三 地下のパリの歴史(講演版 3) | matsui michiakiのブログ

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横浜市立大学名誉教授
専門は19世紀フランス社会経済史です

3.石材
A.パリの名産=切石
地下資源のなかでもっとも代表的なものが石材である。これは古代から利用されてきた。切石に使われる粗石灰岩、石膏、レンガ用の粘土と黄土、沖積層の砂と砂利である。そして「ムードンの白亜」に代表される白亜である。ムードンでは18世紀から1918年まで上質の白亜が採れた。これを粉砕して得られる有名な「ムードンの白亜」は塗料や陶器製造に適していた。サン=クルーに名高いセーヴル陶器工場(現在は博物館)が設置されたのはこのことと無関係ではないイメージ 1
パリの地下資源でとくに重要なのは粗石灰岩(ルテシア階)である。建材として質的に最良の石灰岩が大量に存在しており、いちばん最後まで採掘がつづけられた。パリにおいてふんだんに石造建築物が多く建立されているのも、この地下資源に恵まれたことと関係がある。たとえばノートルダム寺院の建立(12世紀)に使われた切石は現パリ市内のサン=ミシェル、サン=ジャック、サン=マルセルの各フォブールで採れたものであることがわかっている。ルーヴル宮(14世紀)の礎石はパリ南西郊外のサン=クルーと市内のモンパルナスから切り出され、18世紀の陸軍大学校の石材はヴォージラール採石場の石が使われた。
切石はセーヌ川まで運ばれ、外国にまで輸出された。英国ケント州にあるカンタベリー大聖堂はパリの採石場から運ばれた石材でつくられた。英国には石材が乏しく、だから建材はレンガなのである。有名なテュルゴーの地図(1739)にもセーヌの川舟に切石を積んでいる様子が描かれている。現在のパリ市役所前広場はその昔、「グレーヴ(砂・砂利の意)広場」といわれたが、ここはもと、砂・砂利の積出港であった。イメージ 2
この貴重な地下資源を求めて、長い間パリでは採掘が続けられてきた。わかっているかぎりで、パリ最古の採石場は植物園(パリ第5区)の下にある。ガリア=ローマ人はここから石を切り出して、シテ島の要塞の一部として使った。つづいて採石はシャイヨー、パッシー、モンマルトルでおこなわれるようになった。採石場の風景はパリの風景の一部とまでなった。パリ市内で始まった採掘はしだいに郊外に向かい、20世紀まで続けられた。パリ南郊バニューで最後の石灰岩採掘場が閉鎖されたのは1939年のことである。最初は露天掘りで、のちに地下採掘場として、文字どおりパリの地下を食い荒らした。1,000 haパリの表面積の10分の1)が掘削された。
パリの半分以上の区で採掘が試みられ、それはセーヌ左岸に集中していることがわかる。パリ5区、6区、13区、14区、15区の計で600 haに達する。サント=ジュヌヴィエーヴの丘、リュクサンブール公園、植物園、イタリ―広場、ダンフェールロシュロー広場、グラシエール、ビュット==カイユー、モンスーリ公園の地下がそうである。ここには建物の礎石として好都合な粗石灰石が埋まっていた。一方、右岸で粗石灰岩を出すのはわずか2箇所(50 ha)にすぎない。すなわち、パッシーとドーメニル街区。
反対に、石膏の採掘はセーヌ右岸、パリ8区、10区、12区、16区、18区、19区、20区に集中している。地名を言ったほうがわかりやすいだろう。つまり、モンマルトル、ベルヴィル、メニルモンタン(ペール=ラシェーズ)、モン=ヴァレリアンなどの丘地。今は埋め戻されているが、ビュット=ショーモンとバニューの採掘場も石膏採石場であった。石膏を求めての採掘もパリ郊外をめざす。ヌイイ=プレザンス、ガニー、ヴィルパリシス、アルジャントゥイユなど。
粘土はオートゥイユ(モザール大通り)、ヴォージラール(博覧会場跡地)、メゾン=ブランシュ(モンスーリ公園からジャンティまで)で産出した。上質粘土は陶器と瓦の製造に用いられた。採掘は地下35 mまで達するが、浸水と酸欠、有毒ガスに出くわす危険を伴った。
砂と砂利はルイイとグルネルで採取されたが、それは鉄道建設に欠かせない資材であった。砂とくに「フォンテヌブロー砂」はモルタルおよびコンクリートにとって必須は材料であり、とくに19世紀末以来重要度が増した。それはベルヴィルとビュット=ショーモン、ピレネー通りで採取された。現在、採掘源はとっくの昔に市内を抜け出て ヌムール=エタンプNemeur-Etampes とシュヴルーズChevreuse 渓谷に移っている。パリ市内において最後の採石場となったのはモンマルトルであり、ムーランド==ギャレットからモンパルナス墓地にいたる場所がそれで、1870年の戦争直後に廃坑となった。パリ市内で新たな採掘を禁じる法令は1813年、セーヌ県全体で禁令が出るのは1962年のことである。
 
 B.宙吊りの都パリ
無秩序な採石の結果、パリは穴だらけ、地下道だらけとなる。パリ市内全体で坑道の総延長は少なくとも300 kmに達すると言われている。どこにあるかというと、公道下と民有地下の半々の割合にある。坑道の深度は浅いほうで2 m(たとえば、ヴォージラールの Square d’Alleray)、深いほうの例では ウィレットWillette とテルトルTertre 広場の40 mである。これらの錯綜した迷路はあたり構わず広がったため、いたるところにある。たとえば、モンパルナス墓地の下は8kmにわたる廻廊が走っており、リュクサンブール公園の下は3km、植物園の下は800 mという具合である。
パリ市内の10分の1すなわち、表面積ブーローニュの森およびヴァンセンヌの森を含む1万ヘクタールのうち1,000 haに地下回廊が走っており、パリは文字どおり「宙づりの都」イメージ 4となっている。市民は中空の土地に生活していることになる。とくに、モンパルナス駅、シャイヨー宮、ヴァル==グラース寺院、天文台、ゴブラン工場、その他の公的施設の下が空洞になっており、それを埋める必要性があった。
郊外はどうか。郊外40市町村が、放棄された採石場の跡地をかかえていた。何よりも急ぐべきは実態調査であったが、その作業はパリのケースより遅れた。セーヌ県全体で採石場は1,300 haに及ぶものと推定されている。
パリの地下資源産業の名残りのなかでも特に地下採掘場は、残柱(石膏層内)や鉱柱に支えられた数層から成る広大な空洞であり、錯綜した迷路のようでもある。採石場の多くの部屋は安全上の理由から埋め立てられたが、延べ300 kmの監査坑道が残っている。それは趣のある、ときとして危険な迷路のようでもある。これは原則として非公開であるが、それでも冒険好きの浮かれた連中が忍び込んで“手柄”を立てようとするが、採石場の監督局や警察などによって捕まってしまうのがオチである。
人間が開けた空洞のほかに、様々の石灰岩層、とくにパリ市内北部と北東部の丘の石膏層に見られるように、自然溶解によってできた空洞がある。自然溶解というのは地下帯水層内の水の循環が原因で広大な空洞がさらに拡がり、上層が落盤し、これによって数千立方メートルの鐘型の空洞が形成される。沈降が地表にまで及んだときには「陥没」を起こし、深さ1015 mの穴が突如として口を開けるのである。
廃坑を放置しておくのは非常に危険である。そこに人が侵入して思わぬ危険に遭うばかりでなく、いつ何時、陥没事故が生じて、地表の建物が倒壊するかわからないからだ。実際、長く放置されてきたこの秘密の廻廊は泥棒の棲家となったり、イエズス会の祈祷場となったり、秘密結社の巣窟となったり、フランス革命下で臨時の牢獄として使われたり、亡命貴族の隠れ家となったりして、パリ史の裏面を飾ることになる。ルイ十六世が革命の難を逃れんとしてテュイルリーの下の地下洞に身を潜めた話もある。ジロンド派のコンドルセ(教育3原則の唱道者)が山岳派の追及を逃れ、1年半ものあいだ身を隠したのはリュクサンブール宮の近くの石切場跡地であった。
   最大の懸念は建物の倒壊であった。何かの住宅、とくに公的建築物の建設が始まるたびごとに、工事現場が突然、口を開けるため、工事が中断に追い込まれる。そこがそのように中空になっているとすれば、既存の建物の下もがらんどうである可能性がある。かくて、市民生活の安全を期して埋め戻しが行なわれたが、それは徹底しなかった。調査に金がかかるからである。結果として、埋め戻しは部分的であるとともに不均一のままに終った。だから、時々、陥没事故が起こるのだ。イメージ 5
陥没事故の引き鉄となるのは自然である。大雨による地面への水の浸透が地面の亀裂を拡大し、そこに建物の重量が加わるものだから、地面が突然沈下しはじめる。こうした事故は歴史上いくつか記録されている。たとえば、16世紀、パリの東郊エタンプのサン=マルタン教会はピサの斜塔のように傾いていたことが年代記作家によって記録された。あきらかに水の浸透による地盤が緩くなったせいである。ひどい被害を出したのは187080年代である。1880年、サン=ミシェル大通りの理髪店で夕食の最中に陥没が起った。突然地面が割れて,料理、テーブル、皿、陳列品が地面に飲み込まれた。店主自身は奇跡的に窪地の縁で椅子に座った状態で無傷で助かった。以後、十年間に6件の陥没事故が発生したが、建物全壊とともに犠牲者を出した。
もっと現代に近い例を引こう。1953年、Buttes de Bagnolet (バニョレの丘)で、立入禁止の場所に近くの住民が柵を越えて侵入しウサギ小屋をこしらえようとしたとき、突然、巨大な穴が口を開け、そこに6才の児童と母親が呑み込まれて死んだ。その半月後、今度はパリの西郊ナンテールで直径百メートルの穴が生じ、百人以上の負傷者を出した。1955年にはパリの南郊クラマールで、地下6 mのところで下水工事をしていた3人の作業員が事故に遭った。同年、パリ東郊ノワジ==セクでも直径30 mの穴ができた。
こうした例はたくさんあるが、事故で最大規模のものは196161日にクラマールで生じたものであろう。それは朝の僅か30分間のうちに起きた出来事だった。イシー==ムーリノーIssy-les-Moulineaux とクラマール Clamartの境界線上で、セーヌ川に突き出した絶壁の天辺で大陥没が生じ、一帯がガレキの山と化した。60戸の住宅と集合住宅がバタバタと倒壊。そのほか23戸の住宅が居住不能となった。この事故で21人が死亡し、18人が重傷を負った。被災者は100世帯279人にのぼった。事故はそれにとどまらなかった。イメージ 3
午前1040分、大音響とともに炎が噴出した。プラスティック工場と軍倉庫で火災を起こしたのだ。30分後、新たな大地の揺れとともにもう一つの巨大な漏斗が陶器工場をスッポリ呑みこんだ。幸いなことに後の方の事故では火災と爆発は生じなかった。
パリ市およびセーヌ県の行政官庁が採石場跡地に対する調査と監視を強めたことはいうまでもない。危険地域への立入はむろん、一切の建造物が禁止された。フランスが世界のどこかで大地震が起きたとき、被災地にいち早く救援隊が駆けつけ、最新の機器をもって対処するのは、今まで述べてきたような地下洞との闘いをしてきた経験に裏づけられているのではなかろうか。