リバタリアニズムを信奉する者として、模倣理論は、私たちはみな独立した個人であるという考えに反する | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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PayPalの創業者でもあるピーター・ティール(Zero to One)がこんなことを言っています。

 

    

「リバタリアニズムを信奉する者として、模倣理論は、私たちはみな独立した個人であるという考えに反する」(ピーター・ティール)

 

ピーター・ティールの全著作や全発言を踏まえてしか、この文章は読解できないものの、僕自身の勘としては、この意味は(リバタリアニズムが前提とする)「私たちはみな独立した個人であるという考え」は間違っているという風に捉えられます。

 

ティールはリバタリアンである以上にジラールの弟子だと感じるのです。

 

 

まあ、ピーター・ティールがどの立場であったとしても、少なくとも我々が理解できるのは、ジラールの模倣理論(ミメーシス)は「私たちはみな独立した個人である」とは見做していないということです。

 

 

 

我々は何らかの形で接続していると考えても良いですし、やわらかく共同体と考えても、政治的動物(アリストテレス)と考えても、リヴァイアサンを思い起こしても何でも良いのですが、最近のテーマである近代(そして現代)の病(もしくは呪い)としての「Individual(個人)」が思い起こされます。

 

*ホッブズの主著である「リヴァイアサン」の表紙絵は海から登場する怪物(悪魔)であるリヴァイアサンを描いているのですが、その身体をよくみると鱗ではなく人間であることが分かります。国家とは人間が寄り集まってできた人工人間なのです。

c.f.悟りは全知ということではなく。リヴァイアサンとドーキンス 2012年07月22日

 

 

パラダイムというか、思考の枠組みというのは非常に重要です。

 

たとえば、カロリーのことを考えて痩せようとすると痩せられないことは良く知られています(たとえばガンドリー博士の「食のパラドックス」をめぐる議論などを参照してください。レクチンの人ですね)。

 

 

激しく運動をしていて、目標が明確な人たちはカロリー計算の素晴らしさを声高に言い募りますが、自分たちの高負荷な運動のことがスコトーマに入っています。あまりここで議論をしたくないので、結論から言えば、たとえばウルトラマラソンの最中はジャンクフードでないとエネルギーが持ちません。それでも体脂肪率は一桁台です。いつものクリーンな食事であれば、動けなくなってしまうのです。

カロリーという視点から見た時にそのX-Rayがいろいろなことを説明してくれるような気がしますし、それが妥当しているように見えるのですが、実際の戦場の武器としては役に立たないことに気付くのです。

同じく運動を消費カロリーの観点で考えたら、階段を駆け上がる気力も湧きません。誤差みたいなものだからです(しかし、、、たとえば心拍変動の視点で考えたら、階段がキラキラと魅力的に映るのです)。

 

同様にたとえばヴィム・ホフメソッドを褐色細胞や白色細胞、そしてベージュ細胞の視点で脂肪燃焼を考えたりすると(そのフレームで考えようとすると)、、、、うまくいきません。

ヴィム・ホフの褐色細胞は訓練というよりは遺伝であることが分かっています(双子がいるので分かりました)。褐色細胞の量出はないのです。遺伝子的に有利であっても、ほぼ誤差になります(双子さんはヴィム・ホフのレベルではCold Exposureをできません)

稀代のバレリーナであるシルヴィ・ギエムさんがつま先の美しさを褒められた時に、「でも大事なのはここなの」と言ったのは有名な話し(その映像と共にこのブログに長く乗っていましたが、その動画は削除されました。東京文化会館でのことでした)

    

ギエムさんが日本公演に来たときに(隔年で来られていますが)、インタビューアーがしきりに足を褒めていた際に「バレエで最も重要なのはここなの」、と頭を指していました。その動画はこちらに紹介してたのですが、著作権侵害とやらで消えていました(何がどう侵害するのか分かりませんが、コンテンツを退蔵するのは社会に何か寄与するところがあるのでしょうか?アーカイブが容易に安価で手に入るのであれば別ですが)数学はとても大事だろうが、それは踊りも同じである。 2012-12-13

 

一応言い添えておきますが、褐色細胞・白色細胞の議論は今後「まといのば」でも出します(セッションでは普通に導入しています。セミナーでは10年前に)。そうではなく、「痩せるための褐色細胞を増やそう」みたいなパラダイム(考え方)だとアウトということです(それを推奨する、、というか、ミスリードさせるような国営放送があったそうです)

 

 

 

そのうちでもかなり大きいのが(そのようなパラダイムの中でも一番問題なのが)、こちらです。

 

私たちはみな独立した個人である

 

と、「まといのば」では考え、これは2013年の近代(現代)批判の大きなテーマでした。

 

「独立した個人」であると考えるからうまくいかないのです。

 

 

僕はここに空海を思い出しますし、子供時代の多くの人のヒーローであろう宮沢賢治を思い出します。

空海については皆さんよくご存知でしょうから(いや、宮沢賢治も)、ちょっとヴァータに結論に飛べば、宮沢賢治の傑作『春と修羅』の冒頭に書かれた文章(教科書などでもおそらくお馴染み)が(僕にとっては)ようやく分かりそうな感じがするのです。

 

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)(『春と修羅』冒頭)

 

小学生の時分にこれを読んだときは鼻持ちならないな〜と感じたものです(その感想を抱くことが鼻持ちならないから)。こういうのを書かなきゃ良いのになどと失礼なことを考えていました。詩と抽象概念を弄んで幻惑していると思ったのです。

 

(だからそんな小学生は、

 

 

どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう(宮沢賢治『風の又三郎』

 

などを読んでおけば良いのです)

 

 

その感想は全然間違っていました。

 

宮沢賢治は明確に「わたくしという現象」は「あらゆる透明な幽霊の複合体」と書かれています(まとめすぎ)。

 

直流ではなく交流というのが良いですね。

直流ならば「わたくしという現象」が消えたら(死んだら)全員死亡です(「そういうことじゃない」という宮沢賢治先生のツッコミを感じる)

交流ならば豆電球が焼ききれても、他の豆電球に影響はありません。

 

空海との関連で言えば、妹トシの早すぎる死に対して、こんな詩を残しています。

 

    ((みんなむかしからのきやうだいなのだから

      けつしてひとりをいのつてはいけない))

ああ わたくしはけつしてさうしませんでした

あいつがなくなつてからあとのよるひる

わたくしはただの一どたりと

あいつだけがいいとこに行けばいいと

さういのりはしなかつたとおもひます(宮沢賢治『春と修羅』青森挽歌)

 

妹トシだけが極楽に往生して欲しいと私(宮沢賢治)は祈りませんでした!とオラクルに向かって返答しています(叫んでいるようにも思えます)

 

トシと言えば「永訣の朝」は号泣必須ですね。妹の臨終のシーンを美しく描きます。

 

   (あめゆじゆとてちてけんじや)

    (お兄様、雨雪(みぞれ)を取ってきてくれませんか)

 

 

上記の青森挽歌のラストでオラクルはこう言います(オラクルって主語になるの?)。

 

    ((みんなむかしからのきやうだいなのだから

      けつしてひとりをいのつてはいけない))

 

みんな時の始めからマトリックスに接続されているのだから、、、(え?そういうこと?)

 

 

ここらへんが綺麗に解けてくると(脱洗脳できると)、かなり鏡の国につながります。

(無意味な競争の無い世界へようこそ)

 

 

人は孤立した岩(島)ではありません。海底ではつながっているのです。

 

♫ I am a rock,
I am an island.
 ♫

c.f.♪I am a rockなのか? 〜7期資料〜 2012年10月05日