「破天の剣」を読んで、九州戦国史の研究に没頭しております*\(^o^)/*
薩摩・島津の勢いは関白 豊臣秀吉も無視できない存在でした。耳川で大友宗麟を破り、沖田畷で龍造寺隆信を討ち取り、九州統一に動いていたからです。
天正14(1586)年冬、秀吉は西国大名衆に命じて九州討伐軍を派遣。
島津四兄弟の末弟 家久は討伐軍と相対します。戸次川の戦いで長宗我部元親の嫡男 長宗我部信親、十河存保を討ち取ります。家久は討伐軍を打ち破ります。
ちなみに元親は息子・信親の死によるショックで性格が180度変わってしまったそうです。
翌年、島津軍は豊後府内(大分市)を制圧
残るは大友宗麟が籠る臼杵城のみ!
その後、豊臣軍25万が豊前に上陸!
軍略に長けた家久と豊久父子が応戦するも敵軍の鉄砲や石火矢に耐えられず撤退。豊臣秀長軍15万が日向に侵攻し、高城や佐土原城を包囲。秀吉本軍10万も筑前、筑後、肥後、島津領の薩摩川内まで進軍。
島津本宗家を残すため、
当主の義久は秀吉に降ることを決断!
義久は母の菩提寺で剃髪!龍伯と号します。
天正15(1587)年 5月8日
島津義久が川内・泰平寺で豊臣秀吉に降伏
島津本宗家の家督は島津四兄弟の次弟 島津義弘が継ぎました。