契約と約束と祝福 | 評議会のブログ

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祝福は、天の父(하나님)との約束であり、契約でもある。

もちろん、最初の契約に至る過程で信任を受けるまでの信用信頼度が試される。所謂、信仰が試される。

どこまで信じて、どこまで確信できるかなど、様々な合格ラインは、하나님、サタンのみぞ知る世界観が色濃いもんや。

하나님 とサタンとで審議され、個々、集団、社会、国などで審議の内容は違ってくる。

人は、サタンの思惑に操られてるもんや。하나님 は、やがて来させるひとり子の為に多くの犠牲を払い、多くを奉仕し、多くの許しをもって、サタンができひん条件を持ち得て来られた。また、サタンに多くの借りをもつくって来られた。

多くの犠牲と奉仕と許しで多くの借りを返した。韓国のことわざで「千両の借りも一言で返す」と言うが、その一言は、どれほどの血と汗と涙があるかで、決定打になる。

하나님 との契約に至らせるその背景は、言葉では言い尽くせへんもんがあんねん。

契約後、契約を遵守して来た経過が要され、祝福に至る。

メシアは、하나님 との契約を直接的に結ぶことができる。하나님とメシア、そしてサタンとが審議する。おもにメシアの議案を中心に、、、

契約と約束は、イコールではない。約束させる為に契約があるんやけど、契約を遵守して来た経過でその真価が問われる。契約<約束<祝福の構図になってる。

契約は先ず縛らせ、約束を遵守させる。約束を遵守していく過程で、契約にて縛られてた規制を緩和していかなければならへん。規制なくして本然の権利のもとで自由に生きていける為に祝福が与えられる。

サタンは、約束なんやから、契約(宗教など)は守らなければならへんと主張する。契約に縛ろうと、契約上だけの論理で、約束の経過(成長過程)の真価を度外視させる。

真価は、真実へと繋がる。約束を守る過程を抜きに形式だけで、それが約束なんやから契約は守ってもらうでと契約に縛ろうとする。約束を守る経過(成長過程)が契約を生かすもんなんやけどな!

サタンは、祝福されて黙って見てるわけがない。最後は契約上だけに縛ばろうとする。

하나님 は、人類復帰の為に成長と発展を与えようとする。サタンが犯す犠牲上の発展とは違い、犠牲と奉仕と許しにて、人類の本然の権利と正義を取り戻す為であり、契約論理(宗教)だけで成せるもんでないねん。

契約上で得た利権よりも人間の本然的な権利が重要なわけや。そのうえで、祝福がほんまに生きる。

人と人も、段階的なもんで正すべきことは正し、互い良い関係に進ませるべきで、契約、約束、祝福と段階を踏んで解放されなあかんねん。

契約、約束、祝福の手綱を辿って、本然権利を得るわけや。


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