然のことながら、アルジェリアの運動においては排外主義と植民地主義の局面があった。しかし、フランスとその植民地のあいだに起きた事件に多くの類似性を認めることができる。アルジェーにもインターナショナルの支部があった。ヴェルサイユに反対し、パリコミューン賛成のキャンペーンが広範に展開された。
M.モワッソニエ
そのケースは極めて特殊である。アルジェリアに対するフランス植民地支配の問題がある度あいに応じて、ヨーロッパ人の野党が首都とアルジェリアで時を同じくして爆発した運動において完全であった、とあなたが言うのは正しい。それは少々特殊な条件をつくりだした、と私は思う。
J.アルシェ(Archer)
私はリヨンの問題にたち戻って論じたい。ある点について私にはなお興味深いをかんじている。1869年にインターナショナルが異常人気だったことが確認される。1869年夏、ストライキ中の絹撚糸工がそれに加盟した(一説では加盟者は8千といわれる)。インターナショナルはまた事務労働者、青銅工からも加盟を集めた。その当時、リヨンのインターナショナルは非常に人気があった。13か月後(非常に短期ということになるが)インターナショナルは孤立した。2つの意味で孤立したのだ。第一に、急進派からの分離がそれだ。このことは1870年9月5日のある書簡において明瞭に表明される。すなわち、インターナショナルの指導者たちはパリに対し、自分たちはリヨンの公安委員会の70人中、僅か9人しかいない、自分らは非常に孤立しており、組織化に失敗した、と書き送った。労働階級からさえ孤立した。バクーニンは9月28日、インターナショナルにリヨン市役所の制圧を求めた。その事件は大失敗し、市立工場にいる大多数の労働者によってすら叛徒の要望に応じる者はいなかった。
われわれが3月22日のリヨンのコミューンについて考察するとき、やはりインターナショナルが孤立している状況を見る。市役所における臨時委員会のために群衆は拍手によってヴァティエ(Vatier)、クレスタン(Crestin)、デュラン(Durand)、ペレ(Perret)、ヴロワ(Veloy)らの市議会議員を指名したが、そのうちだれ一人として臨時委員会に加わらなかった。また、外にガスパール・ブラン(Gaspard Blanc)、コロナ(Colonna)、ペラトン(Perraton)、シェッテル(Schettel)らのインターナショナル派がいた。彼らは指名され、この就任を受け容れた。だが、バクーニン派といわれるガスパール・ブランとペラトンはこの臨時政府の中心に位置していない。シェッテルもいたが、p.150 ガリバルディと会見のために派遣されていた。それで、彼はリヨンのコミューンの会議には参加していない。
1871年4月30日、ラ・ギヨティエール事件を再度取りあげよう。その当日、結成された臨時委員会を構成する9人においてグレゴワール(Grégoire)、ベルジュロン(Bergeron)、ガスパール・ブラン(Gaspard Blanc)、ブーレBourret)、タキュッセル(Tacussel)、ベレア(Belléat)、ベレ(Bellet)、オデアール(Audéard)など、非常に興味深い取り合わせが見られる。つまり、第二帝政下の共和主義的反体制派のごた混ぜである。ベルジュロンは1862年ロンドンに派遣されたことがある。彼もまたプルードン的傾向をもつインターナショナル加盟員である。ガスパール・ブランはバクーニン主義者、ベレは急進共和派、ラ・ギヨティエールの叛乱コミューンはじっさい単一の集団ではなかった。コミューンは共和主義運動にほとんど根をもたない孤立した人々から成っていた。彼らは共和主義者、急進派を前にして孤立していたが、同時に大衆を前にしても孤立していた。なぜなら、もし数を検討するなら、すなわち、1870年9月28日の運動を支持した人々の数、1871年3月23日のコミューン運動の支持者の数、1871年4月30日のコミューン支持者の数を検討するなら、幾百人という数、確実に1千人以上を数えあげることができる。
もうひとつ、大きな問題が残っている。なぜこうした孤立が生じたか?の問題がそれだ。この問題がわれわれの研究によって解決されることを希望しておきたい。
M.モワッソニエ
諸グループ、とりわけインターナショナルによって執られた政策を徹底的に研究しなければならない、と私は確信する。リヨンにとってじっさい、1869年のインターナショナルの突然の成長があったことに注目することも併せて重要である。このことは1964年のAITに関する進歩ジウムの席上で、J.メートロンにより提起された問題、インターナショナルの「ミリタン」の根底はだれであったかを知る問題に還元される。リヨンでの加盟者の膨張はさまざまな労働結社の大量の集結、ストライキにより本質的に惹起された集結に起因する。爆発的な膨張は組織化計画にもとづいて、新しい何かによって、異なったコルポラシオンが代表される連盟部(Chambre fédérale)の出現によって表現される。そこから一種の酩酊状態が指導部を襲う。おそらく彼らはそれと同時に、より多くの不平を述べたて、たとえばスイスから彼らの許に届いた助言を耳にしているはずである。1870年9月13日、Schwitguebelの仲立ちでRotondoでの有名な会合がおこなわれたとき、バクーニンの有名な手紙が彼らに、急進派とのいかなる盟約も回避するよう勧めた。バクーニンは言う。「彼らの政策は血のように赤く。熱い鉄のように燃えている。諸君は混乱を来すであろう・・・」と。 アルベール・リシャ―ル(Albert Richard)の圧力でインターナショナルは急進派と縁を切った。そこにかなり興味深い何かがあり、バステリカがリシャ―ル宛ての書簡で次のように言ったのは偶然ではなかった。つまり、「われわれの処ではインターナショナルとブルジョアジーの関係は異なっている。しかし、われわれは諸君らと同じく、1831年、1848~49年を経験していない。」このことは明らかに真実である。思うに、これらすべては計算に入れられていた。しかし、一般的政策はインターナショナルによって9月28日までは追求された。その政策が諸君もご存じのように、マルクスからビースビー(Beesby)教授宛ての書簡で1870年10月25日「冒険主義」として非難されることになる。
p.151
J.ガイヤール
なおもう一言申し述べておきたい。おそらくは組織上の困難があったであろうことも考慮すべきである。インターナショナルの影響と組織のあいだには明らかに時間的なズレがある。インターナショナルの運動がリヨンで四方八方に伸びている1870年1月20日、リシャールが『ラ・マルセイエーズ』紙に対し、抵抗協会を立ち上げるための細かい技術的情報が欲しいと訴えているのを見て、私は驚いた。それはパリとルーアンをモデルとして大急ぎでリヨンでも組織されていたはずである。労働者たちは団結するために彼に照会したが、彼はどうすべきかを正確に知らなかった。組織においては明瞭なたち遅れが見られる。
M.モワッソニエ
あべこべにヴァルランがリシャールをこの方向においてより良い方向づけをめぐって質問攻めにして困らせたのはこの時である。しかし、リシャ―ルを問題とするとき、組織計画や労働者との接触計画においてまさしく問題があった。リシャ―ルはむしろ食み出しに生きており、組織家ではなかった。ミリタンとしての活動に関してはヴァルランと彼を比較しても意味がない。リシャ―ルは理論家としての自負心をもっており、労働者環境では認められなかった。このことはリシャ―ルがぶつかった諸困難の幾つかを説明する。さらに、最終的に「リヨン連盟」が結成されたとき、彼は遠ざけられたようであり、リヨンのインターナショナル指導部から姿を消さねばならなかった。
【終わり】