松田まなぶ 欧州出張報告④ | 松田学オフィシャルブログ Powered by Ameba

松田学オフィシャルブログ Powered by Ameba

日本を夢の持てる国へという思いで財務省を飛び出しました。国政にも挑戦、様々な政策論や地域再生の活動をしています。21世紀は日本の世紀。大震災を経ていよいよ世界の課題に答を出す新日本秩序の形成を。新しい国はじめに向けて発信をしたいと思います。

第4回 ドイツ[その1]~国家を取り戻した国、現在ドイツ事情。~

 8月27日の夕刻、私たち議員団一行はドイツの首都、ベルリンに到着しました。
 ドイツは私が大蔵省入省後の間もない頃に、2年間(1983年~85年)、留学で住んだことのある国です。当時はまだベルリンの壁が崩壊する前で、西ドイツの首都はボンにあり、私はボン大学の研究所にお世話になっていました。ボンはもともと大学町で、人口30万人ほどの、当時の西ドイツにとっては仮の首都という意識だったのでしょう。ちなみに、ボン大学の先輩?には、かのカール・マルクスや歴史家のランケなどがいます。当時、ベルリンも何度か訪ねましたが、まるで外国に行くような気分でした。東西両ドイツが統一して首都はボンからベルリンに移りましたが、私が本省に戻って数年後、ベルリンを公務の出張で訪れた際は、まだ壁が崩壊したばかりの時で、旧東ベルリン地区は、かつての重厚で閑散とした街が混乱の渦に巻き込まれているという印象でした。ドイツには、その後も何度か出張などで訪れましたが、ベルリンは約20年ぶりです。もうすっかり東西が融合した新生ベルリンがそこにはありました。

●威風堂々の日本大使館と日独伊3国同盟
 私たち一行がベルリンに入ってすぐに訪れたのは日本大使館でした。そこでは中根・駐ドイツ大使からドイツ情勢についてブリーフィングを受けましたが、この大使館の建物、大変由緒あるものです。1941年、当時の大日本帝国が国の威信をかけて建設した堂々たる建築物で、第二次世界大戦でベルリンのほとんどの建物が破壊された中で、当時の建物として現存する数少ない貴重なものです。すくそばには、当時の日独伊3国同盟の当事国だったイタリア大使館もあります。これに対し、占領国の米、露、英の大使館はいずれも、少し離れたブランデンブルク門辺りに集中しています。
松田まなぶ(松田学)のブログ
「ベルリンの日本大使館前にて」

 ちなみに、ドイツ統一後、新ドイツ政府によって戦前と同じ場所に設置を認められた大使館は日本とイタリアの2カ国のみだということです。私がドイツに滞在していた頃は、この建物も廃墟のようで、せっかくの立派な建物を日独交流のために活かせないものかと思っていましたが、その後、ベルリン日独センターが設立され、この建物が修復されて、その拠点として使われていたようです。
松田まなぶ(松田学)のブログ
「威風堂々のベルリン日本大使館の建物正面」

 正面玄関を入ると、ドイツの風景を多数描いた画伯、東山魁夷の絵が2つ、目に飛び込んできます。中庭は広大で立派な日本庭園です。ベルリンには巨大な建物が多く、大きな空間は独特の落ち着きを感じさせてくれますが、日本大使館でも一行はゆったりとドイツの政治経済の話題に花を咲かせました。
松田まなぶ(松田学)のブログ
「日本大使館を入ると東山魁夷の大きな絵が2つ目に入る。」
松田まなぶ(松田学)のブログ
「日本大使館の中庭は立派な日本庭園」

●ドイツの政治と消費税率引上げ
 ちょうどドイツは9月下旬の総選挙を控えた時期で、ベルリンの街でもメルケル首相のポスターが若干、目に入りましたが、日本では恒例の選挙前の騒がしさは感じられませんでした。確かに、私の在住時もそうでしたが、選挙のときでも候補者が街頭演説をする姿はドイツではあまりみかけません。聞いた話では、一般市民は集会などにおもむいて、候補者の議論をしっかりと聞いて誰に投票するかを判断しているとのことですが、この点、毎日のように駅前に立つことが熱心さとして評価されて当選の決め手になるとされる日本とはだいぶ事情が違うようです。日本も、政治は政策や人物のコンテンツが勝負という国にならなければ、賢い民主主義はなかなか実現しないと思いました。
 ちなみに、日本は来年4月の消費税率3%引上げで騒然となっていますが、ドイツでも3%の付加価値税率引上げが2007年に行われました。同国では1960年代の付加価値税(日本の消費税に相当)の導入以来、1%ずつの引上げが繰り返されてきましたが、2007年には、日本のような社会保障財源のためというよりも、財政赤字そのものを減らすために、税率が16%から現在の19%に引き上げられたものです。現在のメルケル政権が05年に誕生した当時のドイツは、4年連続でマーストリヒト条約における財政赤字基準(一般政府の財政赤字対GDP比3%以内に抑制など)を超過しており、財政再建が喫緊の課題でした。
 その際の付加価値税率3%引上げは、所得税の増税(最高税率引上げ)と同時に実施された措置でしたが、こうした増税に成功した要因として連邦財務省は次を挙げています。①経済状況が好転していた時期だったこと。②増税による税収の一部を失業保険料の引下げに充当することを国民に十分に説明したこと。③3%の税率引上げ自体が大きなものとは言えないこと。④国家予算が極めて厳しい状況であることについて国民の理解を得られたこと。⑤どの政党が政権を担ったとしても付加価値税率引上げは不可避なことは明らかだったこと。実に論理的です。
 実際に、ドイツの実質経済成長率は、付加価値税率が1月から3%引上げられた2007年は、前年に続き3%台の高成長を示し、付加価値税収も大幅に増加しました。ドイツ経済が落ち込んだのは、そのあとです。08年はゼロ%台、そして09年はマイナス5%台へと成長率は低下しました。ただ、これがリーマンショックの頃の世界経済の状況によるものであることは言うまでもありません。この点では、かつての日本で1997年4月に消費税率を2%引き上げたあと、いったん景気は巡航速度を回復し、その後のアジア通貨危機、とりわけ同年11月の大手金融機関の破たんを契機として97年末頃から大きな不況へ、そしてデフレ経済へと突入していった流れとも似ているところがあります。マクロ経済の大きな流れを、消費税率の引上げの影響と混同するのは論理的ではありません。
松田まなぶ(松田学)のブログ
「大使館にて中根大使よりブリーフィング。」

●ドイツ経済が強い理由。
 その後、リーマンショックを乗り切ったあと、今度は欧州債務危機で停滞するEUの中でも、ドイツは優等生として、常に国際社会では財政規律や構造改革を唱える立場です。その背景には、論理を貫徹させる徹底性というドイツの国民性があるように思います。
 私が先の通常国会での安倍総理への代表質問に際して指摘したように、アベノミクスを誇らしく語る安倍総理に対して日本の財政などへの懸念を表明したとされるメルケル首相率いるドイツは、財政再建だけでなく、労働市場改革などの「痛みを伴う構造改革」へのイニシアチブに成功してきた国です。その背景には、議論を尽くして合理的な解を見出し、それを徹底的に追求するドイツ国民の気質があったように感じます。このことは、アベノミクスの第3の矢の「成長戦略」を考える上でも参考になると思います。
松田まなぶ(松田学)のブログ
「ドイツのメルケル首相」

 ただ、ドイツ経済の強さのもう一つの背景として、通貨ユーロが、ドイツ経済の実力を反映した水準よりも割安のレートになるメカニズムを内包することを無視できません。ユーロ圏は、ギリシャなど南欧諸国のようにドイツよりも相対的に競争力の弱い経済を抱え、ユーロのレートはそれをも反映することになりますから、かつてのドイツマルクの頃よりも輸出面での有利さをドイツ経済は享受できることになります。
 しかし、そもそもユーロという通貨が誕生した背景には、ドイツが強いマルクというプライドを捨ててでも、自らが欧州の一員として生きる国であることを示さなければならない事情があったことを忘れてはなりません。東西ドイツの統合によって、かつての大ドイツが復活することを他の欧州諸国が極度に恐れたからです。
松田まなぶ(松田学)のブログ
「大使と公邸で食事をとりながらドイツの政治や経済を語る。」

●ベルリンの壁があったときの東ドイツの様子はこうだった。
 ここでドイツ統合に簡単に触れてみますと、私が西ドイツに滞在していた80年代前半のドイツは停滞するヨーロッパでした。米ソ間では核ミサイル競争、ソ連に対抗して中距離弾道ミサイルの西ドイツへの配備が進められていた頃で、当時のドイツ人と話すと最大の話題はミサイルのことでした。硬直的な経済構造のもとで、石油ショック後の構造転換が遅れ、「ヨーロッパの黄昏」などと言われていた頃でもありました。
 そして長期的にドイツで懸念されていたのが、人口減少でした。長年続いた社会民主党(SPD)政権のもとで女性の権利が伸長し、男性にとって離婚の負担も重くなり、結婚して子供を産むという人が減り、出生率が低下しました。このままではゲルマン民族は衰退し、ドイツは出生率の高い外国人労働者のトルコ人の国になるとも言われていました。1982年にCDU/CSUへと政権交代して首相の座についた巨漢のコール氏がドイツ統合を進めた背景には、相対的に出生率が高かった東ドイツを取り込む意図があったとも言われています。
 ただ、当時の東ドイツは暗い国でした。東ドイツ領内のアウトバーンを走るのは、一種のスリルがありました。ボンからベルリンにクルマで行く時もそうでしたが、東ドイツが外貨稼ぎのために厳しいスピード違反の取締りをしており、100キロ制限を1キロでもオーバーすると、1キロ超過あたり100マルク(当時のレートで8,000円程度)取られるという話があり、ちょうど下り坂の下のところにパトカーがいるというので、ガタガタする道を1キロたりとも速度オーバーしないよう緊張しながら走ったことを記憶しています。
 西ベルリン地区に入った途端に道路の状態が急によくなり、西ドイツでは速度が無制限のアウトバーンを再び好きなだけスピードを上げて飛ばしたときに強烈に感じる自由の快感と解放感は、今でも忘れません。
 当時の西ベルリンは、第二次世界大戦の終戦後、1949年から米国、英国、フランスが占領したベルリン西部の地域を指し、周囲はソ連が占領した東ドイツに囲まれていました。戦後も、東西両ベルリンはこれら4か国の共同管理のもとにあるということが確認され、90年のドイツ統一によって、ようやくベルリンは正式にドイツ連邦共和国に編入されることになったわけです。それまでの西ベルリンは、西側自由主義陣営から「赤い海(共産主義諸国)に浮かぶ自由の島」とも評され、これぞとばかり西側の自由と繁栄をみせつけようとしたためか、意識的に前衛的な雰囲気が醸し出されていましたから、他の西ドイツの都市と比べると、西ベルリンは必ずしもドイツ的な都市ではなかったように思います。
 これに対して、東ドイツ側には、繁栄の賑やかさはなくても、これぞ古き良きドイツという重厚感と落ち着きがありました。それは東ベルリンもドレスデンも、ライプチヒやワイマール、かのバッハの生誕地のアイゼナハなどもそうでした。
松田まなぶ(松田学)のブログ
「首相としてドイツ統一を成し遂げた大宰相、ヘルムート・コール」

●東西格差は解消されたが、古き良きドイツは失われた。
 西ベルリンから東ベルリンに入り、Staats Operでオペラを鑑賞すると、実に水準が高く、オーケストラの音も見事に均一かつ透明、素朴で純粋でした。これはドレスデンのシュターツカペレのオーケストラもそうでした。個々のプレーヤーが自らの音をぶつけ合うことで結果としてダイナミックな調和を実現している西側のベルリンフィルとは明らかに異なる音の出し方というものが東側にはありました。オペラの歌手たちが、西側のオペラであれば必ず何度もブラボーとカーテンコールが出るだろう歌いっぷりをしてくれても、幕が降りれば素っ気ない拍手が一回だけで観客は淡々と帰路についてしまう。
松田まなぶ(松田学)のブログ
「旧東ベルリンの博物館地区。ここはかつてその裏のペルガモン博物館を訪れた当時の建物のままだった。」

 しかし、その後、ベルリンの壁が崩壊したあとに訪れた東ベルリンStaats Operの雰囲気は明らかに違いました。観客も歌い手も。西側と同じ乗りになっていました。共産圏が崩壊するのは良いことですが、西側の商業主義で世界が均一に塗り染められ、それとは異なる別の世界が地球上から失われたことに寂しさを感じたのは、私だけだったでしょうか。
 当時、西ベルリンから東ベルリンへの観光客の入り方は1日ビザの取得によるものが通例で、その日のうちに西ベルリンに戻らねばなりません。その関門がチェックポイント・チャーリーで、当時は東西の関門を通過するというのは緊張の場面でしたが、今回の出張で訪れた同じ場所は、かつての緊張の場を過去の歴史として写真に収める観光客たちで賑わう明るい街に変貌していました。
松田まなぶ(松田学)のブログ
「緊張は今は昔のチェックポイントチャーリー。」

 そう言えば、壁があった当時の東ドイツマルクは、東ドイツが実に物価の安い国でしたので、決められた額だけ西ドイツマルクと両替しても、一日ではとても使いきれず、なんとか使い果たそうと東ベルリンのテレビ塔のビルの最も高そうなレストランで食事をしても、まだ余り、外国への持ち出しは禁止でしたから、西ベルリンに戻る際に東ドイツの銀行に口座をつくって預金をさせられたことを記憶しています。その預金はいま、どうなっているのでしょうか。
松田まなぶ(松田学)のブログ
「国会議事堂のガラスのてっぺんから旧東ベルリン地区。向こうに東ドイツのテレビ塔が見える。」

 全体として、今回訪れた旧東べルリン地区は、当時の、暗くても壮大な建物が立ち並ぶ、人けは少ないが威風堂々とした独特の街並みというものではなくなり、西ベルリンと大差ない雰囲気になっていました。森鴎外の小説にも出てくるウンターデンリンデン通りもそうで、これも、かつてを知る者には一抹の寂しさを感じさせます。
松田まなぶ(松田学)のブログ
「だいぶ様子が変わったように見えるウンターデンリンデン。」

 ドイツ統合後、大きな問題になっていた東西の経済格差の現状について中根大使に質したところ、格差はようやくほぼ解消するに至り、かつては同じドイツ民族なのに東ドイツの人々を西ドイツの人々が「オッシー」と言って馬鹿にしていたということも、今ではなくなっているとの返答でした。東ドイツの復興負担は、長期にわたってドイツ経済の大変な重石となるとされていましたが、今ではその話題もあまり聞かれないようです。旧東ドイツ地域のアウトバーンも今や旧西ドイツ地域と遜色ない立派な道に補修されたそうです。当然のことながら、統合直後、速度が遅いためアウトバーンの渋滞の原因になっていた東ドイツ製の乗用車トラバントは、もう一台も走っていません。

●私は東側の体制崩壊をライプチヒで予見した。
 さて、私は1985年3月に、西ドイツから自家用車で当時の東ドイツに渡り、ライプチヒで一般市民の家に1週間ほど、ホームステイをしたことがあります。その家で身の回りの世話をしてくださった奥様と色々な話をしました。
 ベルリン以外の東ドイツの主要都市は、その際にクルマで回りましたが、ドレスデンでは、中心部にあるゼンパー・オパー(オペラハウス)でリヒャルト・シュトラウスの「薔薇の騎士」を楽しみました。その由緒ある荘厳な建物が面する大きな広場をはじめ、街には瓦礫の山が目立ちましたので、翌日、奥様に、なぜ瓦礫を処理して街を再建しないのかと訊いたところ、「空襲で街を破壊したアメリカに対する憎しみを忘れないためなのよ」という答が返ってきました。たぶん真相は、街の復興に必要なおカネを捻出できるだけ東ドイツが豊かではなかったということなのでしょう。
 ある夜、奥様から、「あなたはタバコを吸うか、ならばちょっと上に来てみてよ。」と言われたので、タバコの煙が漂う屋根裏部屋に入ったところ、10人ぐらいはいたでしょうか、近所のライプチヒ市民が集まって、ああでもない、こうでもないと議論をしていました。その内容は、当時のホーネッカー国家評議会議長が率いる東ドイツの社会主義体制に対する痛烈な批判でした。「知的労働者が肉体労働者より賃金が低いなんて、お前は信じられないだろう、これも社会主義の矛盾だ。」などと日本人である私に次々と質問の矢。「こういう話を職場や学校ですると逮捕されるからふだんは黙っているが、私たちは西側のことは何でも知っている。」と言う皆さん、社会主義がいかにひどくて資本主義や市場経済がいかに優れたものであるか、論点が次々と出ていました。
 西ドイツからのテレビ電波は普通に入りますから、情報は十分です。日本ではいま、こんなことが流行っているだろうと言い当てられたのにも驚きました。
 この場面を体験した私の頭によぎったのは、東側の体制はもうもたないのではないかということでした。一般市民の意識がもうそこまで来ているなら、もしかすると、東の崩壊は近いかも知れない。そんな予感が私にはありました。
 しかし、翌日、その予感を否定することが起こりました。引き続き東ドイツ内で運転していたのですが、愛車のラジオでどのチャンネルをひねっても、流れてくるのは葬送行進曲だけです。理由は、当時のソ連の最高指導者、チェルネンコ書記長が亡くなったことでした。そのようにソ連の強力な支配のもとにある東欧の体制が崩壊すると考えるのは、やはり現実的ではないなと思い直しましたが、それでも、前夜に感じた予感を完全にかき消すことはできないままでした。
 その予感は、4年後のベルリンの壁の崩壊で的中しました。チェルネンコのあと、ソ連の最高指導者となったゴルバチョフは新思考外交とペレストロイカを進め、東欧情勢は一変していきます。東ドイツ国民にたまっていたマグマが噴き出しました。やはり、情報の力にはスゴいものがあります。統制する側からみれば、一般市民に情報が行き渡るのは、禁断の木の実のようなものでしょう。現在の北朝鮮も似たような状況なのかもしれません。
松田まなぶ(松田学)のブログ
「これもウンターデンリンデン。」

●ドイツ統合の際にはヨーロッパでディールが成立した。
 その後のドイツは、壁崩壊後のフィーバー、そして、熱狂から覚めたあとは東西格差解消の困難な道のりへと歩んでいくことになりますが、90年に東ドイツが西ドイツに編入される形で実現したドイツ統一は、決して簡単なことではありませんでした。何百年にもわたってドイツと戦争を繰り返してきたフランスは特にそうでしたが、ヒットラーを生んだ歴史に重ね合わせると、ベルリンを首都とする強力な大ドイツが復活することへの周辺欧州各国の警戒感には大変強いものがありました。
 それを払拭してドイツ統一を納得させるためのさまざまな工夫をドイツはせざるを得ず、前述のマルクを捨てるという決断も、その一つだったと思います。ドイツは名を捨てても実を取る形で国家統一という民族的悲願を達成し、欧州各国もこれを受け入れてドイツ経済の強さをEU経済圏の中核へと取り込むという、これも実を取る形でディールが成立していたといえるでしょう。
 私たち議員団一行は、ドイツの国会議事堂も訪れましたが、この議事堂は19世紀末、帝政ドイツの時代に建てられ、1918年のドイツ革命ではワイマール憲法がこの建物で宣言されました。1933年に謎の出火で炎上し、この国会議事堂放火事件をきっかけに、同年に首相になったばかりのヒトラーはワイマール憲法で認められた基本的人権や労働者の権利のほとんどを停止させ、ナチスドイツ体制に移行していきました。

●ドイツの国会議事堂の建物が象徴する今のドイツ。
 大戦中は、この建物もドイツ大空襲での被害を受けたことに加え、ナチスの拠点として赤軍による攻撃の的となり、戦後は首都がボンに移ったことから廃墟のままの状態が続きました。内部が利用できるよう部分修復が行われ、ドイツの歴史に関する常設展示の会場として利用されていましたが、1990年に統一ドイツ議会がここで開催され、その後、ベルリンに首都機能を戻し、この旧国会議事堂を連邦議会の議事堂として新たに利用することが決まったことから、大規模な修復に着手し、1999年に完成したものです。正面には、1916年に掲げられたとされるDem Deutschen Volke(ドイツ国民のために)という大きな文字が目立ちます。
松田まなぶ(松田学)のブログ
「Dem Deutschen Volke ドイツ国民のために。国会議事堂。」

 90年代に再建が進められたドイツ国会議事堂は、旧来の荘厳な建物に近代建築を組み合わせたスタイルの建物へと生まれ変わりました。これは、当時の西洋建築で流行となった改築方式で、英国の大英博物館の改装もそうだと言われています。私は2000年~01年に横浜税関の総務部長をしておりましたが、同税関の本関の建物はクイーンの塔で親しまれているロマネスク様式などを取り入れた由緒あるもので、その頃、ちょうど建替えの計画が進められており、複数の設計案の上申を受けた私が選んだのは、古い西洋建築の良さを残しつつ、その一画に新しいインテリジェントビルを組み込んだスタイルの設計案でした。そのときに受けた説明が、ベルリンの国会議事堂再建の事例でしたが、この建物を歴史的建造物として残してほしいとの横浜市からの要請をも踏まえた判断でした。
松田まなぶ(松田学)のブログ
「Dem Deutschen Volke を背景に。」

 私としては、歴史と伝統を大切に引き継ぎ、現代の要請にも的確に応えて未来を指向するというコンセプトを重視したつもりです。ぜひ、山下公園近くにあるクイーンの塔の横浜税関を訪れていただければと思います。当時の小泉構造改革が、既成の制度や既得権益を「破壊する改革」とも言われていた中で、私としては、何事もまずは「設計」こそが大事であり、例えば、良きものをより良く残して新しいものを取り入れるという「設計思想」を確立し、壊す部分もそれに基づいて壊すという「組み立てる改革」こそが本物の改革である、そういう私の持論を体現させたつもりです。
 ドイツの国会議事堂の近代建築を組み込んだ部分については、全面ガラス張りになっており、そこは一般公開もされていて、多数の観光客や国会見学者であふれていました。私たち一行もその中のレストランで昼食をとり、ガラス張り建物のてっぺんまで上がってベルリン市内を一望しました。ガラス張りにしたのは、ドイツでは「透明性」という考え方がことのほか重視されているからだという説明を聞きました。ただ、そこには、国家の最高機関までそうすることによって、統一後の大ドイツが腹に一物を持っているわけではないことを示す意図があるような気がしてなりません。
松田まなぶ(松田学)のブログ
「ドイツ国会議事堂前にて。」

●国家と首都をようやく取り戻し、国際社会での存在構築に向かうドイツ
 かつてのナチスドイツが第二次大戦の敗戦で崩壊してから、すでに70年近くが経ちますが、この間、ドイツは実に慎重かつ戦略的に、そして巧みに、国際社会での存在を再確立してきたと思います。思い返せば、私が30年前にドイツのミュンヘン郊外のゲーテ・インスティテュートという、世界的なネットワークを持ったドイツを代表するドイツ語学校で学んでいたとき、授業の教材で、もう分かったといいたくなるほど繰り返しナチスの犯罪が取り上げられ、そこまで徹底的に自分たちが犯した罪を世界に宣伝しなくてもいいのに、と思ったことを記憶しています。
 そのことの是非はともかく、事実としてみれば、日本がヒロシマに象徴されるように、どちらかといえば戦争の被害者の立場で平和祈念をアピールしてきたのに対し、ドイツは自分たちが加害者だったことを一貫して宣伝し続けることで、徹底的な反省と軍国主義や覇権主義からの脱皮を世界に印象付けることに成功してきたようにみえます。それが結果として、ドイツの国際社会での行動の自由度を高めることになったのかもしれません。
 日本と同じく91年の湾岸戦争で資金協力しかしなかったことに対する批判を受けたドイツが、その後、国際平和活動のためにNATO域外でドイツ連邦軍が幅広く国際貢献する国になったのも、ドイツに対する国際社会の疑念が大きく払拭されていたからだと想像します。それに対し、同じ敗戦国である日本は、いまも中国でアンケート調査をすると、未だに「軍国主義の国」との回答が多数を占めている状況です。
 20年ほど前に再統一を達成したドイツは、いまや欧州一の大国として堂々と再君臨し、その姿が内外から疑問の余地なく自然な形で受け入れられているように感じます。今回の訪問でベルリンが見せてくれたのは、統合された国家としての本来の姿をドイツが取り戻すに至ったことが感じさせる一種の落ち着きの表情だったかもしれません。ようやくドイツもここまで来たか、それが、ますます首都らしさを増すこの国の首都を再訪した印象でした。
 論理性を重んじる合理的な国民性で知られるドイツ人は優秀な民族とよく言われますが、今回の議員視察で確かめられたのは、まさに日本でも大きな課題とされている分野で徹底した改革に成功しているドイツの姿でした。それは、労働市場と公務員制度です。次回は、これらの改革について、ドイツの状況を報告させていただきます。