シュリー、コルベール、テュルゴー(2) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

シュリー、コルベール、テュルゴー(2)

 

p.9 第2章 宗教戦争以前における農業フランス

 

1.16世紀初の繁栄

2.16世紀における貴族

3.農民

4.自由の発展に差異をもたらす中世の多様性

5.16世紀における社会状態の多様性

6.中世脳槽共同体ほどには独立していない幾つかの共同体

7.生活様式:住居・衣料・食糧

 

1.16世紀初の繁栄

 アンシアンレジーム下の他のいずれの時期と較べると、16世紀のフランスは繁栄の世紀を経験した。百年戦争は終結しており、国内は平和をとり戻していた。国家は以前にもまして一つにまとまった。封建時代は終幕を告げ、自由と進歩の新時代に入りつつあった。

 諸侯の砦 → 邸宅 荘園の邸宅と庭園

 都市は自立とまではいかないにしても富を蓄積し、新興産業が発展し、内外商業は急速に活発化した。フランス国王シャルル八世がイタリアに関心をふり向け、空しい野心のために生命と財産を費やしたのは事実だが、イタリア戦争はフランスの日常生活にほとんど影響を与えなかった。イタリアの実例はその侵略者相互間に芸術と技術への愛好熱をもたらした。

p.10 ルイ十二世の治世を迎えると、平和と経済発展に起因する繁栄と幸福の時代が訪れた。16世紀後半の血生臭い宗教戦争の最中を生きた文人たちにとっても懐かしい時代となる。穀物、ブドウ酒、肉類・魚類が溢れ、耕地が拡大し、農村人口は増大し、休耕地が耕され、都市住民は貴族たちと競って住宅を建てはじめた。古い堡塁の維持がもはや防衛と安全にとってさして重要なものではなくなるや、都市の財産は国内の改善のために費やされるようになっていく。フランスを訪れたベネチアの外交大使はこの当時のフランスの様子を詳細に描いている。…〔中略〕…

p.11 1506年、Marino Cavallaも同じくフランスの豊かさに印象づけられている。1561年、Jean Michelはフランスの富の源泉はその土地の肥沃さと勤勉な労働者にあると書く。フランスの自然的豊穣さはすべての旅行者の目を引きつけた。

 ダーリントン(Dallington):「王国は亜麻布、織物、大青、塩、トウモロコシ、ブドウ酒を産出する。Woddや塩はランクドックに見られ、塩はまたギエンヌでも見られる。Wolls(フライパン?)はプロヴァンスやボーヌで作られ、そこでは小麦も豊かである。」

 土壌の肥沃さと仕事熱心な住民たちは以前の戦争の悲惨な結末の爪痕をすべて掻き消してしまったようだ。

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2.16世紀の貴族

 16世紀までにフランスは中世から脱出し、近代国家建設の途上にあった。国家のある部分は他の部分よりも発展していた。農奴解放、自由の発展、領主権の後退等の現象はいずれの場所でも同じレベルではなかった。しかし、全体的にみてフランスはその古い封建体制を突き崩しつつあり、農奴制度は急速に瓦解しつつあった。そして、自由な民の住む都市と同じように、国家もまた徐々にではあるが、新しい社会秩序に自らを適合させていった。

 貴族……彼らはもはや以前のような封建貴族ではなくなっていた。しかし、彼らは後世におけるような脆弱な廷臣や不在地主ではなかった。イタリア戦争は多くの騎士を動員したが、そのうちある部分はフランソワ一世の優雅な贅沢に魅惑された。しかし、大部分の貴族階級はその荘園で生活し、その土地を自ら耕作し、その財産を自ら監督し、農民や労働者と友好関係を保つ田舎紳士という大きな階層を形成した。大革命時にヴァンデは、宗教戦争以前のフランス全体を過した農村生活についてかなり克明に描写している。

 貴族は15世紀の争乱後となるとふたたび息を吹き返し、全体的に富裕とまではいえないまでも、かなり安楽な生活を送っていた。人口は増え、労働力は安く、有休地は耕され、こうして彼らの財産は急速に増大していった。彼らはなおまだ法律上の権利を保持していた。p.13 中央集権体制が成長しつつあったにもかかわらず、依然としてかなりの地方的権力を保持していた。…領主の窯、水車小屋、ブドウ搾出場等々 … 農村における事態の変容は非常に緩慢にしか進まなかったが。

 新貴族、すなわち貴族の土地を購入し、真実の貴族よりも裕福に暮らしたブルジョアジーは農びとからは卑下されていた。

 領主が外戦から郷土に帰還した際は儀式的かつ農村的祝賀がおこなわれたが、これぞまさにこの時代の象徴ともいえる。シュリーは17世紀初に彼が自分の領地に身を退いたとき、彼は揃いの服を着用した従者たちに取り囲まれ、部下の荘官を接見し、かつての領主風のやり方で彼らの争いごとを片づけた。しかし、古い土地所有者は徐々に姿を消し、貴族の土地の多くはブルジョア階級の手中に落ちた。1531年、ブルボン城主の財産が没収されたとき、土地が40区画に分割され、うち37区画が商人、銀行家によって買い取られた。こうした郷士たちの地位は以前と較べると、徐々に低落していく。

p.14 領主の子弟は乳母の許に預けられ、アンリ四世がそうであったように、村の若者たちと一緒に育てられた。その後における友好的な関係は以後も続く。貴族たちは農民の子供らに対して常に慈父として振舞うのみならず、農民が彼の領主の子弟に対しても同じように仕えることはけっして異常なことではなかった。

 

3.農民

 農民が郷士らによって計画された狩猟や祭祀、遊戯に参加するとき、彼らのうち下級者は上級者に対してふだんと同じように振舞った。貴族は村祭りの発案者でもあり、喧嘩の非公式の仲裁者でもあった。食料や薬品が村の小屋に納められるのは大きな屋敷からであり、貧民に援助が差し出されるのもそうした大きな屋敷からだった。しかし、16世紀の農民はただ単に依存していたのではない。農民たちはもし主君がその正当な権限の範囲内を逸脱したときは報復手段に訴えた。

 ある歴史家たちは、幸福と友好、主君と農民が共に満足し繫栄している姿を描く。他方、別の歴史家たちはその逆の像を描きだす。すなわち、農民たちは自由を求めて闘争し、領主窯、時おり課される貢納金コルヴェ(corvées)、領主の鳩小屋権や際限ない狩猟によって自分たちの土地に加えられた損害というような古い遺制を嫌っていた。これら歴史家による対照的な像はどちらも真実である。

 貴族は税金の面で特権をもっていた。そのかわり、戦役や田園生活の監督や経営に無報酬の労働を果さなければならなかった。

 時代の移り変わりとともに事態も変わっていく。

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4.自由の発展に差異をもたらす中世の多様性

 貴族が農民を困惑させた以上に、農民にとっては国内平和の恩恵はありがたがった。城壁で保護された都市の住民は戦争による荒廃を免れることができた。とはいえ、彼らの損失もまた大きかった。つまり、敵兵による作物の略奪、財産の略奪、家宅の荒廃、丸裸となった原野は直ちに耕作が再開され、痩せた土地はしだいに肥沃な土壌に生まれ変わる。フランス全土が均等に発展したのではない。幾つかの州は他の州より繁栄し、程度の差こそあれ、同じような発展の仕方はフランス全土に行きわたっていた。16世紀の農民の地位はそれ以前の歴史に、そして、農奴の性格、彼らの解放がなされた時代のあり方に大きく依存している。

 後世における不均等発展の因となった中世の多様性に簡単にふれておこう。

 一般に中世フランスの農民は中世のイギリスのそれと比較される。後者の知識をもって前者の理解にあてられるのだが、両国とも、経済的な封建制の衰退を生じさせた原因は同じだった。フランスではそれまで領主の手中にあった財産は耕作農民の手に移り、自由農民の数が増大した。土地に縛りつけられ、主君の意のままに動かされていた大多数の農奴らは自分の意志にもとづいて労働するようになる。結婚、教育、神事などの制約も君主の許可を必要としなくなる。

p.16 これらはイギリスと同様である。君主はすべての家臣たちに対して裁判権をもち、彼の行使に対しての国家の統制はほとんどなかった。両国ともに不自由な農民の法律上の無資格は当時実際に普及していたよりは重かった。奉仕の不確実さ、保有権の不確実性、恣意的な強制取立てはしばしば所定の条件、永久的な所有権に取って代わった。

 12世紀…農民の隷属の最悪の時代

 13世紀…上昇の始動

 これらをもたらす因となったのはほとんどすべて経済的なものだった。賦役の固定 → 賦役の貨幣納化

 人口が増大するにつれて、貴族所領の遊休地が耕作されるようになり、このような場合、労役奉仕はすぐに必要以上になっていたため、貨幣地代が自然に要求されるようになった。

 東部イタリアではどうか。その財産が戦争であるところの領主はその財産をすべて売却して必要な貨幣を入手したほうがよいと考えるようになった。過去の労役は未来的に貨幣の支払いに取って代わった。農奴家族に解放許可証を与えることによって現金を得ることができた。領主は名目上の自由を与えたが、有利な条件、たとえば領主独占バナリテは手放さなかった。領主窯、水車小屋の強制使用権なども同様である。p.17 財産が他者に移転したときのlods et ventes税および臨時のcorvéesまたは若鶏、卵の収取権なども同様。このようにして幾つかの封建的遺制は1789年の大革命まで残ることになった。

【封建制度が衰退した経済的要因】

(1)耕作方法の改良の必要性

(2)貨幣の必要性

(3)人口増大

(4)耕作地の拡大

 したがって、中世フランスの戦争と騒乱がつねにこうした発展過程を妨害し、平和の時代が中世から近代への推転が達成される以前においては特に重要な要素となったとみてよい。16世紀前においては絶えることの戦乱が人口を減らし、新しい土地が開墾されるわりには旧土地が荒廃した。そして、農民たちは領主支配を払いのけるどころではなく、むしろ領主に庇護を求めた。さらに、解放というのは曖昧な用語である。自由とか不自由とかは厳密には区別できない。この問題について中世の法廷で争われた訴訟は農民、領主ともに法律上の区別を明確化することができなかったことを示している。ある処で恣意的な義援金が徴収され、また別の処では家宅を離れることができないことが、またある処では娘の婚姻時にMerchetを支払うことが義務づけられた。これらが農奴制の本質的な特質である。

 仏英の社会状態の類似点はこのようであったが、相違点はどうか。両国は農奴制から自由への発展過程においてそれぞれ異なった経路を歩む。フランスでは中世の全体を通してかなりの量の自由保有地が、特にノルマンディやガスコーニュに存在した。自主地(Allod)という用語の正確な意味は場所によっても時代によっても異なるが、p.18 その本源的なかたちにおいては所有されない真の所有、地代も賦課も賦役もだれにも帰着しない所有の状態を意味する。聖職者や貴族が自由保有地を所有しただけでなく、農民もまた、数こそ少ないがAllodを所有した。

 Allod → Fief (国王または大君主の臣民として)

  こうした条件は軍事的そのたの奉仕による土地所有者に義務として降りかかる条件と混同されるようになった。所有権の観念はひきつづく。Allodを保有しない者はこれを得るべく懸命になった。こうした自由な所有が残存したことは農民たちに自立の観念を与えた。ともかく、自己の条件を完全しようと願う人々にとって、自己の所有地を入手することはふつうのことだった。こうしてフランスには数多くの小所有農民が発生するのである。全体としてフランスにおけるこの趨勢は次のような結果を生じせしめる。つまり、所有が可能な場合は土地にしがみつき、そうでない場合は貨幣地代でもって地代を受け取る土地占有者として土地にしがみつき、いずれの場合も土地を捨てて労働者に成り代わるよりもむしろ土壌に執着しつづけるという支配的傾向である。賃金労働者がいたことも疑いない。しかし、こうした発展はイギリスほどにははったつしなかった。つまり、農民の中から少ない割合の者が土地から引き離されたのである。土地をもたない労働者はしばしば大家族の中の末弟に多かった

p.19 【その原因】

(1)財産の平等相続→小所有

(2)肥沃な土壌がこれら小所有を可能にした

(3)国民の法外な勤勉さがこの制度を固定化した