震災13年 明日を考える旅 | まつ子の気まぐれ旅日記

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家にはじっとして居られず、時間があれば旅に出ています
こんな私ですが宜しくお願い致します

*以前はグリーとyahooのサイトにて簡易ブログを記しておりました。
許容量オーバーとブログサイト閉鎖の為、こちらでお世話になります。

〇3月11日

13年前の3月11日。皆様は何処で何をされていたでしょうか?

当時の私は東京・浜松町の第一京浜に面した職場に勤務。

緊急停止をした車が前後に波打った様に揺れて居た事を思い出します。

 

今年の11日は岩手県南の一関市内で起床。

雪の無い晴れ渡る一日のスタートを迎えました。

 

早速、大船渡線のディーゼルカーに乗車。

「キュンパス」と「青春18」効果もあるのか、立ち客も多く混雑。

ローカル線のボックス席で先ずは1杯と ハイボールと小岩井チーズを購入をしていたのですが

早々に鞄にしまい込んだ私です。

 

一ノ関駅から90分。気仙沼駅に到着。

漁港方面へと先ずは向かいたいと思います。

 

駅前からバスで10分。漁港近くの「海の市」に到着です。

震災前には仙台の友人と訪れ、シャークミュージアムで鮫に触れ「鮫肌すぎる!!」と、ほほ笑み

鮪の海鮮丼を美味しく味わったことを思い出します。

 

この施設ではビルの2階まで津波が到達。

上階は奇跡的に被害は少なかったものの、低層階は柱だけを残し原型を留めていなかったとのこと。

同じ気仙沼市内でも20m以上の津波が到達した地域もある。

漁港周辺は入江の様な地形であり、津波の高さは低めであったと聞きます。

それでも、ビル2階の津波。破壊力を考えると、数十センチ、数メートルの予測でも油断は禁物です。

 

今の漁港周辺は新しい家屋と空き地が目立ちます。

この地域は津波被害の他、火災被害があった事でも知られています。

港にあった重油タンクが津波により倒壊。重油が漏れ、油の津波となり、浸水地域は火の海の大火となりました。

13年を経過した今でも空き地が震災の脅威。2次災害、3次災害を語っているかの様です。

 

震災について学ぶことも大切ですが、地域にお金を落とすことも大切なひとつ。

海の市の「カネト水産」さんでランチタイムです。

 

お刺身定食(1800円)を注文。右上から反時計回りに…

「マグロ」「メカジキ(トロ)」「メカジキ(炙り)」「サーモン」

メカジキは気仙沼周辺がブランドとあり、

先ずはトロ刺。醤油無しで山葵を少しのせていただく。脂がのって極上な美味さ☆

炙りは少し醤油をつけて白米と一緒にパクリ…美味い!!

赤身のマグロでサッパリとさせて、サーモン。

サーモンは「海峡サーモン」というブランドで、津軽海峡の海域で水揚げされる鮭。

身が引き締まりながらも脂がのって「大トロサーモン」といった絶品の1枚でした。

海の恵みに感謝。今日も美味しくごちそうさまでした。

 

食後はBRTに乗車をし陸前階上(りくぜんはしかみ)へ。

BRT(Bus Rapid Transit)とは、バスの専用道を走行し、高速性・定時性を高めたバス路線。

気仙沼を含めた三陸周辺のBRTは津波被害で不通であった鉄道線路跡から転化し BRTとなった路線です。

 

BRTを降車し海へと続く1本道。

青空が優しく迎えてくれます。

 

漁港が見え始めると対岸には学校らしき建物が。

そう。気仙沼向洋高校の旧校舎。震災遺構として当時の姿を残しています。

 

敷地に近づくと倒壊した建造物が目にとまります。

残った骨組みを見ると、どの方向から津波が到達したのかわかります。

 

当時の校舎は「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」として震災を伝える史料館となっています。

 

震災当日は春休み間近ということもあり、午前中授業のみ。

校舎内には部活動中の生徒と先生方などが残って居たそう。

 

海岸線から150m離れた校舎には4階部まで浸水。

校舎内には流木。3階部には自動車が流れ着き、山側の壁が盾となって留まっています。

 

そして、最上階(4階)の壁面はえぐられた様に崩れています。

 

この痕跡は近隣にあった工場の建物が流出。津波での衝突で出来た痕跡。

建物を流出させ、コンクリートの壁を破壊する津波の威力。

ここでも、人間の小ささ。津波災害の脅威を感じさせられます。

 

2つの校舎の間の通路には瓦礫の山が。

ここには今も5台の車があるという。横転では無く縦に留まる自動車。

半島の様に少し突き出した地形の校舎周辺。

2方向からの津波が到達して校舎が関の様な形になり 流れ着いたものが留まったと言われています。

 

14時46分。校舎屋上より…

黙祷。

 

かつての人々の生活のあった光景は、パークゴルフ施設に。

津波に強い街づくりで、多くの住宅は高台へと移設し 震災復興は進んだとも感じられますが
震災前と比べると生活環境は変わってしまったと感じられる光景です。
 
今回は、気仙沼の被災地域を訪問をさせていただきました。
前泊を通して2日間で感じた事ですが、地域の報道番組でも震災を特集する時間が年々少なくなっていると感じます。
地方局の番組予算もあり、キー局の番組を流すことは仕方のない事なのかもしれませんが風化というものも感じられます。
今回の旅で出会った地域の皆様のお言葉と、当日の岩手日報さんの記事より(要約)
「幼少期に被災。今も緊急車両のサイレンを聞くと過呼吸になることもある」
「十三回忌が終わり 一つの節目と捉えた人は少なくない」
とある店舗の従業員さんは、何かの発注日であったらしく、同僚に対して
「○○さん!!今日って何日だっけ!?」という声も聞こえました。
 
13年という歳月はそれぞれの捉え方があるのでしょうが、
災害時に何をすべきか。
どのように生き延びるか。
どのように減災へと繋げられるか。
個々にしっかりと意識を持ち、心掛けられれば、災害に強い未来に近づけると感じます。
 
このブログを通して減災意識の共有と向上へ繋げられればと思います。
今回も旅日記の閲覧をいただきありがとうございました。
 
~余談~
学生から社会人以降の人生で 思い出のある3.11の被災地域。
「幸いにも」と記してしまえば失言となってしまうのでしょうが、震災被害の無かった関東民の私。
震災以降は3月となると、東北地域の何処かに足が向いてしまう私です。
ピアニストのハラミさんも3月上旬には仙台空港に設置をされる「仙台復興ストリートピアノ」を弾きに訪問をれている様子。
私には魂のこもった演奏は出来ない。でも、被災地域に足が向いてしまうのです。
仙台空港のある名取市の閖上(ゆりあげ)地区も津波被害のあった地域。
来春は久々に空港か閖上を訪問してみようかな??
閖上の商店街も暫くは空港近くで仮設営業をしていた頃もあったよな??
商店街でお餅をふるまってくれたお母さんはお元気かな??
皆が花が咲く、心が満たされる明日へと繋がることと願います☆