A店に舞い戻り、再びチビと組んでパチスロに手を出すようになっていた。

しかし、今考えても本当に恐ろしい小学生だったものだ。

1.5号機時代のノウハウを応用した技は、いったいどのようにして手に入れたのだろうか。

ただノウハウだけでは駄目で、それを理解できる頭と最低限の目押しがなければ意味がない。

それが出来ていたのは、結構凄いことだったと思うのだが、その頃は疑問に感じる程に自分の考えが及んでおらず、ただ感心するばかりで理由を聞いたりもしなかった。

考えられるのは、あの兄貴か居なくなった父の影響だろう。

 

それでも、ボーナスなら一日に1、2回拾えるかどうか位の頻度だったと思うので、金額的には大したものではなかったが、やって損する事の無い堅い立ち回りだった。

しかし、この時代にそんな打ち方ばかりしていれば、普通は恐い輩が黙ってはいないもの。

ところが、A店ではそういった面々は一発台コーナーに引越し中、チビの兄貴は強面であちら方面に顔が広く、幸い誰からも因縁を付けられ事は無かったのです。

それに彼は元暴走族のリーダー、地元の連中の間ではちょっとした有名人で、既にヤク●の事務所に出入りしていると言われていた。

たまにA店に顔を出すこともあったが、同じ歳であっても対等に話したことなどなく、やや細身の体からは信じられないほどの威圧感とオーラが漂う超危険人物なのであった。

そのお陰もあって、それなりにコソコソとやってはいたつもりだが、文句を言われることがなかったのではないだろうかと思う。そう、ある人物を除いては。

 

立ち回りにも慣れてくると雑になり、羽根物を打ち止め寸前で台移動をしたり、ルール違反のセブン機や権利物への玉の持ち込みなど、やり口も次第にエスカレートしていくのでした。

そんなある日、運悪く主任に出玉の移動をした瞬間を見つかり、外へ摘み出されてしまった。

隙をついてうまく逃げたチビ…。

これまでもパチスロコーナーでちょくちょく見られていたが、今回ばかりは少し様子が違う。

たまたま虫の居所も悪かったのだろう。

ちょうど西日が当たって眩しい場所で、主任の表情は益々険しくなり、まるで濡れた野良犬でも見るかのような眼差しでこちらを睨んでいる。

 

いままで家でも学校でも説教一つ受けた事などなかった自分が、まさかパチンコ屋でこんな目に遭うとは思ってもみなかった。

この店にもう来なければいいのだから、いっその事逃げ出してしまおうか?

そんな考えが頭をよぎる。

その数分がとても長く感じられた。

そして、主任がひとしきり捲し立てた後にこう言い放った。

 

「お前、出入り禁止な」

 

人の話に聞いたことはあったが、よもや我が身に降りかかるとは。

しかし目の前に居る髪をポマードで七三に分けた小太り親父はどうやら本気、大真面目の様子。

よくよく考えてみれば、日頃から要領良く立ち回る目障りなガキ共が、主任からすれば良く思われていたはずも無く、むしろいつこうなってもおかしくはなかった。

この状況で、主任から突き付けられた最後通告に抗うことなど出来なかったのだ。

とうとう勝てるA店から追い出される破目になってしまいました。

チビは見た目上は実行犯ではなかったので難を逃れたようだったが、A店にも行けなくなり、その後どうなったのかはわからない。

 

さて、長くつかったぬるま湯から上がると、すぐに体も冷めるというもの。

いざ他に打てるような店はないかと探してみるも、なかなか一人で打てるような店を見つける事はできません。

それもそのはず、これまでの様な立ち回りが通用する店など他に有りはしないのですから。

せめて覚えたパチスロで凌ごうかと思っても、意外にもアメリカーナX-2はマイナーな機種らしく、市内で通える範囲にはA店以外に唯一、街外れのK店のみにしか設置されていなかった。

しかも残念なことにK店は普段から客が少なく、全くと言っていい程昼間の稼働が無い。

パチスロコーナーは常に閑古鳥が鳴いている状態で、フラグ拾いにはとても向いていない店だったのです。

このままでは、あっという間に財布は底を尽き、悠々自適だったこの生活もできなくなってしまう。

この頃、親には友達の家で勉強するとか、バイトが有るとか適当な理由を付けて、家には月の半分くらいしか帰っていなかった。

通学にも結構時間のかかる距離だったし、親からはある程度信用されているようだったので、あまりやかましく言われる事もなかった。

家に帰らなければ食事代等、当然ながら生活にお金が掛かります。

多少腕に覚えが有ったので、夜に友人達との麻雀で小銭を稼ぐ位は出来たのだが、あくまで仲間内のやり取りなのでそれにも限界というものが有る。

親からの仕送りを受けている奴等を相手に、借金させてまで続ける訳にはいきませんから。

となれば、しばらくは大人しくしているしかないのですが、なかなか一度憑りつかれたパチンコで勝つという魅力を簡単に忘れる事は出来ないのでした。

 

一応パチンコには釘やクセ、パチスロには設定が有り、運ではなくそれらが勝負を左右している事は充分承知していたので、理論的にはそれらが読めれば勝てるはずなのです。

しかし、その頃のホールはどこもボッタくり放題。

出玉は2.5円交換でも一回交換かせいぜいラッキーナンバー制。

メダルは1.5号機が6~7枚で一回交換か、2号機にからようやく普及し始めた無制限営業も8枚交換が主流。

まともに打っていたら、なかなか勝てるような条件は揃っていないのでした。

地域的にも極めて閉鎖的な時代であり、等価交換営業の店もその頃は当然まだ進出してきてませんでした。

どの店舗も競い合うというより、地元馴れ合いの関係で似たり寄ったりの営業スタイル。

そこへきて、世の中には依然としてバブルの残り香が色濃く残っており、まだまだ際限無く投資してくれる客が居てくれるお陰でホールは潤い、一層強気の営業を続けていたのでした。

 

A店を去ることになり、向かった先は

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