F. ジュブロー「コルベール研究」(6) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

 第2章のつづき

 

p.293

第7節

1.利子率規制

2.商人に与えられた貴族の称号

3.貴族は商業活動を許可される

4.祝祭日の縮小

5.国王の恩賜

 

1.利子率規制

 コルベール以前においては国家の借入金は非常に高い利子率でおこなわれていた。私人の借金はさらに高い利子で条件でおこなわれた。こうした高利の習慣が根絶されないかぎり、商業・農業・工業の発展をみることはできない。コルベール自身が苦労して起草した1665年12月の勅令はわれわれにその動機を説明してくれる。第一に、当時の法廷利子率は18分の1(5.5%)だったが、彼はそれを20分の1(5%)に切り下げたことに注意しなければならない。17世紀の人々にとって当たりまえだった高い利子率は単純に懶惰の傾向を助長した。利子をつけて貸借することから生じる便益は、労働につきものの労苦をすることなく、利益にありつけるという利点をもつ。したがって、高利による儲けというのは、懶惰に対しての気遣い、労苦、計画、知恵が必ずしも最も勤勉な労働に保証するとは限らない金銭上の機会を追求することを欲するのか? 懶惰をうち壊すことが上記勅令の第一の目的であった。コルベールはこの懶惰を極端に危惧した。コルベールは資本や嫉妬深い者を誘惑して国家の繁栄のために寄与させることを望んだ。次に述べる第二の目的は第一の目的を補完するはずだ。

 懶惰の恐怖に次いで、この勅令を規定する第二の念慮は商業、工業、農業の利益である。公共の繁栄をもたらす他の要素と同様に工業は、企画人が非常に低い5.5%でのみ借金できるかぎり、飛躍的な発展を期待できるだろうか? コルベールの眼は絶えずオランダの繁栄に注がれていたため、わが国が劣っている最大の原因は両国間における利子率の違いにあることを悟っていた。フランスで5%であるのに対し、オランダでは何と!3%の利子率で多額の借金をしているのだ。p.294  こんな状態ではわれわれが競争相手をうち破り、その商業を破壊し、その農業を同等にするためにわれわれはいったいいかなる希望をもちえようか?

最後に3番目の目的は銀の実際上の価値に起源をもつ。あらゆる商品と同時に貴金属は市場の影響を受けた。そして、その価格は銀の需要と供給に比例または反比例し、下降または上昇した。 国王は1665年12月勅令のなかでこう語る。すなわち、「銀の価値はインドからきてわが国に散らばる量により酷く下落するため、銀と下落する商品とのあいだに何らかの均衡をもたらすべく利子を低める必要がある。」この勅令は厳しい内容を含んでいた。つまり、その違反は公証人や公正証書係の解任をともなった。・・・ 高利貸しはその資金の主要部分を剥奪される処罰を受けた。

 コルベールによる規制についての評価は官僚と法学者のあいだで分かれる。利子が合法か非合法化の問題については意見が分かれるのが通例であり、その問題がつねに適用の場面で直面する困難さや重要性が十分に証明する。p.295 商業行為における利子規制が民事行為における利子規制によって掻き立てる敵意に遭遇するとはいえ、前者の不評は必ず後者の上に跳ね返る。そして、この争いはあらゆる虚偽の思想と同様に害悪をつねに悪化させがちである。偏見の他の結果はこうだ。高利での貸借は利子が禁じられた場合のほうが(貸付側にとって)好都合である。なぜというに、そうした禁令は借り手に有利にはたらくどころか、貸主の無理な要求を合理化する。こうした真理はコルベール以後になって初めて知られるようになった。したがって、自然科学がコルベールの執政以来、明らかにし、今日の生産力をもたらした秘密のそれについてと同じく、彼の無知という罪に帰すのは無茶な話である。当時は規制のやり方が高利を止めさせる唯一のベターな方法であったのだ。資本はあらゆる力と同じように、そうした資本が稀少性に由来する力を頼みの綱とするだけに、厳しい要求をおこない危険ですらある。この理屈でいくと、当時は高利による貸借が矯正され、規制の歯止めとなった。したがって、利子率の規制は当時望ましくなかったとは言いきれない。行政がまちがったのは、この厳格さに因るものではない。・・・ 本来からいえば、規制は一時的であるべきはずなのに、それに永続的な性質を与えたところに誤りの根源がある。資本が稀少であるとき、資本の運用を求める者がいなかったり、逆に資本需要に直面したときは法外な要求にまで背伸びしたりするものだ。そんなチグハグ状態は工業には時おり生まれるのだ。

p.296 国の歴史はすべてこの真理に一致する。ローマ時代の初期、利子は極度に高かったため、法律によって債務者を救い出す必要があった。国家が繁栄し、富を蓄蔵する時には利子は下がる。そうした時は誰ももはや規制を必要としないものだ。変化が或る地方から他の地方へと広がっていけば、このことはこの時代においてわが国が非常に後れている証拠であるため、利子は或る処から他の処への富の移転、資本価値の流通を物語る。・・・ しかし、長いあいだ誤謬が支配し、偏見がかくも根深く沁みとおっているため、完全に勝利を収めることはできない。聖書の誤った解釈、福音の慈善的勧告は利子問題への接近の妨げとなった。規制が商業行為に干渉する場合や、あるいは資本の移転の場合を除き、利子は厳格な法律によって禁止され、民法がその厳格さを増幅した。テュルゴーはわが国で最初にその誤謬を正し、精神を真理にまで導くという栄誉をもった。そして、その改革がなおまだ法律の形に書かれていなかったにもかかわらず、真理への道は世論批判のかたちで示された。じっさい、なぜ他のすべての事がらと同じように利子を付けて金銭を貸すという契約がなされないのか。なぜ資本は潤沢あるいは稀少性が価格を修正できない唯一の価値なのか? え、なんだって? 時代、安全、目標、隔たり、保証または射幸的機会などの諸事情が必要とされるというのか、または供給される事物について合理的に作用するというのか。貨幣はそうした影響を蒙らない唯一のものであると言いたいのか? しかし、貨幣は他のすべての者と同様に、商品ではないというのか?

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2.商人に与えられた貴族の称号

 この世紀の人々に決定的な影響を与えたのは、1世紀間を支配した思想に満足を与えることだ。ところで、17世紀には貴族称号の授与はあらゆる報奨のなかで最高で最も喜ばれたものである。虚栄心のみが受爵の動機であったと考えるのは誤りである。受爵者は、それを得ない者と較べ目立つことによって高い地位に就いたのではない。その大権をもつことで彼は契約上の優位、タイユ税の免除 ― 当時は非常に重要な特権であった ― が非常に不幸な結果を見る以上により実際的でより積極的な意味をもつ何ものかであった。

 時宜を得ていたかどうかの関係でいえば、それが誤っていたとはいえない。ルイ十四世が繁栄の3要素に入れたのは軍隊、文学、商業である。文学は国富の発展に対してよりも文明の発展に対してより大きな影響を与えた。人が何といおうと、軍隊の栄光は光輝であるのと同時に不毛でもあるが、これを支えるには財政の好ましい制度に基礎を置かねばならない、したがって、より詳しく分析してみれば、ルイ十四世がその治世を著名にすることに負っているのは商業に対してである。コルベールはそのことをよく理解していたし、テュレンヌをその軍事的名声を認める称号で飾ったとき、彼の主人(=国王)のあらゆる負債を一掃した。p.298 彼はラシーヌやボワローに年金という名誉を与え、ゴブランやヴァン・ロベ、カドーを貴族として叙勲し、コルベールの執政がフランスのためになしたこの繁栄の少なかざる貢献に対して報いた。

 

3.貴族は商業活動を許可される

  商業および海運総監(Surintendant du commerce et de la marine)に任命されたリシュリューは幸運にも貴族を貿易に従事させる思想を懐いていた。このため、彼は1629年の布告においてこの商業は絶対に貴族の爵位喪失をもたらさない旨を宣言するだけで十分だった。この宣言は巧妙であるのみならず、資本が貴族の許に集中されていた時代においては絶対的に必要な宣言であった。残念なことに、この布告はリシュリューが期待したほどの効果を生まなかった。ルイ十三世治下の戦争、リシュリューの執政を継承した執政の失敗、ルイ十四世幼少期の内乱、これらすべての要因が布告の効果を無力化したのである。したがって、コルベールは1629年の宣言を急いで更新し、そして1664年12月5日、彼はすべて貴族(gentilshommes)法服・他の貴族 … が海上貿易に従事するか、あるいはそれに関与することを許可した。海上貿易に関わっても貴族の爵位を失うことはないとした。

 商人の叙勲と貴族に与えられた商業行為能力付与のあいだの相関関係はきわめて厳密であり、そのため注意すべき点がある。商人に与えられた貴族爵位の授与はそれが結果として新しい威厳と古い職業のあいだ、世襲的特別待遇と商業のあいだ、原因と結果のあいだの分離を宣したとしても、それは形式的な逆行観念(contre-sens)であった。コルベールは商業を回復することによってのみ、p.299 彼の予期するところの償いと結果を一致させることができた。すなわち、彼は諸国との合従連衡をくり返した。貴族爵位の法規という旧来の思想をあくまでも堅持すれば、最も賞賛すべき成功を危険に曝すに等しかった。われわれが見てきたように、当時はほとんどすべての資本は貴族の掌中にあり、そのうえ、偏見がそれら資本に不毛性を与えた。革命は、それがいかに有効なものであろうと、もはや容易なものでもなかった。商人を貴族に加えること、それはそれほど難しい変身ではなかった。重要なことは貴族を商人にすることのほうだった。このような転換の進行は特に手の込んだ手続きを必須とした。コルベールは自己の非凡な明晰な頭脳を駆使し、その計画の重要性にふさわしい能力を発揮した。

 この時代の貴族にとって唯一の職業といえば軍隊であった。商業は彼らにとっても最もふさわしくないと見なされた。偏見に対し真正面から攻撃したのでは失敗するのは不可避とみたコルベールは偏見を脇に逸らすことから始めた。つまり、海上貿易は世論のすべてを支配している偏見から外れていた。海上貿易は戦争の危険と裏表の関係にあったし、しばしば戦争を思いださせた。それは情熱を呼び覚まさせ、兵士のあらゆる資質を要求する。こうして貴族たちはこの海上貿易には嫌悪の眼を向けなかった。・・・ どうすれば、人々が自ら進んで海上貿易に乗り出すか? 貴族爵位の剥奪への嫌悪があるゆえに、繁栄を放棄してまで合法的に利得にありつくという罠に貴族を近づけさせなかったのだ。外国領土に船荷が搬入されたとき、通常の商品と同じく貿易商人の排他的資格によって輸送された物品を売却しなければならないなら、なぜ必然性に駆り立てられることが絶えず起こるだろうか? バカげた偏見が赤面させる物事をその国から遠ざけるという習慣はやがてこれら無駄な躊躇を払い除けるであろうか? p.300 諸君を外国人に対して辱めないものがどうして諸君の国の真只中になると、諸君を辱めるというのか?

 海上貿易の再建は他のあらゆる再建につながる傾斜のようなものに似ていた。したがって、1664年12月5日勅令に1項目に新たな条項がつけ加えられた。1669年8月の勅令は貴族に対して海上貿易のみならず、卸売商業に従事することを許可し、もっとも穏健な手段でもって国家の習俗中でもっとも深遠な革命を導くことになった。コルベールの生涯はこれに似たような特性で満ち溢れているのだが、世人はこのことにあまり注意を払ってこなかった。以上が今まで見過ごされてきた政策の転換点であった。その結果はきわめて原理に近接しているため、それ自体が原理であると混同されがちである。

 

4.祝祭日の縮小

 商工業は市民社会と同じ庇護のもとに育成されてきた。すなわち、両者はその揺籃の中で宗教の習慣や繁栄よりも道徳について、現在よりも未来について、世紀の実在よりも永遠なる希望について支配される敬虔の慣習を含むということだ。各々の団体はパトロンをもち、彼は特別の事務室により祭日を祝い、少なくとも1日の労働を中断させる。これら特別の祭日以外にも教会は多数の祭日を制定し、その当日は神に対する献身を命令し、労働を禁止した。国民のモラルに関する物ごとについて絶えざる熱情をもって宗教的感情、私的美徳の源、野心の抑制、犠牲的精神の修養を養う。これら敬虔な習俗をいくら論議しても無駄なことである。p.301 しかし、これら国民的活動の停止が繁栄に致命的影響力をもつことはまちがいない事実である。労働のために宗教的感情を退ける必要はないとしても、宗教的感情のために労働を退ける必要もない。つまり、前者と後者は社会生活において傑出した地位と場所を占めている。神の目からすれば、労働は祈りの長所をもつと言うのは誇張である。しかし、労働が精神的修養の有力な手段とみなされるとき、それは真実である。コルベールが見事に理解していたのはこのことである。

 祭礼をもたない宗教はない。祭日を敬い、労働の停止によってそれを祝うという義務 ― これは所与の思想の中で必然的に祈りを導くことだが ― はしたがって、宗教的感情の維持を絶対的に必須とする。しかし、これら祝祭日が多すぎるという濫用を惹き起こす。そのことは強制された失業といった恐るべき面倒事を、つまり、産業社会の最も忌むべき慣習の一つを積み残す。コルベールが生きた時代の宗教が何であれ、祝祭日の濫用に対する人民の口を通して文学者の著作に入り込んだ。ラ・フォンテーヌは彼の優雅な寓話のひとつの中で、財務長官が完成することを望む以前にその改革の必要性を力説している。〔以下韻文 … 略 …〕p.302

p.303

5.国王の恩賜

  生産は政治経済学の語彙の一つで、既知事項(与件)の一つにすぎない。すなわち、消費が欠けているならば、生産者は価値の上に価値を積み重ねてついに空虚感を覚える。したがって、消費は発見するのが非常に困難なもう一つの方程式である。経済的事実の秩序においてその本性を見出しがたいため、生産と消費はそれが個人または国家の繁栄の発展において享受する役割に関連して考察されるとき、互いに結ばれている。前者も後者から分離されると、それらは2つの工業上の疫病、すなわち過剰または欠乏を生みだす。両者が統合されると、それらは社会的諸集団に豊潤と繁栄をもたらす。そして、おそらく市場問題は生産の富よりも人民の富に対してより大きな影響を及ぼすであろう。すなわち、さほど売れないことを見越して乱造するよりも作ったものを売るようにしたほうが遥かに理に適っている。これは少なくとも最も賢明な経済学者の見解である。イギリス風の名称をイギリスの疫病に与えるためにコルベールが「供給過剰 general glut」という深刻な問題を解決しなかったとしても、彼はもし彼が生産の捌け口という重大な問題を無視したならば、この政策は毎年、多量の商品を買い取ることを習慣としてこれを貴族や宮廷夫人に贈与した。この政策は非難の的となる。なぜというに、必然的に一時的にはこのような政策は人為的な発展を産業に与えるかもしれないが、その発展はこの政策の遂行によってのみ無理やりもたらされ、この政策と一緒に死滅するからである。p.304 しかし、人々は以下のことに注意を払わなかった。つまり、奨励=組織された産業に対する危険は生命がまだ存在しないとき、生命を甦らす手段であること、そして、コルベールの執政下とは異なった今日ではすぐに取りかかる必要があるにしても、それはまったく異なった時代において彼によって実施されたという理由で彼を非難するのは当たらない。その時代はその実施に対して影響力をもつ。自由はあらゆる事がらに相応しい制度ではなかった。同様に、奨励もあらゆる専業制度に迎合する制度ではない。ルイ十四世の時代、つまり奨励を必須とする時代に人々がわが身を置いたならば、彼は実際に商業を規則正しい資源に委ねる方法を採るであろう。・・・ ルイ十四世こそ、マニュファクチュアと商業の創設者の資格を、産業の後援者という極めて貴重な新しい資格を設けた人である。一方、コルベールは主人の寛大な態度に合図以外のものを要求したのだろうか? 国家の首長の例がこれこれの影響力もった宮廷において、宮廷人に対して国王のモデルという優れたモデルを勧めるのは優れた手だてではなかったか? だが、これは不完全な説明である。コルベールによって推進された政策においては、何ぴとも敬意をはらってこなかった知恵がある。事実を隔離させることによってそれは誤解を招きがちである。国王の性格が彼に与えられた相談役から分離するとき、必然的に生起するのが上述のことである。度量が大きかったため、王は己の賜物の見事さ、あるいは己の征服の偉大さによってその力を示す必要性を試した。したがって、王の2人の有力な廷臣ルーヴォワとコルベールの大きな仕事というのは芸術と平和の崇拝および国内的繁栄の発露によって保証されたこの傾向に出口を与えることだった。p.305 主君の弱点に通じていたコルベールはルイ十四世の全生涯をつきまとい苦しめた虚栄癖の必要性を心中内にとどめることを願っていた。コルベールが財務長官として多くの行為を説明するのを求めたのは、国王の性格について十分に周知していたからである。このようなことがなければ、コルベールは、たとえば管理場所のおとぎの国としてのルーヴル宮、ヴェルサイユ宮、マルリー宮その他多くのものを説明せずに終わったことであろう。ルイ十四世が何百万リーヴルを施すのを防ぐのは不可能事だったため、王の軍事的偏執を褒めたり、治世末期の恥辱や敗北を準備したりする豪勢な馬上試合においてそれを使いはたさせるよりも、国家の商品をプレゼントしてそれらを消費させたほうがよかったのだ。コルベールはこうした王の性格を十分に知悉しており、・・・ 攻略、戦闘、征服というこれら輝かしい夢について国王の考えを逸らすためには、国内的繁栄のすばらしさの上に国王の意向を固定し、王国のポンプの酔い心地の性格を変えることが必要だった。以上がルイ十四世に、宮廷の臣下にプレゼントを施すことを習慣づけようとしたコルベールの目的であったのだ。