ほなら、規制するんか言うたら、なるたけ規制せずに実現するんがええと言うた。
異存はないのに規制を掛けへん方向でと言う言い回しで有耶無耶にし、現に目の前で踏みにじられてる人権を守る主体性がない。統一教系のニッポン人の奴らも似たようなもんや。
摂理、み旨の方向性がわかってる言うても、現実の言動とはぜんぜん噛み合わへん。今や目の前でやらなあかんもんを踏みにじり、摂理、み旨を成す主体性がない。周りを気にし、みんながとなれば、一体化やと思うてる。
ニッポンの都合に合わせた理想論と国際的常識をかい摘んでは、韓国を貶めることで、自己正当化し自己確立させてんねん。
天にまで繋ぐ一貫性はまったく念頭にないようや。
そして、世間のヘイトクライムやヘイトデモが流布させる排外主義は、在日、反日、役に立たへんもんは消しても構わへんと言う優生思想に繋げるように、いつしか、統一教系のニッポン人もニッポン正当性論へと繋げてる。
それが、大東亜共和圏におけるアジアの優生民族へと掛け合わせる愚の骨頂へと進化(退化)させ、優越感から現実逃避させる史観となってきてる。
せやけど、良識的で良心的なニッポン人が、ニッポン社会全体の在りようとしての問い掛けに、この社会は共に生きている存在なんやと負の風潮の流れを見て改めて気付かされたと言う。
差別の現実を前にして、出自を隠すことを強いられてる、または、隠さざるを得へんような在日が、ありのままを生きる自由が認められへん社会は、人権が守られてへんからや。
アメリカン・ドリームにまで飛躍させた米国の独立宣言文による憲法で保障される「人権」は、個性真理体へ繋げられる復帰の土台、基台や。
偏見と非難のまなざしを向け、誰も助けてくれへんと言う思いを抱かせる社会を許すような風潮にのっかかる統一教系のニッポン人は、献金トラウマを要因にしてると言うても、そのトラウマから逃げるもんとして、愚かな優生思想に傾く。
やがて、その罪の根深さを知り得ず、ヘイトデモの光景を重ね合わせた時、同調する奴らを喜ばせるような煽りをしても、なんら罪観を感じられへんようになってきた。
差別とその扇動をしてると思うてへんでも、また、死ね、殺せという露骨なヘイトスピーチを用いずとも、瞬く間に共鳴する差別の回路がこの社会には広く根を張ってんねん。
差別扇動者は活動資金名目でカネを募り、差別を食い物にして変わらぬ日常を送り続けてる。
差別主義者を再び呼び寄せようとし、差別が自由を奪うと言う悪性に立ち向かう統一教系ニッポン人は、いてるかな?
現実逃避の綺麗事の祈りや訓読だけで世の中が変われば、サタンはかわいいもんや。

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