(まずは記事↑をご覧ください)
領土問題と歴史の検証は実に重要です、領土問題には
竹島・尖閣とが出てきていますが、もう一つロシアの大
統領が訪れた北方領土があります
この北方領土に関して「ロシアに実利をもたらす北方四
島を日本に返すべし」と唱えるロシア人学者スラヴィン
スキーの存在をJbpressで古是三春氏
(古是三春氏:1960年生まれ。主に共産圏の軍事史、軍事技術史について記事を執筆しながら、日本の機甲部隊の歴史や戦車開発、戦史についても研究している)
が書かれている記事がありましたが、
法を知り実に理の通った事を言われる方がロシアに
おられたことには感動しました
文中の特に北方四島の返還がロシアを利するという
ところを転載させていただきます
「北方四島を日本に返すべし」と唱えるロシア人学者
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/35924
「北方四島は一度もロシア領になったことはない」と認める
ひるがえって中韓両国の行動から我々が学ぶべきことの1つとして、
紛争にかかわる相手国の論点をよく研究して、事に対処すべきであるということがある。
領土や国境線を巡る紛争の解決には、自国内の世論も重要な要素である一方、相手国の世論をもある程度納得させる論や措置の構築と提案が重要だ。
もしも相手国内に、こちら側の主張に一部でも味方する議論があるとすれば、その論旨をよく研究し、分析すべきである。
自分の国で組み立てた議論を相手にぶつけるだけでは、だめなのだ。
実は北方領土問題を巡って、ロシア(旧ソ連)には、日本側の「四島返還論」を正当なものとして自国の記録資料からあとづける議論が存在した。
ソ連崩壊前後から軍や外交史料(以前はほとんどが機密解禁されなかった)を精査し、歴史的に見て択捉、国後、色丹、歯舞(群島)の四島を日本に返還すべきだとの論をまとめた学者がいたのである。
ソ連科学アカデミー極東研究所が発行する学術誌『極東の諸問題』副編集長を務めたボリス・ニコライェヴィッチ・スラヴィンスキー(1935~2003)である。
スラヴィンスキーの著作はいくつか邦訳されているが、北方領土問題について、ソ連軍による占領経過の検討をしながら分かりやすく論じられているものに『千島占領 一九四五年夏 』(加藤幸廣訳、共同通信社、1993年)がある。
スラヴィンスキーが議論の前提として第一に確認しているのは、
「北方四島(択捉、国後、色丹、歯舞)
は一度もロシア領になったことはなく
日ロ両国間に争いはなかった」
ということである。
これは、我が国が主張している返還論の論拠でもあるが、ロシアでは過去からこの問題について、次のように全くかみ合わない議論が幅を利かせてきた。
「多くの歴史文書は、ロシアの移住民がサハリンと千島諸島の最初の発見者であって、18世紀~19世紀のあいだにそれを調査し、開拓した最初のものであったことを、反駁の余地なく証明している。
しかし、日本は、極東におけるロシアの弱みにつけこんで、1855年の条約の締結に成功し、この条約にしたがって、サハリンは共同所有と宣言され、千島諸島は分割された」(『第二次世界大戦史 第10巻 』ソ連共産党中央委員会附属マルクス・レーニン主義研究所編、川内唯彦訳、弘文堂、1964年)
「1855年の条約」とは、下田で締結された日露通好条約である。
その第2条で両国の国境を得撫(ウルップ)島と択捉島の間に置くとした。
以来、それより南西の「北方四島」は日本固有の領土として確認されてきたのだ。
しかし、旧ソ連の学者(それに今日のロシアにおける多くの論者たち)は、「ヨーロッパ方面で英、仏、伊、それにトルコからの圧力を受け、クリミヤ戦争(1853~56)に直面しているロシアの弱みにつけこんで、日本は南千島(北方四島)の領有権を一方的に主張した」
という見解を披歴し、旧ソ連が北方領土を太平洋戦争終結前後に占領し、自国領に編入したことを正当化しているのだ。
スラヴィンスキーは、こうしたロシアでの大方の議論を
「事実に反している」と批判する。
1855年の条約締結交渉にあたったロシア全権、プチャーチンあての皇帝ニコライ1世による訓令が、日本との交渉以前に「国境を得撫島と択捉島の間に置く」ことに同意するとされていたからだ。
これは、日露関係研究者であるロシア科学アカデミー東洋学研究所所長であるコンスタンチン・サルキソフ (1942~、現山梨学院大学大学院教授)らが発見した歴史的文書だ。
1875年には、日露間に「千島樺太交換条約」が締結され、樺太(サハリン)全体をロシア領とする代わりに、南部千島(北方四島)以外の北部、中部千島も日本領とされた。
これで全千島が日本領となった。
ここまでの日露間の領土を巡るやりとりは、平和的な相互理解に基づいて行われている。
スラヴィンスキーは、これら日露関係の原点と言うべき事実を
問題解決の前提に置くべきだとしている。
この論拠に立てば、「全千島諸島を返還すべし」という主張もできなくはない。
だが、日本は1951年のサンフランシスコ講和条約で「千島諸島の放棄」を承認してしまっている。
それでも、
1875年にサハリンと交換された「千島諸島」は、
すでに1855年に日本領と認められていた南千島(北方四島)が含まれていなかったので、
この部分については日本側の返還請求に根拠があるとするのが、
スラヴィンスキーの議論である。明快だ。
「北海道占領」の大国主義的思惑の中で生じた北方四島占領
スラヴィンスキーは前掲著作で、南サハリンおよび、北方四島を含む全千島を占領するに至るソ連軍の行動と、スターリンが率いるソ連指導部の思惑を、詳細にわたる軍事記録文書を含めた歴史的資料で追跡し、その行動の本質的内容を明らかにしている。
かいつまんで列記すると、次の通りである。
(1)日本は1945年8月14日に、ポツダム宣言に基づく無条件降伏受け入れを表明した。
ポツダム宣言は、「領土不拡大原則」を連合国間で確認した1943年のカイロ宣言の条項を前提にしたものである。
それにもかかわらず、米英ソによるヤルタ会談の秘密協議では、「全クリール(千島)列島をソ連に引き渡す」と確認され、さらに対日参戦時にスターリンが米国に対し「北海道の留萌と釧路を結ぶ線の北側をソ連が占領する」と提案した。
(2)米国のトルーマン大統領は、スターリンによる「北海道の北半分占領」提案を拒否し、千島諸島についてもそれをソ連軍が占領するかどうかについて、曖昧にする態度を取るようになった。
(3)結果として、ソ連軍は米軍進駐前に千島諸島全体を占領するために強引な軍事行動を実施し
すでに日本が降伏を表明していたのに、8月18日には千島最北方の占守(シュムシュ)島に砲爆撃の後、強行上陸して戦闘を惹起し、相方に多大の犠牲を出し、さらに9月2日の降伏調印式後も色丹、歯舞への軍事行動を継続した。
これらのソ連軍の行動は、すでに米英との対立が始まり、戦後の冷戦状況の萌芽が生まれる中、少しでも自国の軍事戦略に優位な地歩を得るためのスターリン政府による大国主義的思惑に基づくものだったのだ。
いわばこうした「領土拡張主義」政策は、終戦時における無駄な犠牲を余儀なくさせた上、長年にわたる日ロ関係発展の阻害要因を生み出すこととなった。
「北方四島返還こそロシアにとっても実利をもたらす」
8月18日から23日にわたった占守島の攻防戦では、8800名余のソ連軍攻略部隊のうち1567名、約2万名いた日本軍守備隊では1018名の死傷者を出した。
これは、ソ連軍部隊にとって8月9日以降に対日作戦に従事した中で最大最悪の損害だった。
スラヴィンスキーはこう嘆いている。
「戦争がすでに事実上終了し、日本の無条件降伏文書が公式に署名される日を指折り数えて待つ状態にあるとき、双方が膨大な人的・物的損害を出す軍事的・戦略的必要性がどこにあったのだろうか」(前掲著書)
ちょうどソ連が崩壊した後に著作をものしたスラヴィンスキーには、以上の経過の中で無理押しに占領された北方四島を日本に返還してこそ
真の平和的国際関係が形成されるし、冷戦を本当の意味で終結させることができると考えたのだ。
彼は著作を次のような言葉でまとめている。
「・・・これは経済、科学技術、文化の分野において露日間に長期にわたる、大規模な協力関係を打ち立てる道を開くものであり、ロシア極東の諸地方および諸州の経済発展を安定化させる上でも重要な要因となるであろう」
「日本に対するこうしたロシアの外交路線が全世界の好意的な反応をうることは、疑いの余地がない。
これによって第二次世界大戦の終止符を打ち、『冷戦』の対決の時代を終わらせ、露日関係に新しいページを開くことができる。
これはロシアの権威を高め、アジア・太平洋地域全体に新しい国際秩序を打ち立てる上で重要な貢献をなすものである」(前掲著書)
「北方四島返還」こそ、ロシアにとっても実利をもたらし、真の権威を高めるものである──こうした議論がロシアにあることは、銘記すべきだ。
(文中敬称略)
転載は以上ですが
ロシアには偉大な学者がいるものですね
実に真に大局に立って、両国の反映と発展の要を
述べておられます。
特に、日本からの論破ではなく、ロシアからの発言で
ある点に敬意を表したい思いがいたします。
尚、この記事では韓国が竹島への国際司法裁判所
提訴に応じない姿について
「日本による国際司法裁判所提訴を招いた李明博大統領の行動は、「提訴を受け入れない」
(国際司法裁の本審理は当事国すべてが実施に合意しないと行われない)
と韓国政府が表明したとしても、
「提訴を受け入れない理由の弁明」が求められることとなり、堂々と国際社会の審判を得ようという日本の姿勢や立場との違いが鮮明となる。
いずれにしろ、主張の違いがあっても、紛争は平和的解決へ努力することが国連憲章の原則である。
中韓両国の一連の姿勢はこれとは相いれないことが国際社会では明白となっている。
と書かれていますので追記させていただきます
それにしても驚きましたね
「日本は1951年のサンフランシスコ講和条約で「千島諸島の放棄」を承認してしまっている。」
なのですが
北方領土の4島は、千島諸島の島ではなく、講和条約
外のもともと日本の領土だったんですね
ですから、日本の領土であったのに不当にソ連に占領
されたわけですから、北方領土は四島返還が基本なる
わけです。実に明快ですね!
日本は世界の場で訴えることを学ぶべき時に来ています
私は世界目線で語れる古是三春氏の記事は多くの
日本人に読んで頂きたいと申し上げたいわけです。
記事一覧http://ameblo.jp/matsui0816/entrylist.html