関東戦国史について。
歴史エンタメ雑誌「歴史人」3月号に関東の戦国争乱が特集されています。
武田信玄、上杉謙信、北条氏康の三英傑が関東の覇権を争います。
信玄と謙信は川中島で5回戦うも決着がつかず、謙信は関東遠征で氏康と戦い、氏康は信玄との同盟を破棄し、信玄が小田原城を攻めるが落とせず、信玄が小田原から退却のすきをついて北条軍が追撃。武田軍は三増峠の戦いで北条軍を撃退します。
信玄はこの頃から上洛に向けて準備をはじめていました。
上方では織田信長が台頭!
それと入れ替えに、
氏康は1571年に死去。氏政が継ぐ
信玄は1573年に死去。勝頼が継ぐ
謙信は1578年に死去。景勝が継ぐ
勝頼は1582年に織田軍に領国を攻められ、穴山梅雪や小山田信茂らの信玄以来の家臣の離反が相次ぎ、織田軍の猛攻に耐えられず、勝頼は自害。武田家は滅亡しました。
本能寺の変で信長が死んだ後、信濃や甲斐、上野(長野、山梨、群馬)一帯は徳川家康、北条氏政、上杉景勝が勢力を争います。これを「天正壬午の乱」といいます。
家康が甲斐と信州南部、景勝が信州北部、氏政が上野で領土分割します。さらに家康と氏政は伊達政宗と軍事同盟を締結。豊臣に対抗する軍事力を強化します。
信州国衆の真田昌幸は家康と景勝が秀吉に頭を下げた後、秀吉に臣従します。唯一、秀吉に対抗する勢力は北条氏直と伊達政宗のみでした。
そして、豊臣軍は22万の大軍を率いて北条氏政・氏直を征伐するため小田原城に向かうことになります。氏政・氏直は降伏!
ここに武田、上杉、北条といった英傑が覇権を争った関東戦国争乱は終わりを迎えました。