Qualiaが一世を風靡(ふうび)したときに、師匠が「クオリア」に対して「あれは霊だよ」とおっしゃったことが、いまになって味わい深くなってきています。
Qualiaとはなんというか質感のことです。ある概念の感触です。
今回のMATLASではあえて「Qualia」という言葉を導入します。
これは新しい概念によって、新しい補助線を引くためであって、この(クオリアという)理論が正しいからでも、間違っているからでもありません。
別な言葉で言い換えるならば、イメージとか、感触でも良いのです。
T理論で言えば、臨場感でしょう。
もしくはB'zならば「有無を言わせない 圧倒的な手触り」(イチブトゼンブ)です。
自分の中で「クオリア」という言葉のクオリアがあれば良いのです。
♬すべて掴んだつもりになれば
また傷つくだろう
ほんとに要るのは有無を言わせない
圧倒的な手触り
愛しぬけるポイントがひとつありゃいいのに♬
ゆる体操の創始者であり、運動科学の高岡英夫先生は「記号」という言い方をよくされていました。臨場感のない言葉に対して批判的にネガティブな意味で「記号」とおっしゃっていました。
たとえば無意味に丸暗記させられた言葉は「記号」となり、一夜漬けのあとに忘れてしまいます(正確に言えば、暗記したことは覚えてはいるのですが、引き出せないのです。重要性関数に紐づけられていないから遠いのです)。
でも、長年悩んできた捻挫の癖や、足首の痛みが一回の施術で治ってしまったら?
その上、原因を突き止めてもらい、そして今後の対策まで教わることができたら?
それが30分の施術であっても、おそらく一生忘れません。
たとえば、ダンサーであれば、教わったワークを今後ずっとルーティーンとして続けるでしょう。ルーティーン以前に、気付いたらやってしまっているでしょう。
「足の骨がちょっと内反気味に落ちていますね」
「そうなんですよ、先生にも小指(小趾)側に乗っているといつも言われます」
「第四、第五中足骨の近位にあるこの骨が地面の方向に落ちていて、その隣の(内側の)舟状骨がむしろ上がっているんです」
「え、土踏まずが高いのは良いことだと思っていました〜甲も出るし」
「たしかにそうなんですけど、何事も過ぎたるは猶及ばざるが如しなんですー」
「へー」
みたいな会話があり、
「こうやって、立方骨を上げて、舟状骨をあえて下げて、舟状骨に付着している楔状骨という楔をバラバラにすると、足がこうバラバラになるんです。その上で中足骨に『湧泉』というツボを刺激してあげると、、、、むしろこの方が甲が綺麗で高いでしょう?」
という感じで施術されたら、それは一夜漬けならぬ、一度きりの体験でも二度と忘れられなくなります。
次のセッションでは自分で施す技を、教師から伝授されれば、それが日々のルーティーンになります。
そのときに鍵となる「立方骨」が忘れられない存在となります。
記号から始まった概念が突如として、人格を持って立ち上がるのです(イスラエル・リガルディーですね)。
まず最初の段階として、魔術ではそれらに人格を与え、実体の形態をもつものとして調査し、明確な名称と性質を与える。自分自身の心の内容物に人間的性格や名称を与えるのは精神の性質である。これを行うに際して、現代心理学の権威といえば斯界の第一人者であるC・G・ユング博士の賛同をも魔術的体系は受けると言ってよいだろう。彼は『黄金の華の秘密』の注解でこれらのコンプレックスを「自律性を持つ心の断片的体系」と名付けている。この「断片的体系」について彼はこう述べている。
「心的人格の構成要素そのものであり、したがって〔徳性とか性質といった〕人格的特性を持たなければならないわけである。そのような断片的体系は、特に精神的や心因性の人核分裂(二重人格)、あるいはありふれた霊媒現象などによく認められる。」(『黄金の華の秘密』C・G・ユング R・ヴィルヘルム著 人文書院 湯浅泰雄・定方昭夫訳)
前にも述べたように、これらコンプレックス即ち特定の概念の集合体に人格を与えるのは人間精神の自然な傾向なのである。もう一つの証拠として、夢における現象を引き合いに出してもよい。夢においては、非常にしばしば精神的障害やコンプレックスが象徴的にある人間や動物の形態を与えられるのである。(イスラエル・リガルディ「柘榴の園」 pp.226-227)
*我々がやっているのは正当な意味での魔術です( ー`дー´)キリッ
魔術は古代の科学なのです。そして未来の科学かもw
新入学、新しいクラスでの新しい友だちと似ています。
最初は名前と姿形しか意識に上がりませんが、話しているうちにその人の人格が立ち上がってきます。
「立方骨」くんも同じです。
*アテナイの学童学堂
*脳内に小学校の教室を思い浮かべ、そこに天才や偉人たちを友だちとして迎え入れましょう。いや、自身が天才の宮殿に迎え入れられましょう。彼らと戯れ、楽しい時間を過ごしましょう。
これが本当のギルドです。
と、ここでヴェイユを紹介しようと思って、過去記事を検索していたら、面白い記事を見つけたので紹介します。
年度の終わりに私は、何かサンスクリット語の原文を読むことに、休暇の一部を当てたいと思い、シルヴァン・レヴィに相談しに行った。彼は書家の棚から、赤い別珍の装丁の一冊の小さな本を取り出した。それは、『バガヴァット・ギーター』の「現地」版(当時こう言われていた)だった。「これを読みたまえ」と彼は私に言った。「まず、これを読まないならば、インドのことは何一つ理解できないからだ.」ここで一拍おくと、彼の顔がぱっと明るくなった.「それに」と彼は言った.「美しいんだ!」(p.45 ヴェイユ)
*この「赤い別珍の装丁の一冊の小さな本」を今度、セミナーでお見せします!
そして、紹介しようと思ったのはこちら↓
過去の賢人と話し合うとは、古典に触れるということです。
そう言えばクラスメートのデカルトくんはこう言っています。
すべて良書を読むことは、著者である過去の世紀の一流の人びとと親しく語り合うようなもので、しかもその会話は、かれらの思想の最上のものだけを見せてくれる、入念な準備のなされたものだ。(デカルト「方法序説」岩波書店 p.13)
古典を読むことは、クラスメートとの会話であり(そしてそのクラスメートは当然ながら偉人とされるレベルの人だけで)、その会話も「かれらの思想の最上のものだけを見せてくれる、入念な準備のなされたもの」です。
最高です!
転校生は歓迎されており、転校生のために最高のガイダンスをしようと皆が手ぐすね引いて待っており、そのクラスメートたちは尊敬に値し、かつ圧倒的な抽象度を兼ね備えた人なのです。
アンドレ・ヴェイユくん(フランスの数学者)もこう言います。
わたしはずっと以前から、そもそもはギリシャの詩人たちを読みながら、人類の歴史において、きわめて優れた才能の持ち主だけが重要なのであり、彼らと知りあうための唯一の方法は、その作品に直接触れることだという確信を持っていた。(アンドレ・ヴェイユ「ヴェイユ自伝 上巻」p.44)
前段はともかく(実際に本人もそれを否定しています)、優れた才能の持ち主と知り合う唯一の方法として、「その作品に直接触れること」と語っています。「直接」という意味は原典で、ということです(我々としてはまずは邦訳で間接的にw)。ヴェイユくんはギータを読むためにサンスクリット語を学んだ人です。ドイツ語でリーマンも読んだそうで、難解だったと言っています。
話しが逸れましたが、ポイントは立方骨のQualiaとは、立方骨の気持ちということです。
「あ〜立方骨くんが辛そうだな〜、窮屈そうだな〜」と立方骨くんの気持ちが分かる感じがするということです(むしろますますわかりにくいw)
ますますオカルトチックなMATLASⅢお楽しみに!!