コルベールの生涯と執政の歴史(12) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

第10章のつづき

 

13.レヴァント交易の衰退因

 しかし、こうした状態が永く続かなかったのは事実である。第一に、他のキリスト教国もそれぞれの国旗のもとにレヴァント交易を開始し、領事的支配を展開した。しかし、まもなくフランスを悩ませる国内騒乱〔注:宗教内乱〕が外国人に対して他の権利を呼び覚まさせた。ヴェネチア人、イギリス人、オランダ人などが先を争ってトルコとの通商条約を結んだ。それのみならず、これらの国々はフランスが拒絶された関税に関して2%の削減を得た。それと同時に、かつての条約によってフランスに与えられていたすべての担保は公然とかつ不都合なことにひっくり返されてしまった。

 レヴァントにおいてフランスの商標を破壊するのに時間はかからなかった。そして不幸にして、こうした衰退の原因はそれだけではない。最も有害な原因の一つは悪質な領事の就任と彼らの強欲にあった。1664年12月12日の法令はこの点に関し最も決定的な情報を提供している。同法の序文は言う。かつて、「世界中で最も繁栄し、有力で王国内に豊潤と富をもたらした」レヴァント貿易の破滅は以下の5つの主要な原因に由来する、と。

 ① 国王によって任命された領事は義務を履行しなかった。

 ② この職務が領事により最高入札者に請負に出され、落札者がそれを履行しているかどうか照会されることはなかった。

 ③ 大部分の請負業者は保証を与えず、私腹を肥やしたいという貪欲と願望があったとしても、それはあながち不当なことではない。p.250 

 ④ 布告や規制に反して彼らは権力を濫用して自分のために交易をおこなった。

 ⑤最後に、トルコ政府がフランスを服属させる罰金を支払うという名目で領事はレヴァント諸港をしばしば訪れる幾人かの商人から成る会合の場で各船舶に2,000~3,000ピアストルを課した。

 この法令の結論はこうだ。

 イ.領事はコルベールにその資格を返還すべし。

 ロ.特別の認可なしに己の職務の本文にたち返るべし。

 ハ.商業行為は放棄すべし。

 ニ.法の定めないいかなる賦課もこれを課してはいけない。

 

14.領事へのコルベールの回覧状

 暫くしてのち、コルベールは絶対的かつ例外なく代理人による職務の執行を厳禁した。次いで、1669年3月、コルベールが海運・商業の執務に就いて数日後、彼は領事全員に回覧状を渡し、政府が彼らから期待すべき業務を報告し、彼らが提出すべき情報を主に誰に渡すかを報告させた。

(a)彼らの居住地や隣接州の政治の監視

(b)食糧マニュファクチュアの点検

 必然的に領事は政府に対して戦争または平和について何らかの影響を及ぼす可能性のあるすべての事がらについて報告する義務を負った。最後にフランスおよび大公諸国イタリアを経由する5スーフランス銀貨の輸出について特別の奨励がレヴァントの領事に対してなされた。p.251  5スーのフランス銀貨はトルコ人にとって非常に美しいもののように思われ、彼らはその実質価値の5~6%をそれに与えていた。これは贋金づくりによって魅力的な機会を提供した。彼らはこの機会を逃さずこの金貨の符号を変え、トルコにもっていって5分の1だけ価値を減じた。こうした詐欺をおこなえば、レヴァント貿易が復興するかに思われた。したがって、コルベールは大急ぎで領事に、こうした方法について入念に調査し、毎年、王国内の非常に多額の資金を引き出し、オランダやイギリスのマニュファクチュアを利し、わが国のマニュファクチュアをまったく破滅させる無秩序状態の存続をどうしたら妨げることができるか、その方策を調査させた。

 

15.1666年頃の各領事館制度の所産 〔該当箇所が特定できず〕

16.領事によって収納される税の削減 〔該当箇所が特定できず〕

 

p.252

17.レヴァント貿易の再建のためにビザンチン駐在仏大使へのコルベールの訓令

 しかし、1664年以来、コルベールによって採用された多様な方策はそうした害悪を補うには不十分だった。他方、ビザンチン駐在のフランス大使は、自分に与えられた訓令をかなりまちがって受け止めた。というのは、彼に対してあらゆる処から苦情が寄せられ、そして貿易で私益を図ったかどで告発されたからだ。1670年、この大使は更迭され、ド・ノワンテル(De Nointel)が彼に代わった。コルベールが彼に与えた訓令はその前任者がかつて受けた訓令と同一のものであったようだ。

 ド・ノワンテル大使への訓令はさらに一覧表のかたちでコルベールがフランスの貿易の減退と外国による貿易の増大について記した種々の原因を喚起する。ここにその一覧表がある。

 

フランス人について              英人・蘭人その他の外国人

トルコが当初約束を破り他国民と交易を始めた  より有利な交易が許された

王国は長い間内乱状態にあった                     国内的平和に恵まれた

前任大使は商業への熱意を欠いた        商業に非常に熱心だった

海軍力が弱体化した              英蘭の海軍力は強大だった

マニュファクチュアの衰退           マニュファクチュアの繁栄

トルコ王朝に長期間大使を派遣しなかった p.253  大使を常駐させた

大公諸国に5%の関税を支払った        3%の関税を支払った

仏人迫害があったが大使は誤った処断をした   領事の適正な行動

マルセーユ商人の悪意             貿易商人は誠実であった

レヴァント諸港で2~3%のCottimo税を支払った 何も支払わなかった

マルセーユでCottimo税は過重な負担だった   彼らは何も支払わなかった

現金取引に縛られた              製品での現物交換

 

18.マルセーユ港は1669年勅令により自由港を宣する

 ド・ノワンテル新任大使への訓令は以上述べたとおりである。コルベールは同時に最重要な決定をした。マルセーユ港はかつて自由港を宣せられたが、そのために新しい輸入税と輸出税が課されていたため、ここを起点とする国内貿易は非常に大きな制約を蒙った。1669年3月の勅令はこの港をふたたび完全な自由港とした。この勅令によりマルセーユでビザンチン駐在の大使の年金のために0.5%の税が課されていたが、これが他の多くの課税と一緒に廃止された。それに50スーのトン税も含まれる。とはいえ、ビザンチン駐在大使への手当て1万6千リーヴルの支払いの問題は残った。

 また、これと同時に国王は、帰化しない外国人の相続財産を集積する根拠となった外国人所有財産没収権も廃止した。しかし、その製品がフランス産であろうと、外国船によって運搬されるレヴァント向け商品に対する20%の税のみは存続した。

・1669年3月の勅令:ミョウバンの輸入局をマルセーユからアルルとトゥーロンに移転させた。粗悪品に向けられた税率は倍化された。

 こうした諸々の措置はマルセーユで感謝の意をもって迎え入れられると信じられた。だが、これはまったくの見込み違いとなった。1669年5月30日、コルベールはいかに困難があっても、マルセーユの自由港のための祝賀会を開催するためにプロヴァンス州のパルルマンの議長宛てに書簡を送り、自分としてはマルセーユの商人たちが戻ってきた便宜を承認することに期待していると述べた。

p.255

19.この勅令はマルセーユで強い反対に遭う

  コルベールの招請を受けたのち、パリ、リヨン、マルセーユの商人たちの意見を聴取した。ド・ノワンテルはビザンチンに赴いたが、彼のやり方は秘かに期待されたほどの結果を挙げることができなかった。彼は外国人との同等待遇を獲得できなかったのみならず、彼が赴任したにもかかわらず、フランス人たちは依然として「スルタンの官僚から侮辱や難癖を」受けつづけた。少し経って、あらゆる要求は無駄に帰したため、ド・ノワンテルは艦船の覇権、開戦の威嚇がトルコの総理大臣の翻意を促すのに有効だろうと報告している。

・プロヴァンス州のパルルマン議長ドッペード(D’Oppède)宛ての国王の命令:直ちにマルセーユに急行し、同市のすべての商業委員、商人を召集し、検討したのちに国王にその討議結果を報告すること。

・ドッペードの回答:自分の見解はガレー船団の提督、レヴァント会社と同一である。

 マルセーユの貿易商人はどうかといえば、彼らも最初は同じような感情をもっていた。しかし、しばらくすると、彼らは分裂してその議決に署名しなかった。或る者は、強硬姿勢こそがトルコ人にフランス人に対しての待遇改善に役立ち、また協定書も有利な条件での更新を余儀なくさせるであろう、つまり、このような方法、開戦の威嚇によりトルコ人は以前よりも協定をより誠実に実施するであろうと主張した。反対派はこれとは違った読み方をする。つまり、フランスでおこなわれている貿易の中で最重要なのは対レヴァント貿易であり、この貿易はいわば、マルセーユおよび地中海諸港でのみおこなわれているため、戦争が勃発してレヴァント在住のフランス人が移住せざるをえないのであれば、p.256  イギリス人やオランダ人はフランスが再度たち戻ることについて全力を挙げて阻止するであろうし、その結果、外国人を利してフランス人は最も利益の大きい商業を断ち切られるという懸念がある、と。最後に和平派はそれに付加して、ひとたびフランス大使が召喚されると、トルコ人の横柄さゆえに、自分らに交渉の結び直しを許さないこと、そしてレヴァント貿易は永遠に破綻するであろう、と述べた。

 

20.フランスにとって有利な新条約がトルコとの間に締結される(1673年)

・1671年、オランダとの戦争が勃発 → これはルイ十四世の決断に大きな影響を与えた。ルイ王は中立の立場を採ってド・ノワンテル大使の更迭に同意する。しかし、この表明はトルコ政府を驚嘆させるに十分であった。この脅威にもとづいて大使はまもなくすべて満足できるという約束で居残るよう依頼された。じじつ、交渉は始まり、1673年6月5日、新しい協定書がアドリアノープルで調印され、それはコルベールのすべての要求を承認していた。

・フランス人は禁制品も含めあらゆる種の商品の輸出することができる。

・トルコの敵対国に所属する船舶で航行できる。鹵獲される場合でも船員は奴隷にならない。大使もしくは領事によってのみ裁判される。

・当時、最恵国待遇を受けていたヴェネチア商人と同じ特権を享受する。

・トルコ政府と通商協約を結んでいないすべての国はその国の国旗を掲揚する便益を得る

・(第19条)フランス大使の駐在。

・フランス商品の輸出入関税を5%から3%に引き下げる。

p.257  まもなく1673年の条約によって保証された便益のためにフランスとレヴァントの通商関係は昔日の重要性を回復した。17世紀末になると、ラングドックだけで3万2千反の毛織物を輸出し、反あたり30リ―ヴルとして96万リーヴルの価額になった。また、同州は4千キャンタルの羊毛つまり40万リーヴルを輸入した。また、明らかに王国の他のすべてのマニュファクチュアをもつ州がこうした恵まれた動向に参画したが、これはコルベールの尽力の賜物に負うところ大である。