松林 秀彦 (生殖医療専門医)のブログ -5ページ目

松林 秀彦 (生殖医療専門医)のブログ

生殖医療に関する正しい知識を提供します。主に英語の論文をわかりやすく日本語で紹介します。

本論文は、ヒトの生体内で初めて精液(精漿)暴露による着床率増加の根拠を示したものであり、Mol Hum Reprod編集長の今月の一押し論文となっています。

 

Mol Hum Reprod 2024; 30: gaae017(デンマーク)doi: 10.1093/molehr/gaae017

要約:2020〜2023年にパートナー男性がいない女性(20〜40歳)を対象に、自然周期でHCG投与の2日後に排卵確認を行うとともに精漿(欧州精子バンクから入手)あるいは生理食塩水腟に塗布し、その5〜8日後に子宮内膜を採取し、マイクロアレイを用いて遺伝子プロファイルを解析しました(無作為ダブルブラインド試験、精漿群5名、対照群4名)。対照群と比べ精漿群では、FAR2P2、CTD-3049M7.1、JCHAIN、LOC100288897、CLIC6、ASPN、LDLR、GRIA2、RN7SL624P、SFRP4の遺伝子発現が増加し、RP1-287H17.1、LOC101928231、ERCC4、RP11-673P17.2、LOC101928834、PPME1、RP11-277E18.2、AC005253.4、IFITM3、LINC00928の遺伝子発現が低下していました(いずれもトップ10位まで記載)。これらの変化は、免疫応答、細胞生存、細胞増殖、細胞移動、着床、胚発生、卵成熟、血管新生などに関するものでした。しかし、交絡因子補正後、2群間で有意差を認めた遺伝子はありませんでした。また、精漿の子宮内膜に対する作用は、マウス、ブタ、in vitro のヒト子宮内膜細胞で同様であることが判明しました。

 

解説:エストロゲン(E2)とプロゲステロン(P4)は子宮内膜が受容期に移行する際の主要な因子ですが、精液(精漿)由来の因子がこの部分に関与している可能性が示唆されています。ART治療(体外受精、顕微授精)では精子のみが使用され、残りの精液(精漿)は除去されますが、マウスなどの動物あるいはヒト子宮内膜細胞のin vitro研究では、精漿が免疫応答、細胞生存、細胞増殖、細胞移動に関する変化を誘発することが示されています 。また、精漿がヒト子宮内膜脱落膜化を促進することがin vitro研究で報告されています。生殖における精漿の機能は、進化を通じて保存されていると考えられ、少なくとも次の5つの重要な生殖プロセスに関与しています。

1 精子の輸送と栄養

2 性交時の余分な精子と微生物の子宮からの除去

3 同種免疫の誘導(胎児を保護するための父親の抗原に対する母親の免疫寛容)

4 子宮内膜の受容性と脱落膜化

5 着床前胚の発達

ただし、精漿によって引き起こされる反応は、種によって多少異なる可能性があり、女性生殖器の構造の影響を受けます。例えば、マウスやブタでは精漿は子宮腔に直接入りますが、ヒトでは膣内に留まるため子宮腔には入りません。本論文は、このような背景の元に行われた研究であり、種を超えて同様な子宮内膜の遺伝子変化が見つかったことは、精液(精漿)暴露が生殖において積極的な役割を担っていることを示しています。

 

編集長のコメント:1963年に、精管切除した雄よりも切除しない雄との交配後に子宮内の白血球が豊富であるというハムスターの研究から「子宮内の白血球には細菌や精子の除去以外の機能がある」のではないかとの仮説が立てられました。1988年に、精漿分泌腺を除去した雄との交尾で生まれたハムスターの多くが死産したことが報告されました。これらの研究が子宮内膜受容能と胚発育への精漿の影響を研究するきっかけとなりました。しかし、ハムスターとは異なり精漿はヒトの子宮腔には到達しないため、精漿がヒト子宮内膜でどのような役割を果たしているかは不明でした。本論文は、精漿がヒトにおいても着床に有利に働く可能性を示唆しています。しかし、わずか9名という小規模な研究であったため、交絡因子調整後の有意差は出ていません。今後の研究が待たれます。