コルベールの生涯と執政の歴史(3) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

コルベールの生涯と執政の歴史(3)

 

p.111

第3章 

1.1662年の飢饉

2.フーケが起案しコルベールが承認した穀物商人に対する誤った施策

3.パリ総合施療院(Hôpital général de Paris)の創設(1656年)に関わる細目

4.乞食に関する諸事項の実施が生じた諸困難

5.ボーヴェの救貧局すなわち授産場の設置(1652年)

6.同時代の史料により確証される農村の窮乏(1662年)

7.コルベールは地方州の反対を押し切ってパリに小麦を搬入させる

8.コルベールの財政改革

9.会計命令(Ordonnances de comptant)

10.ルイ十四世によって分与された賄賂

11.ヴォーバン(Vauban)、ペリッソン(Périsson)、デプレオー(Despreaux)、ラシーヌ(Racine)、モンテスパン夫人(Madame de Montespan)等々に与えられた贈与

 

1.1662年の飢饉

 1662年末、飢饉が地方を襲う。これは凶作と穀物政策の過誤に因るものである。穀物政策とは1661年8月19日のパルルマン布告により、穀物取引が禁止された。

 

2.フーケが起案しコルベールが承認した穀物商人に対する誤った施策

 上記の布告はコルベール就任の14週前に起案されたものだが、不幸にもコルベールはこれを踏襲し強化さえした。これは重大な結果をもたらしたが、パリはどうかというと、他都市の犠牲のおかげでパリは比較的に軽微な影響にとどまった。p.112

・1661年5月、パリ市長はパリから穀物のもち出し禁止令を出す。

・同年7月、パリ市による穀物もち出しを防ぐという法令をヴィトリ・ル・フランセ(Vitry-le-Framçais)駐在国王代理官が受ける。

・同じころ、穀物の買い入れに関する法令が相次ぐ。

・1662年2月15日の王布告:「すべての者が課税されることなくフランスに小麦をもち込むことを許される。但し、それが外国船によって搬入される場合はトンあたり50スーの税を支払わねばならない。」 → この布告は遅きにすぎて、王国の小麦不足状態は緩和されなかった。

・1662年5月、貧民に小麦粉の配給が始まる。

 

3.パリ総合施療院(Hôpital général de Paris)の創設(1656年)に関わる細目

 マザラン枢機卿はこの施設に小麦買い入れのために26万リーヴルを供与した。この施設はリヨンのそれを真似たもので、1656年4月に創設された。勅令の序文はこう述べる。「(国王陛下は)警察の命令に依らずして純粋に慈善精神によってかくも多大なる治績」を施された。p.113  設立者の意図によれば、総合施療院は作業場となるはずだった。というのは勅令の第1章が「乞食並びに老廃疾者は男女の別を問わず、各人の能力に応じてマニュファクチュアおよび他の仕事に雇われるべくここに収容される」と述べているからだ。

 

4.乞食に関する諸事項の実施が生じた諸困難

  乞食の処置については初犯については鞭打ち刑に処され、再犯の場合はガレー船漕ぎ刑だった。

・1669年8月の勅令は婦人に対しても鞭打ち刑が与えられ、10年間パリから追放された。

・慈善であるとともに厳しい内容の勅令は暴動を惹き起こした。そこで、パリの流浪者は総合施療院ではなく軍隊に送られた。p.114  警察だけでは不十分なため、施療院弓兵(Archers de l’Hôpital)という名の特別軍が設立された。こうした措置が相次いだにもかかわらず、乞食たちは自分らの自由を奪う勅令に逆らった。実をいうと、パリ市民自身が乞食たちの施療院弓兵への抵抗運動を支援した。

・1659年11月26日のパルルマン布告:施物を与えることの禁止 

 ともかく、パリ総合施療院は1662年に大きな仕事をなし、窮乏状態を和らげた。下記にかかげる数値は当時制約されていた資金についての観念を与える。

    収入(リーヴル) 支出  p.115

1657年  589,536    586,966

1660年  722,917    765,088

1662年  766,869    895,922

  当時被雇用者の給金:4万リーヴル

  小麦           350,300

  肉              83,658

    木材・ブドウ酒・木炭・藁     68,344

    衣類・着物・世帯道具       60,387

  6,262人にも及ぶ貧民の需要に対して供給しなければならないのがこの僅かな額である。支出のほうが収入額を凌駕するのがふつうである。また、この施設の指導を引き受けた者は1663年の初め、辛辣にもこう述べる。捜索、献金および他の慈善から得た収益は、不幸な者たちが絶え間なく増えると、入所を希望する者すべてを収容するのはしだいに不可能になった、と。

 中央政府と市役所の協力が上首尾に進んだパリでは概ね事は容易に進んだが、これとは対照的に、地方諸州は依然として貧困に悩まされた。しかし、史料が欠如しているため、実情を確かめることはできない。首都に直近のコミューンおよび州の貧民は飢饉が始まると、絶え間なくパリへ出かけ、そこで乞食あるいは最終的手段として総合施療院に申し出て生活の資を得ようとした。そのため、施療院のほうはやがて入所を拒否せざるをえなくなった。p.116  しかし、パリから遠い地域、王国全土においては主に農村部において貧困状態が特に酷かったため、貧民には証人が必要でさえあった。1662年の飢饉より前においては貧民階級が深い慈悲を享受したというのは誤りである。きわめて陰鬱な雰囲気のもとで同時代の出来事を観察する眼を鎮めるためには、この事実は確かめる必要がある。大都市の労働者の状態は16世紀以前のものとけっして同じではない。しかし、それがまったく新しいものと考えるのもまちがっている。

 

5.ボーヴェ(Beauvais)の救貧局すなわち授産場の設置(1652年)

 飢饉に見舞われたとき、ボーヴェの幾人かの重要人物たちは、乞食と失業者があまりにも多数排出したことにより苦しめられたあらゆる種の物乞いおよび不正行為を終わらせたいと願った。ここから、乞食の絶滅を目的とするボーヴェ貧民局(Bureau des pauvres de Beauvais)が設立された。p.117

しかし、永い間、無為徒食に馴れっこになっている貧民を働かせることは容易な業ではなかった。したがって、警戒や刑罰なしには上手く運ばなかった。女、娘、子供らは羊毛を紡いだ。老齢男子は親方の監視のもとでサージを織った。サージの一部分は家の者に着せるために使われ、残りが売却された。労働者にその利益の3分の1が供与され、好きなように使うことができた。他方、地方の手工業者は作業場との競争について苦情を述べたようには思われない。というのは、ボーヴェ貧民局は外でもない、今日でも200年もの前のものを真似ているにすぎないくらいだったからだ。

p.118  1662年の飢餓の際にこのような予防措置が執られた処では被害は重くなくて済んだ。しかし、くり返すことになるが、貧民局は当時にあってはまったく画期的な施設であり、他のほとんどの都市、特に農村コミューンの住民間では想像もできないほどに窮乏が席巻した。

 

6.同時代の史料により確証される農村の窮乏(1662年)

 〔以下、当時の窮乏状態についての長文の史料〕pp.118-122

 

p.123  7.コルベールは地方州の反対を押し切ってパリに小麦を搬入させる

 ボースとポワトゥーでの窮乏はけっして軽微ではなかった。これに対して政府はどのように対処したか? 窮乏地域に対しての王権による効果的な干渉は不可能だった。すなわち、全国民にパンを与えることはできなかった。コルベールがなした唯一のことは、大きな費用を投じて小麦を首都に運び込むことだった。この措置によってコルベールは地方州で1ミュイ(muid:18ヘクトリットル)当り50リーヴルの価格の小麦を346リーヴルに維持した。そして、彼は市役所が配給できるかぎりを貧民扶養のために小麦を与えた。当時、彼は勅令を発して王国内の各都市ごとに病弱な貧民、乞食、孤児のための施設を設立させた。その結果、地方州の慰撫は地方の慈善事業のみで賄わなければならなかった。しかし、資金不足のためにこれだけではとても心もとなかったため、p.124  地方はパリの富裕層および貴族に依存せざるをえなかった。

 

8.コルベールの財政改革

 コルベールは政務に就くや否や、一連の適切な施策を実行し、シュリー以降、無秩序と便法と化した行政の枢要部分に秩序と廉潔さを取り戻そうとつとめた。フーケの没落後すぐの1661年9月、財務王室参事会(Conseil royal des finances)が設立され、コルベール自身これに参席した。布告の形で起草されたこの参事会の諸決定は国王の署名を要したため、国王自身が毎週議長となった。財務官の職務は完全に指定された。公的財政の処理に参画する多数の会計係は公益に背くことができなかった。シュリーは、彼がこの目的のために指定した一覧表を作り、会計係の操作結果を点検することを要求した。しかし、シュリーが引退してからまもなくして、会計係は点検を免れる手段を見出し、できるだけ長い間資金を彼らの権限の許に置こうとつとめ、割引という条件でのみ公共出費を支払うまで強欲さを押し進めた。コルベールはこのような言語道断とでもいうべき悪弊の除去につとめた。会計係の飽くなき強欲を抑圧するため、コルベールは会計係の世襲相続とあらゆる財務職の世襲制を廃止し、無用と思われる者を辞任に追い込んだ。p.125  資格保証書の呈示を要求し、彼らの職務を具に記した日誌の執筆を義務づけた。財務王室参事会の承認がある場合を除き、任地に居住することを義務づけ、違反者は免職とした。国家に対しては彼が復活した旧法に従い、会計係の動産と不動産について第一の抵当権を与え、その恢復の費用をリーヴルあたり5スーであったのを、単に9ドニエと定めた。同時にコルベールは総収税吏に対して程よい率で取引する15か月の義務を承認させることによりタイユの総額を入手しようと考えた。

  ガベル(塩税)、入市税、その他の税 → 3回の競争入札で請け負わせることに決定。 

p.126 

9.会計命令(Ordonnances de comptant)

 歳入の割当額を定める一方、コルベールは国庫への納入を確実に保証することに専念し、出費を監視した。この結果、3つの帳簿が作成された。

①日計簿 … あらゆる出費命令書の記録と王金庫に納入される金額

②ファンド記録簿 … 歳入のそれぞれの性格について自由に処分しうるファンドを記録

③出費記録簿 … 支出の性格に従って参事会によって支払われる支払命令書を記録

 1667年にはもはや2つの記録しか採られなくなった。支払命令書は国家枢密院が、その支出がおこなわれた当該官庁において署名し、官庁は受取書に署名し、それを財務長官に送る。財務長官はいかなるファンドから支払うべきかを指示したのちに署名し、これを国王に送る。国王が最終的に署名する。

 支払総額が300リーヴルを凌駕するとき、国王はその署名のうえに「可」(‘bon’)と書く。以上が会計布告の概要である。

 毎月末にはコルベールは日計簿を国王に検定し、王自身で支出の総額を締め切る。

 会計命令の問題がたびたび生じた、それは幾つかの細部を含むが、コルベールの関心はなによりもまずこれに注がれていた。1789年の財政危機がフランス革命の原因というより、むしろ口実にすぎなかったとしたら、そして、この革命が古い社会組織の母体に由来するのでないならば、次のように言うことも可能となろう。p.127  すなわち、会計布告は絶え間なくそれが政府をあらゆる統制から救い出す容易さ ― 或る時は最も破壊的な操作により、また或る時はでたらめな支出により ― のゆえに、赤字増大に貢献できたであろう、と。1669年の勅令はかく述べる。すなわち「枢密院の支出のために、そして経常収入の緊急な必要を補うためにつくられたこの命令は限りなく、偽の書類、そして見せかけの書類を作成する原因となった。そして1655~1660年間に3億8千5百万リーヴルを出費し、罪作りにも、あらゆる収入を消尽するのに効あった」、と。その120年後の1779年、ネッケルは1億Ⅰ千6百万リーヴルの支払命令書のための負担を掲げた予算を作成し、年々1,200万リーヴルずつ減らした。絶対権力に対してかなり多額の支出の動機をあらゆる監視の眼から隠すことを可能にするこの便宜を惹き起こす悪弊を想像するのは容易である。コルベールはこのために幾つかの警戒措置を執った。しかし、その悪弊を一掃はできなかった。というのは、そうした欠点は政府の形態に固有のものであったからだ。

p.128  1676年の会計命令書の決算書は国王によって1678年12月20日、レー(Laye)のサン=ジェルマンで総額2,232,200リーヴルと定められた。この決算書に従うと、コルベールの俸給は55,500リーヴルになる。以下が仔細。  

 王室参事会の成員としての俸給   4,500           

 王室金庫の監督官としての俸給 10,000            

 財務長官としての俸給             14,000

彼の職務に対する特別手当として   20,000      

            計             55,500

王室金庫書類のためにコルベール侯の第一書記官に対して 6,000

参事会および財務秘書のベリエ(Berrier)に対して   20,000

デマレに対する報酬として                 10,000   

サン=テニャン(Saint-Aignan)侯への報酬として    56,000

 

10.ルイ十四世によって分与された賄賂  〔略〕

 

11.ヴォーバン(Vauban)、ペリッソン(Périsson)、デプレオー(Despreaux)、ラシーヌ(Racine)、モンテスパン夫人(Madame de Montespan)等々に与えられた贈与

 参事会の成員、および各種の大臣、パルルマンの議長、その他重職にある者の俸給がなぜ会計命令書の決算書に載せられているかは明らかではない。これとは逆に、次に示す下賜金はこの支払方式を傲然と要求する。これは1677年の会計命令書の決算書である。p.129 

  ヴォーバン              75,000

 ベリエ               30,000

 リュブラン(陛下お気に入りの画家) 22,000

 デプレオー、ラシーヌ        12,000

 モンテスパン夫人          75,000

 モンテスパン夫人          75,000

 ペリッソン             75,000

 コルベール             400,000

p.130  コルベールの執政より1789年まで会計命令に関する帳簿の制度がつくられた理由は次の通りである。この命令書が償わなければならない奇妙な弊害は明らかにされた。なぜなら、コルベールが導入した秩序は無秩序にすぎなかったからだ。国王の寵臣や家臣、そしてコルベール当人も出費の上に投げられた幕が取り払われるであろうことを予想していた。

 会計命令書は王立古文書館に保存されている。p.131