1789年以前におけるフランスの労働階級および産業の歴史(20) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

1789年以前におけるフランスの労働階級および産業の歴史(20) 

 

p.964

X 労働者(les Ouvvriers)

 

 幾世紀ものあいだ、手工業労働の上に奴隷状態がのしかかっていた。これは原始社会の野蛮な力の濫用から生まれ、古代文明社会で維持され法律的に定められた制度である。仕事の確保のために労働者を駄獣として我がものとするのは当然にしてありふれたことだった。昔のすべて、またはほとんどすべての人々が奴隷を保有していた。大遠征の後のローマはイタリアにおける農業生産はもとより、おそらくはローマの工業生産の主要な手段として奴隷を用いた。ローマはその奴隷制度を完全にガリアに移したが、そこでのは奴隷制は軍団および地方総督の到着以前に定着しており、4世紀半ものあいだ、自然哲学やキリスト教により幾分かは弱められたが、― 哲学、キリスト教のどちらも人間から事物への法的同化に依存する制度そのものの根底は変更しなかった ― この制度は実施された。

 理論家たちは労働の歴史を持続的な3つの局面にまとめあげた。つまり、それらは奴隷制、農奴制、賃労働制の3つである。彼らのうちの誰かが述べているように、未だ終わらざる戯曲の発展は4番目の幕劇すなわち共同の制度を予測させる。そうした事実は非常に不完全なかたちでしか絶対的な理論として役立たなかった。古代の労働では確かに奴隷制が非常に大きな地歩を占めていた。しかし、すべての場所でというわけではない。賃金労働制はいつの時代もいた。奴隷は親方によってしばしば賃料と引き換えに貸し出された。しかし、いつの時代にも己の労働を賃金と引き換えに売り出す自由民がいる。もし奴隷労働が農業分野で支配的になれば、自由労働は工業とりわけガリアのコレギアを覆ったことを推測さえできる。また、ディオクレティアヌス帝による最高価格の勅令 ― それについてはたった一つの原文にもとづいてこの時代を推測できる ― が発令されてから後となると、食料価格と比べた場合の労賃価格は3世紀のほうが、ずっと後の18世紀における価格に勝っていたため、奴隷と(労働者の)競争は賃金をあまり圧迫しなかったものと推定される。しかし、確実にいえるのは、手工業労働が世の評判を落とすのに役立ち、労働階級のほうが奴隷契約から強い影響を被ったことである。

 帝国のマニュファクチュアの外にはおそらく小工業しか存在しなかったので、p.965 労働者の数は、自分のために働く職人の数と比べ、確かに少数であった。これは中世全体を通してそういえる。

 ゲルマンの侵入は労働者の状況を変更しなかった。たしかに、もはや帝国マニュファクチュアは存在しなかった。だが、奴隷、コロン、自由労働者はいた。14世紀まで奴隷売買はおこなわれたとしても、奴隷制は事実的に徐々に農奴制に取って代わり、農村労働者および都市労働者さえ最もありふれた状態となった。侵入期と封建制確立期における工業労働者の状況に関しわれわれは多くを知らない。

 手工業ギルドの法規は13世紀以降に関しては幾分か詳しく伝えてくれる。じっさい、労働者の義務―北仏におけるvaletsという名で頻繁に呼ばれるが―がはっきり定められた。Valetsに成るためには徒弟奉公を実行しなければならなかった。メティエの古い徒弟は、外部から来た労働者に対して一般的に就労の優先権をもっていた。ふつう、都市には仕事を求めて労働者の集まる場所があった。親方は1日、1週、1月、1年雇いのかたちで彼らを雇用しなければならなかった。しかし、彼らは能力をもたない。そして、品行の悪い者を雇う必要はなかった。1日の作業はほとんどの場所で日の出に始まり日没とともに終わった。つまり、夏季は休息時間も含め17時間である。夜間労働は極めて稀だった。労働者は雇用者の監視下の仕事場で、あるいは雇用者のために顧客の家に赴いて働いたが、けっして自分のために働くことはなかった。契約は雇用者と労働者の間に結ばれ、幾つかのコルポラシオンではそれを破った際は前者と後者の両方が罰金を受け取るものとされた。他のコルポラシオンでは法規は労働者の義務だけについてふれている。

 一般に労働者と雇用者は13世紀には大きな溝で分かたれていなかった。雇用者はその手でもって働く職人であった。彼自身が労働者であって、かなり容易に自立することができた。というのは、操業のための仕事道具と費用は当時は取るに足りない負担にすぎず、極めて稀なケースを除いて親方試作は要求されなかったからだ。職人Valetは同一の仕事場で労働者の傍らで仕事をなし、そして、労働者の数は徒弟の場合とちがい制限されなかったとはいえ、親方はごく少数、つまりたいていの場合1人しか雇用しなかった。同僚が(労働者を雇用する親方に)向ける嫉妬は特定の成員が大きな企画によって顧客を独占するのを許さなかった。13世紀の都市では親方たちのために働く労働者以上に、自分のために働く親方の数のほうが多かったと十分に考えられることだ。条件とアクセスは日常的な接触は法規の前では権利の平等が謳われてなかったとはいえ、両者間には一種の親近感が感じられた。

 親和関係が常態であったのではない。歴史の侮蔑的な沈黙にもかかわらず、われわれは13世紀の史料においてp.966 賃上げ要求、同盟罷業、およびフランドルにおける謀反と殺害の痕跡を見出す。

  14世紀と15世紀になると、職人組合の設立によってより深遠な分離がもたらされはじめた。これは古代に起源を隠しているが、これら世紀においては組織された制度、親方から恐れられた制度としてたち現れる。じっさい、これは手工業ギルドとして法的に承認された権力に対抗してつくられた組合権力である。それは流浪の労働者がフランスを巡りまわるのを促した。それは労働者に路銀を与え、彼が滞在する町では仕事を、救済を、そして友誼の快楽を保証した。しかし、それは野蛮な競争相手をもち、ある場合には親方に法律を作成するよう求めた。この後者の苦情の種は親方をして、1789年までつづく職人組合の禁止、あからさまな同盟や工業制度に対する謀反と同じく、裁判所の前で訴追を迫った要因である。

 職人は近代になってもこの制度に固執する。16世紀になると、独力で就職口を探し、自分の意志を雇用者に押しつけようとする職人の要求を指摘する親方の苦情が絶えず、労働者に服従義務を想起させ、彼らが労働協約を破ったときは彼らを処罰することを定めた警察規則もまた多数残っている。

 ドイツにおいてもフランスと同じく、手工業ギルドが労働者に門戸を閉じる傾向がある間は労働者は職人組合の結成でもって自らを保護しようとした。この制度は14世紀初からその痕跡が認められたが、フランスとほとんど同じような慣習と機能をもっていた。労働者は3~4年のあいだ「巡歴職人ヴァンデルシャフトWanderschaft」としてドイツを巡回した。すなわち、巡回の経路はこうだ。コンスタンツ、シャファウス、バール、フライブルク、コルマール、ストラスブール、フランクフルト、スピエル、マインツ、ケルン、トレーヴ等に滞在した。15世紀になると、それらに加えて東方の諸都市つまりドレスデン、マグデブルク、ダンツィヒ、フランクフルト=アム=オーデル、ケーニヒブルク等が加わった。

 イギリスの職人組合が結成されたのも同じ15世紀のことだ。クラフトギルドの独占の強化、王による法規授与、組合法規などは黒死病蔓延以降幾たびか繰り返し賃金の最高額を定めたが、それにつづく抑圧は労働者を圧迫した。マイヨッタンの乱(1232年)と時を同じくしてワット・タイラーの暴動(1381年)が発生。14世紀以降、イギリスの法律は職人組合がもたらした同盟に非難を投げつける。つまり、「靴下職人またはその他の使用人が商業にとって有害であり、公民に犠牲をもたらすいかなる会合も準備することを禁止する。p.967 違反の場合は投獄に処す」と言う。賃上げと労働の妨害をめざすあらゆる同盟、あらゆる会合は禁止され、陰謀として処罰された。立法者と労働者を虐待した。親方の仕事場から逃亡した労働者は投獄されるか、または逮捕が不可能な場合は国外追放の刑に処された。すべての場合において彼らは灼熱の鉄で刻印され、耳を切断された。

 中世のフランスの労働者たちは親方の許で食事を供され、寝場所を与えられていた。たとえば印刷業や製紙業の例を引く場合もこのような条件は同一だが、彼らは完全な賃金のかたちで得るほうを好んでいたように思われる。

 慣習と規則はすべての不和を防止しなかった。それは中世以降から引きつづき、ルネサンス期においてもストライキがおこなわれた。この頃にめざましい発展を遂げた産業のひとつである印刷業はパリとリヨンに2つの同盟の思い出をわれわれに残す。それらは1539年から1542年まで単に仕事場の労働を麻痺させただけでなく、公秩序を乱し、司法官職における騒動を惹き起こした。20年後でも和合せず、この産業に不調和が再発した。

 賃金労働者の状態は18世紀よりも17世紀のほうが衝突の要因にならなかった。ルイ十三世とルイ十四世の治世当初は社会は平静であり、17世紀全体を通して従順に大王に服従した。王権が不安の念を起させないかぎり、国王のもとに権威を強化するという絶対王政の政策が始まった。王権は1673年の勅令によりコルポラシオンの数を増やし、労働者をこのコルポラシオンの親方に厳格に服従させるために諸法令が発令された。積極的な革新を試みることなく、王権は書面による暇乞いを課し、労働者がブルジョアのために働くことや所定時間以前に仕事場を離れることを禁止した諸規則を普及させた。しかし、小さな作業場では昔と同じように職人は同僚と相並んで仕事をおこない、そこにしばしば一種の親近さが育まれた。職人組合に組織された職業の労働者はより独立的であり、前世紀と同じく同盟と要求によってその抵抗力を感じさせた。大規模マニュファクチュアの創設はその当時、新たにしてより広範な競争を賃金労働者に強いた。しかし、それと同時に、それは労働者をほとんど修行僧同然の厳しい訓練を課すことになった。それは多数の女子を雇い入れた。それは一種の作中人物と化した雇用者から彼らを分離させた。すなわち、これこそが工場生活の幕開けである。

 フランスにおいては雇用者の数と同様に労働者の数に関する全体的統計をわれわれはもっていないし、未だかつてあったこともない。p.968 われわれは単に推定にもとづいて雇用者数に対する労働者の割合が大工業が今日ほど重要ではなかったゆえに、今日ほど高いものではないといいうるだけである。

 被雇用者、召使い、労働者が賃金労働者に属した。後者だけが以下の主要な4つのカテゴリーに分離できる。

<1> 自分が働くメティエにおいて徒弟奉公をなしつつ、あるいは最初から行商人として来訪し職人組合を結成せざる一カ所に固定した労働者。彼らは次に述べる<2><3>のカテゴリーの職人以上に親方の許で生活した。彼らはおそらく<2>のカテゴリーの職人ほどに居を変えず、その生活状態はかなり良好だった。

<2> 職人組合に加入した労働者。このカテゴリーは「フランス巡歴職人」なしに労働者および、その後、彼らの職工組合(Devoir)と関係を断ち切ることなく、特定場所に定住した者を包含する。

<3> 都市と農村にあるマニュファクチュアの労働者と婦人労働者

<4> 農村労働者

 これら4種のカテゴリーは数的に増大した。都市人口は前2者についての証明となる。大工業発展と1762年、1765年、1766年の法令による農村での機械工業の認可は後2者の証明となる。けれども、農村工業では賃金労働者以上に自分のために働く職人の数が遥かに多かった。前二者はより確実に俸給を得ていた。2番目の者は親方を最も困らせた職人である。

 国王行政は2番目の組合と、一般にすべての互助会および労働者の集会とを禁止した。というのは、王政はこれらの集会を親方に対する陰謀であるとの疑念をもったからだ。警察は4番目のカテゴリーについてはほとんど心配しなかった。しかし、前3者をコルポラシオンの精神をもち、18世紀になると、より厳しくなった。なぜなら、労働者の数が増大し、彼らの独立精神が現われはじめ、SalariartとSalariéの精神的分離が特にマニュファクチュアに目立ちはじめたゆえに、訓練に服従させたからだ。ブルジョアのために働くこと ― これを禁止したのはコルポラシオンである ― の禁止、集会参加や徒党に関わることの禁止、その仕事を終了することなく、あるいは前もって幾日かの予告なしに雇用者の許を離れることの禁止、書面による賜暇申請の義務化、全労働者のための義務的な職工手帳の携帯義務。

 これらの措置にもかかわらず、宣誓都市で生まれ組合制度のもとで過した労働者はふつうこの制度に対して敵対的ではなかった。彼は親方になる可能性を残しており、このような規制は特に行きすぎた親方の権利に逆行するものだった。p.969 しかし、ほとんどすべての労働者、就中自立を望まない労働者は組合制度の抑圧から何も得なかった。大・小の工業において労働者たちは一般に限られた未来をもった。満足するにせよ、あるいは不満足であるにせよ、彼らは長い伝統にこの骨格の中に残ったが、この範囲を超えて改革する境地にほとんど達することはなかった。アンシアンレジーム末期、大部分は明らかにその存在の一般条件と調和しつつ、悲惨な暮らしに負われ、ブルジョアジーほどには社会変革の思想に公然と加担することはなかった。

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