今日はジュンク堂にいって本を物色してきた。
今日読んだのは『普通がいいという病』という本だ。
読んでいて重要な内容だなと思った点がいくつかある。
ひとつは、この本は冒頭でフーコーの言葉をのせ、狂人を狂人として区別することでいわゆる『異常者』が
発生したのであって、区別をなくすると狂人そのものが存在しなくなるというような主張をしているところだ。
当たり前のようなことだが意外と気づかない点でもある。
しかし、同質のものが多いほうが評価を下す側になるというのは社会の常識である。
上で述べた主張に対抗する言葉として『社会に不満があるのなら自分を変えろ』という
某アニメの名台詞があげられるかもしれない。いやむしろ、同じ認識から発せられた
ふた方向の言葉である気もする。
もうひとつの重要点は、日本人は0人称であるということだ。
「わたしは~だ」というような主張をすることが少なく、「きっとあなたもそうでしょう?」系の
同じ認識にあることを前提とするようなコミュニケーションが多いという。
海外では自分の考えを相手に言わなければコミュニケーションそのものがなりたたない。
その意味では日本社会は、狂人に生きづらい社会といえるかもしれない。
そしてもう一つ。現実をみろという人が見ているのは、物的現実であるという。
フロイトなどの例をあげ、無意識の重要性を説く。
サンタクロースがいるというのを信じている人は、サンタがいるというのが、その人の「現実」になっている。
サンタクロースがいないというのを信じている人は、サンタがいないというその人の「現実」を信じている。
みなが信じているだろう前提を「現実」とよんでいるにすぎないのだ。
最後にもうひとつ。5本のバナナの話は印象的だった。
ある人が5本のバナナを持っていたとしてい、その人は3本食べればおなかがふくれて
満足するという。だからその人は、3本食べてから余った分で、もう残しておいても腐ってしまう分
のバナナを乞食に分け与えた。その際、乞食は「そんなものはいらない」と拒否した。
その人自身は満腹で満足していたし、どうせ捨てるものだったのだから別段腹もたてなかった。
しかし、その人が、乞食に上げるためにバナナを2本しか食べず、残りの3本を乞食に分け与えたとき
、乞食に拒否されたその人は怒った。
この二つの違いは、筆者によると、「自分が満たされてから施しをすると、愛になる。満たされないのに施すと
それは欲望になる。」という。
たしかにその通りだなとおもう。バナナを二本に節約し、乞食に与えるという行為は、
愛情の押し売り、感謝へのつよい欲望が働いていたのだ。
先ほどあげた「現実」という前提は、あとで「言葉の価値観」という言葉で言い換えられていた。
言葉の価値観=物事をどうとらえるか=前提 だからだ。
その押し付けは、日本のような「なあなあ社会」においては「え?そういう前提でしょ?
それが常識でしょ?」食い違いに通じる。
また、日本以外でも、思っていることと言葉がちがうことは多々あるはずだ。
うそをついたり、本当に思っていることと違うことをいわなければいけない雰囲気のときに。
そしてその食い違いが大きな大きな亀裂となり、
譲れない問題に直面したとき、社会的マイノリティは、ただただ社会的マジョリティや強権者、
に無言で屈するほかないのである。
ps
もうひとつ面白い話がある。うつ病患者が昼に寝て夜に行動するのは、「昼間皆が働いているのに
自分はなにをやっているんだ」という自己嫌悪から逃避するためであるという。
再編集
じゃあ実際のところ「どういきればよいか」について考える。上の論調では、「狂人は作られたもので
、いわゆる狂人といわゆる常人が対話を通して意見を主張しあえば道は開ける」という結論に
いたりそうだ。
では、現実としてこの日本社会で狂人が狂人としていきればよいのか、それとも常人に合わせて
常人のフリをしていきればよいかはわからない。
狂人として生きるならば
・他者に自分の理解を求める努力をし続けなければいけない(人にいちいち自分を理解してもらわなければいけない)
・社会的に認められていない者とみなされ、嫌われる(非常識な人といわれたり、一貫性がないと「言っていることがちがう」と非難されたりする。)
常人に合わせていきるなら
・自分を常に隠して演じて生きなければいけない
・常人のなかでも「上の位の者」の習慣を踏襲しなければいけない。
といったデメリットがそれぞれある。
もっとも狂人が狂人として生きやすい生き方は、①一貫性のある狂気であること②法律には違反していないこと
の2点のみが重要である。それを守っている人間は2ちゃんねるのひろゆきや、かつてたたかれていたホリえもん、「お金儲けしてなにがわるい」の村上ファンド社長など、たたかれもするがある種カリスマ性をも持った人たちだ。