転換期言うんは、一律にすべてが変わってまうもんや。良い方に変わるか、悪い方に変わるかなんやけど、その善悪の分別基準は、創造主(ハナ任)、即ち、一神教基準であって、その基準を抜きに、ハナ任に勝る「良心」言う奴は悪い方にしかいかへんねや。
ところがや、わかるやろ? 人類史の葛藤や紛争、戦争などに至るんは、善悪分別の基準がいつも曖昧やからや。分別基準があいまいなとこに「良心」ぬかしても、定まるわけがないねん!
それを偉っそうに「良心」と言えば、許されるとか善意やとか思い込むアホが、大概、偏った傾向になんねん! 安易に、気安く「良心」言う奴に限って、一神教的善悪基準が曖昧であり、ただ置かれた立場を肯定する衝動に絡まれた人情に訴えるやつや。
それと、転換期に良い方向に変わる為には、「良いビジョン」が必要なんやで。この良いビジョンって、前述した通り、一神教的な善悪分別基準の基台、土俵があって成り立つわけや。
さて、ニッポンには? それがない! どっかからいろいろと取り入れては、ビジョンを立てようとしても、真似事であって、根本的な問題解決に至らない方向へと行ってまう。
基準がなんでもあり的で、ただ人情に訴えたもんで善し悪しを決め込み、皆がそうなれば、最終的には、ハナ任を凌駕する良心による決断、行動へと行ってまうわけや。
すると、極端になれば、右へ右へと流れては、排他的になり、左、左と流れては、反主流になる。最終的に良心が決めたと思い込めば、自分が、自分らが正しいんであって、なんら一神教(ハナ任)とは関係ないもんもハナ任を超えた善行となるからめでたい。
こないアホをかますんは、やはり、創造主(ハナ任)をわかった振りをしているだけで、わからへんからや。パシセラや師観などは、まったくこの域の類いの偽善詐欺をかましてる。
良心と称しては、自己便宜を図る衝動に人情的な言動で訴えかける。問題なんは、これは結果的に悪化するんは自明の理なんやけど、目に見えへん形で蝕まれてることに気付かず、現状維持的な感覚に陥る。現状維持なんやから、100%ええとは言わへんけど、悪うなってるとは思うてへんから太刀が悪い。
気が付いた時は致命的になってるが、致命的になるまでの間の驕り高ぶり、気付いたもんらには、居た堪れないくらいにムカ付く。せやから、致命的になるまでがまん、がまんって、、、、そんな問題か!?となる。
天情、人情に通じ、人情、天情に通ずる。これがすべてなんやけど、天情、人情に通じず、人情、天情と区別、分別してるところは、八百万の信仰、解釈を自己都合に併せ持つように自浄する。後どれくらいもつ?

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