商業芸術は芸術ではない | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

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商業芸術は芸術ではない

 日本人のアイデンティティとして、他者に同調し周囲との温和な関係を求めることが考えられる。すなわち、一方的な主張を好まないということだ。それは日本において芸術は商業芸術として発達した点にあらわれている。江戸時代で流行した浮世絵は民衆の娯楽のためのものであったという論点解説であった。つまり、浮世絵の作者は絵中において自己主張よりも他者からの共感を求められるようなものを表現したと考えられる。

 芸術は個人の意識・感情を他者に伝えようとする行為であるというが、日本人のアイデンティティのもとに描かれた浮世絵はもはや個人から伝えられるメッセージは存在しない。商業芸術は芸術と呼べるものではないのではないか。

 

【短  評】 

 筆者は、日本社会の「甘えの構造」と日本における商業芸術の発達とを絡ませて論議する。すなわち、浮世絵師は人気獲得(売れ行き)を意識して浮世絵を世に出した。芸術は「個人の意識・感情を他者に伝えようとする行為である」はずだが、それを無視した浮世絵は芸術とは呼べない、と筆者は結論づける。

 商業主義は芸術と両立しないことが筆者の芸術の定義(本質的特徴)をなしているとみたが、評者のみるところ、これは暴論ではないか。商業主義の有無を軸に作品の序列をつけるとなると、芸術品と非芸術品の境界はどうなるのか。

 かつて王侯・貴族・聖職者などのパトロンに依頼されて職人が作画した肖像画、合戦図、宗教画が芸術のカテゴリーに含まれる一方、大衆相手の浮世絵や草紙は芸術作品から排除されてしまう。パトロン依頼による作品も大衆相手の浮世絵作品のどちらも、絵師たちの活動の裏でカネが動いているはずだ。前者は大金が一度に動くのに対し、後者では刷り物のせいもあって一品当たりの単価は安くても数が多ければ「チリも積もれば山となる」で、やがては大金となる。そして、片方を高尚な行為(芸術品)、もう一方を卑賎な行為(非芸術品)と区別することにどんな意味があるのか。

 評者は芸術の意味づけを「個人の意識・感情を他者に伝える行為」に求めること自体に異論をもっているのではない。しかし、商業主義による作品区分法は芸術品の定義とは別次元のものとみている。

 この区分法が不つごうな実例を挙げておこう。かつてナチス=ドイツの支配下で多くの絵師が大量動員されて壮大な壁画や彫像、そして美術館が創設された。アドルフ・ツィーグラー(1892~1959)主導によるナチス主義称揚の大展覧会運動と、それまでに ”退廃芸術” の烙印を捺された作品の物理的破壊の運動は、それこそ商業主義とは無縁のものである。むしろナチの運動は商業主義にもとづく ”退廃芸術” に反対して運動を興したのである。だからと言って、これを芸術にとって意義ある運動と位置づけることはできない。

 本批評文の評価は60点

  

【文章作法】 

(1)表現。前段1行め:「日本人のアイデンティティとして」⇒「日本人の性格上の特質を挙げると」

*同4~5行め:「江戸時代に流行した浮世絵は、民衆の娯楽のためのものであったという論点解説であった」⇒「論点解説によれば、江戸時代に流行した浮世絵は民衆の娯楽のためのものであったという」

*後段2行め:「日本人のアイデンティティのもとに描かれた浮世絵は」⇒「日本人が描いた浮世絵には」

 

(2)読点。文中の印の箇所に読点を打ち、下線の引かれた読点は削除せよ。

 

(3)助詞。最終行で抹消線を引いた助詞「」は不要。「は」を3連続で用いるのはよくない。助詞「は」は他と区別する(強調の)意であり、3連続で用いると、他と区別(強調)できなくなる。