出来事は出来事として言うてるのにその出来事を嘘呼ばわりされ、嘘呼ばわりした奴らの自己都合に合わせ、あたかも偽装されたものを真実とされたら、その時点で真相は闇に葬られる。
、、、やがて思い込みによって、大小に関わらずその報いは受けるようになる。
思い込みは、ある意味、危険性がはらんでる。そこに存在するものがあってもなんら確認することなく、「ない」やろと判断した時、その人の意識には、あっても「ない」こととなる。実際ここにあんねんでと言うても、私には「ない」としか思えまへんとなる。
まあ、森の中をハイキングに出掛け、茂みに熊が隠れてても、熊がいないと思い込んでたら、呑気に楽しく歩くことはできるけど、、、
また、熊がいてへんのに熊がいてるかもしれへんとなれば、ビクビク歩くはめになるわな。その前にハイキングなんかせえへん。 笑
思い込みは、宗教の教義にのめり込むことにも似通ってる。教義の枠内からはみ出さへんように自分を縛り付け、枠外を否定的に見てまう。
教義がその人を縛り付けてるんやなく、その人が自分を縛り付けてんねん。
その為、縛り付けたもんらの多くは教義外を悪く思う。
安倍が街頭演説で「帰れ」コールされ、「こんな人たちに、私達は負かるわけにはいかないのです」と言うた。
「こんな人たち」は、コールした人らを指すわけやけど、相手が国民でも有権者でも、安倍を批判する人らと見て、その人らを「こんな人たち」呼ばわりすることは、まあ国民無視、有権者軽視発言になる。
自分と言う枠内(教義)に反対の考えを持つ人ら(枠外)は国民(善)ではないとなんねん。
一国に首相が枠に囚われ、枠外だからやと言うて「こんな人たち」呼ばわりでくくってもうてやで、そのくせ自分が持ってる信念によってものの見方が不利になれば、表現の自由の一環だと言うて悪気がないようになんねん。
その為、思いとは裏腹にむしろ逆の方向にベクトルが動いてまう。
枠に囚われ、思い込めば思い込むほど、ムキになって問題を指摘する。せめて許容範囲を徐々に拡げられるくらいがええ。
人は個々の事実を積み上げ、様々な出来事からイメージを作り上げる。
その為、あいまいで微妙で多様な見方ができる事柄が次々と起こる。それ故、自分の立場、意見をはっきりさせなあかん。
そして夢を共有して自由に発想できる個性の枠を拡げんねん。
アホは、共有と言うと、同じ教義(枠内)を持って、教義の弁通りに進むと思い込むねん。それは、教義に埋没するになる。
サタンは、表向き教義に反する姿を見せ、その実、教義に忠実にさせる。思い込ませる。また、ガッチリ教義(枠)に取り憑き、そこから離れることは一斎せえへん。
善は、表向き教義に忠実やと見せかけ、より大きな善の為に教義から離れる。

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