1789年以前におけるフランスの労働階級および産業の歴史(21) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

 

1789年以前におけるフランスの労働階級および産業の歴史(21)

 

XI  賃金生活者(les Sarariés)
 

 ガリアの賃金がどうだったかについてわれわれが知識を得るためには、賃金に関する古い史料はあまりにも少ない。たった一つの史料すなわち301年の最高賃金勅令はローマ帝国の各州において区別を設けることなく、労働価格と商品価格の比較対照を可能にする。同勅令の述べるところによると、労働者は頻繁に親方の許で扶養されていたように思われる。つまり、これはまた、当時の産業に適合するようだ。労働者は日給、月給または出来高払いで給料を支払われた。この仮説が正しいとして、それを貨幣で見積もると、ディオクレティアヌス帝時代の賃金はフランス革命前夜における賃金を下まわっていなかった。農産物価格と比較すると、労賃はおそらくそれを上まわったであろう。労賃が奢侈品に対しては上まわることはなかった。なぜなら、奢侈品は労働階級の消費とはほとんど無関係であったからだ。

 ゲルマン侵入期と封建制確立期での賃金に関しわれわれは何も述べるべきものをもたない。史料は極めて稀である。賃金制度は古代奴隷制下でそうであったものより以上に明らかに限られた領分をもっていた。なぜというに、経済生活は舞台として特に農村を有しており、農村では少なくとも領主と農奴の関係においてほとんど大部分の仕事は納付金と貢納によっておこなわれたからである。賃労働者以外の者をまったく含まない史料は消滅した。というのは、領主と農奴ないしは耕作者が生産物を消費する土地と耕作者の関係以外にも多くの他の関係があるからだ。いつの時代も商業と同じく賃労働者をかかえている。しかし、社会制度の違いに従ってその重要度は多様な分かれ方をする。

 12、13世紀には賃労働者は農奴解放や工業発展とともにまさに重要性を増しつつある。都市では親方ほどにはさほど数が多くなかったにせよ、p.970 労働者は実業家のかなりの割合を占めていた。彼らの賃金は彼らが食糧を供されているかどうか、住込みかどうかに応じ必然的に異なる。また、賃金は職業と場所によっても異なる。しかし、われわれは13世紀について保有しているごく少数のケースについてのみ賃金の平均値を算定することができる。だがmそこでは石工の親方賃金と徒弟賃金は混同されている。トゥ-ル貨2スーつまり現フランス貨幣の1フランを示すことにより、パリの建築労働者の最低賃金としてまさに他の場所からの仮定が述べられることもある。この賃金を食料価格と比較すれば、ダヴネル(D’Avenel)氏は250日分 ― これは当時の平日(就業日)に相当する ― の仕事の賃金は30~1900リットルの小麦 ― 小麦価格は賃金がほとんど同じ水準にとどまっているのと対照的に上昇した ― を購入できたが、今日における300日分の仕事は3700リットルに相当する。もしこの関係が正確であると仮定すると、13世紀の労働者は ― その賃金が名目賃金であったにせよ ― 毎年減少しつつあり、かつ14世紀末のそれよりも下まわる実質賃金を受け取っていた。製造品と比較すると、賃金はおそらく実質賃金を大幅に下まわったことであろう。というのは、一般に、製造品の製法はこの時代には現在より高価についたからである。

  百年戦争は窮乏の時代に相当する。労働者たちは仕事が底をつく期間中は明らかに損失を蒙った。多くの者は略奪と遠征で生き延びるために兵隊崩れの暴徒(Soudard)になったものと推定される。しかしながら、労働者はある時、殊に黒死病蔓延後になると仕事を完全に失った。そこから、あらゆる物価騰貴が起り、商品と賃金の価格については1351年の布告によって最高額が定められた。兵士の荒廃と飢饉がもたらした人口の全般的減少 ― 直接的に暴力行為を働くことなく ― は農村を枯渇させると同時に、多くの作業場を空っぽにした。

 賃金率のかたちにおいて生じ、一般的あり方において14世紀の名目賃金の上昇、15世紀のそれの下降に帰結するところの諸変化はさまざまな要因から生じた。

<1> 自然的災禍と戦争に起因する1世紀間(1346~1450)に及ぶ労働者数の減少は賃金上昇の原因となった。

<2> 同時期における一般的富、特に農村における農業的富の減少は奢侈の発達による工業労働者によって部分的に補われた。

<3> ヨーロッパ商業の拡大に引きつづき、特に相対的欠乏に起因する貴金属の高騰は名目賃金の下降をもたらした。

 結局、15世紀後半に労働者が受け取った2~3スーでもってp.971 労働者は、その父祖たちが13世紀以降に購入できた以上の穀物またはパン、肉、葡萄酒を購入できた。つまり、実質賃金が上昇したのだ。

 16世紀になると、事情は一変する。アメリカからヨーロッパ市場に溢れた過剰な貴金属と同世紀半ばにおける銀貨の単位量の軽減は賃金生活者にとって極めて有害に作用した。彼らの名目賃金は上昇した。つまり、既述したように、それはほとんど3倍に上昇した。しかし、その一方で同世紀末になると、トゥール貨リーヴルの改鋳のために銀で30%しか受け取らず、商品価格が2倍またはそれ以上となり、特に小麦価格はその世紀、とりわけ同世紀後半においてそうであったため、実質賃金いわゆる賃金が購買力をもつ商品の平均量は大幅に小さくなった。この問題について正確な関係を計算できないとしても、低賃金の部類に入る人夫にしてみれば、このような減少は少なくとも3分の1に相当すると言いうる。

 労働階級の福祉は工業活動と動産的富が発展したときに価値が下がり、第一段階において奇妙さを際立たせるが、同じようなケースは(歴史上)幾たびも見られるものであり、おそらく経済法則として見なされてもよいだろう。すなわち、貨幣の価値下落に起因する物価上昇の、しかも長期にわたる上昇は賃金生活者にとって有害であった。

 けれども、賃金生活者はある点に到ると、高物価が刺激となって労働力の需要増をもたらし、工業的活況に償いを見出すはずであり、これは16世紀に顕著になった現象である。

 賃金は17世紀に同じような乱れを蒙らなかった。価格革命が達成され、銀貨の商業的力はこの世紀半ばに減じるどころか、むしろ少々増大した。トゥール貨リーヴルの力が減じたのは、それが1700年になると1600年の純銀の半分しか含有していなかったからだ。あらゆる時代と同じく当時の賃金は職業と場所によってまちまちだった。ヴォーバン(Vauban)が言うには、もしある人が毛織物業者と錠前工に15~30スーを支給すれば、12スーを得ない労働者はわれわれがすでに述べたように、250日の労働日を超えてはほとんど当てにできない、と。周知のように、名目賃金はこの世紀の半ばにいく分上昇した。しかし、実質賃金についても同様だったかどうかを知ることが問題である。というのは、貨幣単位に含まれる金属の純分の重さは50%に減ったからだ。小麦価格がこの世紀の後半にほとんど同じ割合で減少したことも事実だ。つまり、耕作農民はこれを悲嘆する。労働者はその労働の価格でもって1700年には1600年以上に多くの穀物を購入できた。p.972 しかし、彼は15世紀末にこうした関係のもとで占めていた有利な立場から遥か遠くに位置していたと思われる。

 銀の商業的価値の問題と実質賃金の問題は常に極めて微妙であって、過去においては厳密な解決は望み薄だった。コルベール主義によって農業が工業の犠牲となったため、耕作農民と農村労働者は一般に不利な状況に置かれたこと、特権マニュファクチュアの制度によって生産に与えられた刺激は高賃金を労働者に与えることなく、多数の農村住民に最も重要な労働力を保証したこと、都市の労働者はその頃起こった経済変動の結果をほとんど感じなかったことなどは推定に依らざるをえない。ルイ十四世の治世末期になると、都市労働者はすべての国民と同じく王国の疲弊から損失を蒙った。

 賃金は18世紀の前半にほとんど停滞し、後半になると上昇する。ルイ十六世の治世の末期、アーサー・ヤング(Arthur Young)、プーシェ(Peuchet)、アヴネル(Avenel)子爵らは、都市のメティエの労働者の平均的日給の近似的見積りとして20~25スー、婦人労働者は12~15スーだったと言う。労働者が食事を供されているとき、労賃はそれより少額であって、しばしば1789年にそうであったよりも高いレベルに達した。農村ではその割合はもっと低く、幾つかの州では女子賃金は3~4スーを下まわっていた。

 ヤングが18世紀後半については確信をもって20%と推定した名目賃金の上昇は当時、実質賃金の上昇に即応しなかった。先ず第一に、アメリカ銀山の産出量が増大し、他方、トゥール貨リーヴルの銀の含有量もこの世紀を通じて減少した。第二に、小麦価格は50年間にアヴネル子爵の算定によると37%上昇し、すべての食料品と大部分の原材料がこの同じ騰貴変動に押し流された。労働者の平均賃金は同世紀末には同世紀初ほどの購買力をもっていなかった。すなわち、当時の労働階級はこの問題について苦情を述べたてている。

 アンシアンレジーム下における労働制度は賃金上昇を容易化するのに適合しなかった。手工業ギルドに結合された親方はその慣行を維持するのに汲々としていた。大マニュファクチュアの指揮者は共助意味あいの必要性を感じなかった。ギルド法規と国王の規則はしばしば賃金を固定した。それら法規と規則は彼らに不動の賃金を提供したが、反面、このような定めの侵犯を厳しく処罰することによって労働者を引き抜くことを禁止した。その同じ規則は労働者の団結を禁止し、これに処罰した。p.973 このような障碍は明らかに労働の供給と需要とともに賃金が変動するのを妨げなかった。しかし、そうした障碍は経済法則の自然的動きを拘束し、当時にあっては今日以上に執拗な慣行を補うことにより賃金の低廉化を招き、あるいは少なくとも自由制度の下では到達した思われる水準に上昇するのを妨げ、賃金率に重い負担を課した。

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