秀吉に臣従した島津家
戦になると強いんですよ!
第2回朝鮮出兵(慶長の役)の話。
秀吉が天に召され、朝鮮遠征軍に撤退命令が発令。義弘は自ら殿を務め明国・朝鮮軍を圧倒。
慶長5(1600)年夏、
石田三成が挙兵して京都・伏見城を攻めます。
島津軍の猛攻で伏見城は落ちます。
慶長5(1600)年9月15日 関ヶ原の戦い
義弘軍はわずか1500、今までの義弘の戦歴を考えると兵数は多い方です。このとき義弘65歳!もう隠居しても可笑しくないのにね。
小早川秀秋の離反で東軍有利となり西軍諸将が戦場から離脱するなか、島津軍は動きません。
義弘は決断します。
「捨てがまり」戦法で家康本陣に突撃!
井伊直政、本多忠勝におされながらも、撤退しながら攻撃を仕掛けます。直政は島津の銃弾で足を負傷。何とか戦場離脱に成功。
「島津の退き口」と呼ばれています。
義弘は鹿児島に戻ります。
前当主・義久は外交によって島津家安泰の道を探ります。
家康は島津の戦いぶりを見ているので、島津を敵に回せば厄介。家康も何度か上洛するよう促しますが島津は応じず。
結局、島津家は所領安堵となり、薩摩藩73万石の外様大名として徳川政権下で生き抜くことができました。
島津はやっぱり強かった!