【動画ご紹介】上島嘉朗氏が語る、いまなぜ「鬼滅の刃」なのか~日本人が見失っていた価値を取り戻す~ | 松田学オフィシャルブログ Powered by Ameba

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日本を夢の持てる国へという思いで財務省を飛び出しました。国政にも挑戦、様々な政策論や地域再生の活動をしています。21世紀は日本の世紀。大震災を経ていよいよ世界の課題に答を出す新日本秩序の形成を。新しい国はじめに向けて発信をしたいと思います。

いま、日本でも海外でも爆発的な人気を博している「鬼滅の刃」。

この作品は、グローバリズムや構造改革が席巻した平成時代を通じて日本人自らが見失っていた日本の価値感を呼び覚ましてくれる、そのことに私たちが感動するだけではなく、広く海外の人々が、そのような日本的価値観に何かを感じているということが、人気の背景にあるようです。

元「正論」編集長の上島嘉朗氏が松田政策研究所で二度にわたり、情熱的な解説をしてくれました。

第一回目は、「鬼滅の刃」そのものが意味するところを語っていただき、第二回目では、そこから得られるメッセージをもとに、世界で強まる全体主義の流れを斬り、そのなかで私たちが日本的価値や自由を守るための指針を示してくれています。

日本を取り戻す…考えさせられることの多い対談になりましたので、以下、ご紹介いたします。

 

<第一回目対談>

 

●鬼滅の刃と昭和と日本…コロナ禍のいま、なぜ感動を与えるのか

平成が終わり、コロナ禍の世相の中で、すでに「千と千尋」を興行収入で追い抜いた「鬼滅の刃」という映画に、男女年齢層を問わず多くの日本人が感動していることの必然性がみえてきました。元正論編集長の上島嘉郎が熱く語っています。私も、この対談に備えて何とか時間を空けて「無限列車編」を見てまいりました。

でも、上島さん、ここまで熱いとは…対談の途中で泣き出してしまわないか心配でした。

考えてみれば、グローバルな普遍性の建前のもとに、人間を交換可能な薄っぺらい存在へと貶めてきた平成時代の世界の潮流は、日本人が歴史的に紡いできた人間としての生き方とは異質のものであったことに、平成時代の日本が世界で最も経済成長しなかった国となったことの原点があるのかもしれません。

いまでは否定されている昭和までの日本とは何であったか、人間は縦のしがらみのコミュニティ中で宿命を背負いながら、それゆえの責任と使命を果たしていく存在であるからこそ、価値ある人生を生きられるものではなかったか。

 グローバリズムが是とする強者のパワーとは、本来、それを具有するに至った者が弱い者のためにその力を使うために与えられたものではなかったか。親子や先輩後輩やコミュニティの絆、その中で単なる生物的存在を超えて何かの価値のために生きる人間の生き方があるからこそ、我々は頑張ってこれたのではないか。

日本とは何かを考えさせるこの映画の物語や登場人物たちのセリフには、保守思想の人の心にビンビンと響くものがあります。特に若い世代にこれが受け入れられているという現象は、もしかするとポストコロナのパラダイムが、デジタル化の流れとは異なる方向に向かうものかもしれないことを想起させるものがあります。まさに「日本新秩序」を考えされられました。日本復活を考える上で、元気をもらえる映画だと思います。

 

◆「映画『鬼滅の刃』大ヒットの理由と忘れてはならない日本人の精神」ゲスト:元月刊『正論』編集長 著述家 上島嘉郎氏

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以下、対談での上島さんの言葉を拾ってみます。

・ニッポンという国はどんな国なのか、日本人の物語だと強く感じられた。登場人物たちが昭和までの日本人の価値観を体現しており、それが若い人たちに受け入れられているのが驚きだった。こんにちの人権観、人道意識、ポリティカルコレクトネスの感覚では、受け入れられないだろうというセリフや場面がたくさん出てくる。それは人間社会でごまかしてはならない本質だろう。

・「無限列車編」は四回見た。テレビやアニメは全部みた。その最初のところで、妹をかばう兄に対し、制裁与奪の権を他人に握らせるな、みじめったらしいことをするな、弱者には何の権利もない、力という意味を主人公に伝える。妹を直したいなら強くならねばならないのだ。

・その対になる言葉が、鬼滅隊の中でも柱と呼ばれる煉獄という柱が、それと闘う鬼から、お前は鬼になれ、鬼になれば死ぬこともなく、武道の道をいくらでも追求できるぞと利益誘導するが、鬼にはならず、責務を全うする。

・そこで回想シーンが。母親との幼少時の思い出。なぜ゜強く生まれたか、強く生まれた人には責任がある。弱い人を守る使命がある。強い者は使命を果たすのだと母に言われるところでつながってくる。

・煉獄が後輩の盾になる。盾になるのは先輩として当たり前。これは日本人が守ってきた縦の秩序感覚。いまなら、みんな同じでしょ、になる。使命を立派に果たしている人たちがいる。だから感動できる。

・私たちが忘れていると同時に、それはもう古く良くない価値観だと否定される。それは欺瞞。人間は突然、中空に出現するのではなく、両親がいて育てられて大きくなって命がつながっている。誰かの血筋を引き、誰かの価値観とつながっているのは当たり前のこと。

・それから解き放たれて一個の砂粒になっていると戦後教えられているが、垂直の関係があって、そこで守られているというのは、共同体の一員としての当たり前の意識だった。特に平成になってからグローバリズムの影響。これからは、ただのしがらみなんだと、否定的な意味で絆を切っていくことが進歩だという意識を持ちすぎたのではないか。

・幼少期に母が煉獄を抱きしめて、私はもう長く生きられない、強い子を産んで幸せだった…。煉獄が死ぬとき、俺のほうこそあなたに生んでもらって光栄だった、そんなのを投げやりに見るのが現代的な価値観。家族は厄介だし…と。だからといって親子は特別な関係性があると考えるところに何の問題があるのか。家族という価値観を壊したい人たちにに対して、真っ向から立ち向かっている。

・強い者が勝てばよいというグローバリズム。強い者は何のために強いのかという原点をぱっと言ってくれている。平成という時代を振り返ると、若い人は感じると思う。

・終身雇用、それは企業にべったりと人生を預ければ安閑としてられるという安易な面はあったが、そこまで面倒見てもらえるなら頑張ろうというのがあった。昔は、採用したからには何とか仕事をできるようにしていこう、それが先輩の役割。今は、使えないなら取り換えればよい。それでいいのかという議論なく、機械の部品のように扱うのが合理的とされる。

・しかし、ここでは、絆を失っていいのかとなる。もうお前は役に立たない、やめてもらうというところで人間は頑張れるのか。日本人の活力は何を拠り所に?それはグローバリズムではない。煉獄さんが心を燃やせと。それが心の支え。しごきを受け入れろ。今なら、そんな精神論でと言われるが…。

・人間は老いたり死んだりする、はかすない存在。だから美しいのだ。それに対して無限の利益、どっちをとるか。煉獄は前者をとった。命は限りある。その命をどう生かすか。そこに日本人の死生観。命の価値とは生物的な寿命を長くすることではなく、幸せとは時間の長さより深さだ。かつての特攻隊の若者たちも自分で突っ込んでいくことに懊悩しなかったはずはないが、悩んで悩んで苦しんで決意をかためて、郷土や家族などを守るために命をかけていった。それをただ残酷、悲惨という言葉でくくってはいけない。

・普遍的なあるべき人間像が示されて、そこかにら外れると批判される。そういう人たちは多様性を認めろと言っている。長幼の序や男女の別の価値は、しかし、排除されている。あなた方の価値を押し付けるな、というのがあってよい。

・長男だから耐えられる。男がわめくな、見苦しい。男に生まれたなら進め。その宿命を背負っていくしかない。その中で自分がどういう人生を送るかである。交換可能なことと交換できないことの区別が必要。すべて交換できると考えるのが何か間違っている。交換できないものを壊している。

・親子の関係は交換できない。失ったものは戻ってこない。その中で前に進んでいく。人間の鍛錬そのもの。男として生まれたなら、どう大人になっていくかは、昭和の価値観だった。それが平成の若者に受け入れられている。

・映画を四回も見たのは、どんな人が来てどんな風に感じているかを見たかったこともある。すすり泣く若者が多かった。これが日本人にとって大事だと大人が思うなら、大人が本当にそう思わねばならない。先輩が後輩を育てる、それができていたか。鬼の価値観に突き進んでいった大人がたくさんいた。強いことに走る。

・強い者の使命をわきまえねばならないのに、グローバリズムは片方だけ。戦後の日本の体制そのものを打ち砕いている。国家としても力をもたねばならない。それはどういう意味なのかということが、煉獄さんの言葉に出ている。

・多くの人々が感動しているのは、平成という時代が作ってきた価値体系への違和感が奥底にあったのだと思う。それをはっきり打ちだせるものがなかった。日本人の生き方として提示されているが、何か失ったものを再発見しているというものがあるのではないか。

・昭和時代の漫画では、人間はこんなに素晴らしいし、こんなに醜くも酷くもなるというのことを、少年の気持ちを傷つけるという忖度もなく、大人たちが見せてきた。単なるいじめか、鍛えてくれているのかは、相対でわかるもの。法律で一律に投網をかけるものではない。そういう効率を求めてはいけない。血の通った人間の崇高さとは、相対で判断して良し悪しを決めていくものであるべき。

・平成時代は人間を薄っぺらに脱色して、文字づらの教条的な人間像に作っていこうとしている。いじめはある。同時に、いじめるなという子がクラスにいて、それが混とんとして不思議なバランスで共同体が成り立っていた。いじめはいけないということの一律だけの恐ろしさ。純粋培養のような子供たちの空間を作ってはいけない。

・平等できれいで仲良しという理想だけでは、人間をゆがめる。まともに人間として育っていかない。きれいごとでというのは大人の気持ちだろうが、子供からは嫌悪感。お題目のように言う大人こそ尊敬されない。

・この映画で、鬼は力はいかに用いられるかをわきまえない強者を象徴。天変地異に人間は怒りをぶつけようがない。今のコロナにどう立ち向かえばよいのかわからないという無力感がある。日本人の死生観に照らせば、命は自分一個として永らえることはできず、親がいて、自分の先に命を紡いでいく大河の中に自分がいると考えれば、個というよりももっと大きな価値を感じることができる。

・日本人が歴史的に培ってきた力と記憶がある。乗り越えていく可能性を見せているのが「毀滅の刃」。我々日本は本来は強い力を持っているんだ、モードチェンジに向けて、この映画は「コロナ脳」からの脱却に役立つのでは。

・人々の不安を搔き立てる情報ばかりが多い。退院する人がたくさんいる。全体を情報として見せねばならない。国民を勇気づけるものが報道でも必要。

 

…昭和とは何だったか、日本とは何であるか、日本が復活するにはどうしたらいいか…そんなことを存分に考えさせる「鬼滅の刃」には、日本が自ずと進もうとしている次の道に向けて、何か示唆しているものがあると感じました。

まだご覧でない方は、ぜひ、無限列車編を映画館で楽しんでみてください。

 

<第二回目対談>

 

●改革が改造に…?いまこそ日本的価値観で自由を

 上島嘉郎さんとの二度目の対談では、米国でもアジアでも「鬼滅の刃」がヒットして注目されていることが意味するものは何なのか、そして皇統の問題、さらに日本のアイデンティティや国体などをテーマとして取り上げました。

「鬼滅の刃」そのものを論じた前回にも増して、さらに深い内容となりました。

 

◆『”鬼滅の刃”世界でもヒット。グローバリズムに疲れた世界と今、必要とされる日本人的価値観』ゲスト:元月刊正論編集長 著述家 上島嘉郎氏

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・毀滅の刃…

グロバーリズムに対する懐疑、グローバリズムへの傾斜に人々が疲れた。これは家族の物語。家族を守る、自分の大切な人を守る。そのためには強くあらねばならない、強くなったら弱い人々を守らねばならない。自分以外の周囲の人間や何かの価値を守る、そのためには、おのれ一個の命は軽いものだ。それはこんにちの人権観、価値観にノーと言っている。それが日本人の価値観。家とか家族は日本の中核的価値。

平成では、そういうものが日本の後進性、異質性という視点からマイナスに語られてきた価値観。そうではないということを出した。

これが世界の状況をみても、グローバリズム、あなたの欲望、能力を最大限追求していいよ、その結果、格差が出てもいい、それでどれだけの人々が、弱者たちが切り捨てられているか、そこに疲れているのではないか。

鬼とは何か、もともと見えないもの。グローバリズムが世界にもたらしているものも、何か巨大で恐ろしく、個々の人間を追いつめているのではないか。救いになった、癒しになったということではないか。

 

・皇統とは…

人にとって永遠とは思いである。個々の命が引き継ぐもの、引き継がれるもの、その関係性の中で思いをつなぐ、それが永遠である。日本人は、近代としての個としての自我を軽んじないが、縦の時間軸でつながる過去と未来の命とつながっている。現世だけで人間の関係性を終わらせていない死生観、生命観、これが皇室と似ている。

鬼滅の刃も皇室も千年を超える物語。それが描ける国が世界のどこかにほかにあるか。神話の時代から今の我々がつながっている。その象徴。

昭和30年代に欧州に滞在していた渡部昇一氏が、天皇を欧州人にどう伝え、理解されるか。欧州では何にたとえられるか。アガメムノン。5代遡るとゼウスにつながる。神話と神武天皇、5代遡ると天照大神につながる。ゼウスを神として、アガメムノンの末裔がいま、国を営んでいるようなものだ。一つの王家でつながっている、欧州の知識人はすごいと驚くと同時に、日本への敬意を抱くようになった。いま欧州の王室をみても日本のような長い歴史ではない。長く続いていることの価値を彼らは理解。

 

・日本人の危機とは…

このすごいという感覚がこんにちの日本人にあるか、そこに私たちの危機がある。戦後、そういう教育をできなかった。独立回復後に教えなかった。私たち自身が日本人の自画像を描けなくなっている。

その部分は、外国の物差しに自らをあてはめて、ここがおかしい、異質だという心理が働くようなマスコミの現場だし、グローバリズムが生き残り策だと思う心理になる。

世界幸福度ランキングでは、日本は低い。指標は何か、西洋の物差し。それで測られても、彼らとは違うから。それが、幸福度が低いことになる。イエスかノーかでいえないことに日本人が分からないと回答すると、プラス評価にカウントされない。

そもそも合致していない。個人、共同体や国が歴史的に何を培っていたがで、幸福感は違う。残業しても、という価値観が私たちにはあったはずだが、幸福とはみなされなくなっている。西洋の物差しで一喜一憂しているのはおかしい。

寄付をしているか、それで寛容度を評価。日本人は寄付はしていないが、こういうことをしているという選択肢がない。欧州では社会習慣の中で定型化されているので数値化しやすいだけ。数値化定量化可視化できないものがたくさんあり、我々はそれを「思いやり」と言っている。

 自由度、親の意向も聞いて決めたときに、親の意向も入っているが、自分で決めたというときに、日本人の曖昧さは認めない。はじかれる価値観を我々は持っている。

向こうがセンチで切っているのを、我々はミリでやっている。報道の自由度ランキングなど、ほかもそう。世界からこう見られているという報道があると、気にしすぎている。

マイナスに見てしまう。そうではない。

 ここを取り戻すことが大事。日本人は異質でかまわない、それで幸福なら、世界から言われる必要はない。皇統では、国連の委員会から女性天皇がいないのは差別だという勧告が出されそうになったが、余計なお世話。ローマ法王に女性がいないことを差別と言われたことがあるか?

 

・ポリティカルコレクトネスに対する疲れも…

人間のあり方に関して多様性を認めよと主張する側が、彼らの規定する枠の中だけの多様性であって、その外にあるものは排除して良いと考えている。その枠が狭い。長い間生きてきた価値観は排除されている。歴史的に続いてきた先祖も含めた価値観も含めて考えるべきだ。ご都合主義的に切って捨てられている。それによって欧米社会も、観念の肥大化した知的階層ではない人たち、暮らしの中で人間を見ている人たちから、ついていけないという感覚が出ている。

 完全に制度化されて可視化できるところで男女が均等でないのは差別だというのはくだらないこと、父の役割、母の役割があってよい、そんな感覚。歴史的に長く続いてきたことの重みのほうが重要。そうでなければ、続いてなかったはず。

摂理においてそれぞれが担う役割があり、そこを原点に考えれば、そこに区別があるのは自然であるが、そういうことはポリコレは認めない。生身の人間として持っているものを無視している。

 

・LGBT…

自民党の法案はLGBTへの理解増進が目的だった。問題になったのは、性的指向及び性自認を原因とする差別は許されないという言葉が盛り込まれようとしたこと。これには恐ろしい要素がある。その人の個人の認識に周囲が同意しなければならないということ。

セクハラもそう。女性がただ不快に感じたら法律に触れるという恐ろしいこと。

ある男性の行為を好意と受け止めるかどうか、その人がそう思っているということが絶対的な根拠になるなら、周りは分からないし、そこに罰するという力が働く。性自認だと、こちらにそういう意図がないのに訴えられる可能性がある。差別しているつもりはないのに、向こうがどう思うかで決められると、人間関係が成り立たなくなる。人間は傷つけたり傷つけられたり、それがコミュニケーション。

これを一方的に追及する社会がけ健全なのか、心の内面にまで入るのを認めるのか。これを避けよう、そのためには人と付き合わないようにしよう、社会のきずなは失われていく。人間関係を支えているものが、ただの機能になってしまう。

 

・全体主義のディストピア

天下の悪法だった治安維持法も、人の心の内面にまで踏み込んで、とは考えていなかった。マルクスを読んでもよかった。問題はそれをもって社会を破壊する行為であり、それは取り締まるというもの。当時の指針を読んだら、そう書いてあった。人間の内面にまで踏み込むことはできないと書いてある。

ヴァイツェッカー西独大統領が、1985年の演説で、ドイツ国民とナチスドイツは分けてくれ、いまの若者を責めてくれるな、ナチスの責任を彼らはとりようがにない、正義については内面の規範に従おう、と述べた。人間個々の心の中、それを全体的に一つの力で決め込んではならない。それを求めるのは、人間を改造すること。

オウェルの1984、ディストピア、心の中から思っていなければならないという世界。LGBT差別論はそこまで行く。ウイグル弾圧、北朝鮮も。多様性を掲げて主張する人ほど全体主義につながる可能性が高い。

日本社会は元来、少数派を徹底的に追い込む社会ではない。欧州ではキリスト教が背景にあって同性愛は禁止だった。同性の性行為は犯罪だった。多数のゲイの人たちが刑を受けた。ソドミー法、自然の摂理に反する性行為は許されない。対する日本は、犯罪として追及して刑罰を科すことは、ほぼやったことがない。明治に男性同士の性行為禁止という規定が一時出来たが、すぐに廃止。

 制度化されているなら差別だが、内面においての違和感、距離感を思うことを罪とすれば、誰とも付き合えなくなる。欧米では法的な必要性が高まったから、こういう罰則を科すという文化、そういう国々だから、やりすぎだというところで出てきている。

それを価値観の違う日本に置き換えるのは、自画像を失っているからだ。人間関係を窮屈にして希薄にしていく。その結果が、国家が個人を管理する社会となり、全体主義に進む。意図とは逆の方向に進むことに気付くべきだ。

 

・改革が改造になってはいけない…

 

この懸念すべき状況、何かの力?日本民族の改造の意思が占領軍に働いた。五大改革、「改革」という字があてられたことはもう、上書きされているということ。我々自らの考えで戦後の社会を作ったわけではない。戦前との連続性を取り戻して、ここは変えず、ここは変えるという議論になっていない。家族、親子、夫婦、友情、教育勅語がそうだった。

それは悪しき考えだと、戦後教えられた。勅語を素直に読めば、人間関係の基本が書いてある。鬼滅の刃では、登場人物たちが命と思いを、どうつないでいったかを最終巻で確認してほしい。

何を守るかが分からないと改革はできない。構造改革とは、誰のための何のための改革だったか、日本人のためになる、日本人を守るための改革だったのか、改造だったのでは?

 

…西洋から東洋へと文明の中心が回帰していく21世紀の世界において、日本がこれからの新しい文明や価値観の担い手になることは、世界的な「鬼滅の刃」現象で早速、現実化しつつあるようにみえます。

私が自ら掲げてきた政治理念である「日本新秩序」に向けて、多くの国民が日本的価値観にもう一度、着目し、自らにとって納得できる人生の価値観とは何なのかを考え直していだたくことを強く希求するものです。

もう30年にわたって政治が唱え続けてきた「改革」が答にならず、日本の劣化と衰退を招いてきたのは、それが、根無し草が飛びつく「改造」に過ぎなかったからだといえます。

自らを知ることによってこそ、何を変えればよいのかが見えてくる。この原点を忘れないようにしたいものです。