ただ祖父の声につれて復唱するだけで、知らずしらず漢字に親しみその後の読書を容易にしてくれた。 | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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都内の某所で京大の山中教授のお写真の隣にワイングラスの中に入ったタバコのハイライトがありました。何の変哲もなくポイッと置かれているので、気付かない人は気づかなそうな感じで。

聞いてみると、それはそのタバコの所有者が前立腺がんを患ったころに、タバコをやめようと決めた最後のハイライトだったとか。

 

 

湯川秀樹博士が生れたのは明治40年1月(1907年)、翌年に父親の小川琢治は京都帝国大学の教授に招聘され、一家は東京から京都へ転居します。

 

5,6歳のころに素読を祖父から学びます(今回のCGでもポイントとなります)。

 

5、6歳の頃、祖父・駒橘より漢籍の素読を習った。駒橘は漢学の素養が豊富で、明治以後は洋学を学び、晩年までずっと『ロンドン・タイムズ』を購読し続けた人物であるという[3]。湯川は自伝に「私はこのころの漢籍の素読を決してむだだったとは思わない。…意味もわからずに入っていった漢籍が大きな収穫をもたらしている。その後大人の書物をよみ出す時に文字に対する抵抗は全くなかった。漢字に慣れていたからであろう。慣れるということは恐ろしいことだ。ただ祖父の声につれて復唱するだけで、知らずしらず漢字に親しみその後の読書を容易にしてくれたのは事実である。」と記している[4]。Wikipedia

 

(引用開始)

私はこのころの漢籍の素読を、決してむだだったとは思わない。

戦後の日本には、当用漢字というものが生れた。子供の頭脳の負担を軽くするには、たしかに有効であり、必要でもあろう。漢字をたくさんおぼえるための労力を他へ向ければ、それだけプラスになるにちがいない。

 しかし私の場合は、意味も分からずに入って行った漢籍が、大きな収穫をもたらしている。その後、大人の書物をよみ出す時に、文字に対する抵抗は全くなかった。漢字に慣れていたからであろう。慣れるということは怖ろしいことだ。ただ、祖父の声につれて復唱するだけで、知らずしらずに漢字に親しみ、その後の読書を容易にしてくれたのは事実である。(引用終了)

 

 

もう1つ脱線しますが、、、

大栗教授がこんなことを紹介しています。

 

 

 

 

現実的な解決策を開発した朝永に対して、湯川のほうは、時代に先駆けたビジョンを追究するタイプの科学者でした。

後年には哲学的な思索に傾いたようで、たとえば湯川の著した教科書には、中国盛唐期の詩人である李白(りはく)の「夫天地者萬物之逆旅、光陰者百代之過客(それ天地は万物逆旅にして、光陰は百代の過客なり)」という文章が引用されています。

逆旅とは宿屋のことである。万物はそれぞれ宿屋のどれかの部屋に泊る旅人である。どこかから来て、そこに泊り、やがてどこかへ去る。しかし天地全体が宿屋なら、その外へ出てしまうことはなかろう。同じ部屋に居続けるかほかの部屋へ移るかの、どちらかである。あるいは時あってか旅人は死ぬことによって、この天地から消えてしまうこともあろう。そこで、もしも天地という代りに三次元の空間全体、万物という代りに素粒子という言葉を使ったとすると、空間は分割不可能な最小領域から成り、そのどれかを占めるのが素粒子ということになる。この最小領域を素領域と名づけることにしよう。(『岩波講座 現代物理学の基礎10 素粒子論』岩波書店)

私は大学生時代にそれを読んで、「何だ、これは」と仰天しました。しかし、いま考えればこの「素領域」という発想は、重力と量子力学を統合したときに現れる階層構造の行き止まり、プランクの長さのことを予見していたのかもしれません。(『大栗先生の超弦理論入門』(ブルーバックス)

 

 

 

ここで

 

そこで、もしも天地という代りに三次元の空間全体、万物という代りに素粒子という言葉を使ったとすると、空間は分割不可能な最小領域から成り、そのどれかを占めるのが素粒子ということになる。この最小領域を素領域と名づけることにしよう。

 

に着目すると、これはシン・TENETが浮かび上がってきます。

 

 

それはさておき、

 

そして、1926年に晴れて京都帝国大学の物理学科に入学します。

 

このころは量子力学が花開いた時期です。

 

「うかうかしていては開拓領域が無くなってしまう」という焦りを感じつつ大学を卒業したそうです。

 

1926年(大正15年)、京都帝大の物理学科に進んだ秀樹は、長岡半太郎博士の講演会を聴講し、極小の世界を探求する夢を膨らませます。物理学の進歩はめざましく、数年前は謎だった原子の中の粒子の動きを説明する「量子力学」という分野も生まれました。欧州では、ハイゼンベルク、ディラック、バウリなどの天才が次々に新理論を発表。「うかうかしていては開拓領域が無くなってしまう」という焦りを感じつつ大学を卒業し、研究室の副手・講師となり、33年(昭和8年)に大阪帝国大学に移ります。その前年には開業医の娘だった湯川スミと結婚し、婿養子となり湯川姓に変わりました。シリーズ偉人たち

 

 

 

では、そのうかうかしていたは開拓領域がなくなるという時期はどんな時期だったのか、湯川秀樹博士ご自身の言葉で解説してもらいましょう!!

 

 1925、6年頃にde Broglie及びSchrodingerの波動力学とHeisenberg等の量子力学とが殆ど同時にでき上がり、それらの見かけ上の大きな違いにも拘わらず形式的に同等であることが明らかになった。

 そしてBohrに始まる量子力学の統計的解釈が、1927、8年頃にはHeisenbergの不確定性原理やBohrの相補性の考えが根幹となって一応物理学者にとって満足すべき理論体系ができ上がった。

(フォン・ノイマン「量子力学の数学的基礎/みすず書房 解説:湯川秀樹)

 

 

 

 

1926年に京大物理学科に入り、そのときに(1925、6年に)ド・ブロイ及びシュレディンガー、ハイゼンベルクの量子力学ができあがり、1927、8年頃には、ハイゼンベルクの不確定性原理、ボーアの相補性の考えが根幹になって、一応物理学者に満足すべき理論体系が出来上がったのです。湯川青年の焦りはいかほどか。

 

京大卒業後に研究室の副手・講師となり、33年(昭和8年)に大阪帝国大学に移ります。

 

大阪帝国大学に移籍後、全く成果が出ない湯川を八木はさらに勉学に努めるよう注意した上で、「本来なら朝永君(朝永振一郎)に来て貰うことにしていたのに、君の兄さんから依頼されたので、やむなく君を採用したのだから、朝永君に負けぬよう、しっかり勉強してくれなければ困る」とまで叱責した。内山龍雄によれば、八木は口の悪いことで有名だったという。Wikipedia

 

後にノーベル賞を(ファインマンと同時に)受賞する朝永振一郎とは、京都第一中で1年上、三高・京大では同期(朝永は同期の湯川にノーベル賞でずいぶんと先を越され、相当に悩んだ)。

 

大阪帝国大学に移る前年に開業医の娘だった湯川スミ(澄子)と結婚し、婿養子となり湯川姓に。ここで湯川秀樹が正式に誕生です。

そして八木からのプレッシャーもあり、研究に没頭します。

 

『原子核はプラスの電気を持つ「陽子」と電気を帯びない「中性子」でできているが、マイナスの電気を持つ粒子がないのに、なぜバラバラにならず安定しているのか。その力は何から生まれるのか』。寝ても覚めてもこの疑問が頭を離れず、不眠症のような日々が続きました。そして27歳になった34年の秋、突拍子もないアイデアがひらめきます。(図1)
「陽子と中性子の間には未知の粒子があり、それが素早く往来しながら二つの粒子を結びつける力(核力)を生んでいるのではないか」。この仮説をもとに、未知の粒子の重さを計算すると電子と陽子の中間の重さで、電子の重さの200倍はあるはずと導き出しました。
シリーズ偉人たち

 

 

ここにある

 

寝ても覚めてもこの疑問が頭を離れず、不眠症のような日々が続きました。

 

というのが良いですね。ニュートンのようですね(そのケインズ評のようですね)。

狂ったように考え続ける時期は必要です。

テーマは「『原子核はプラスの電気を持つ「陽子」と電気を帯びない「中性子」でできているが、マイナスの電気を持つ粒子がないのに、なぜバラバラにならず安定しているのか。その力は何から生まれるのか』」です。

バラバラにならず安定しているノリ(グルー)のような存在が何かを考え、それが未知の粒子であり、それが素早く養子ともとい陽子と中性子を往復しているからこそ、安定していると考えました。

 

 

そして、その存在を「未知の粒子の重さを計算すると電子と陽子の中間の重さで、電子の重さの200倍はあるはず」予言しました。

 

1934年(昭和9年)に中間子理論構想を、翌1935年(昭和10年)に「素粒子の相互作用について」を発表し、中間子(現在のπ中間子)の存在を予言する[11]。未知の新粒子の存在を主張する学説に対し、欧米諸国の科学者の多くは否定的であり、量子論の開拓者であるニールス・ボーアは1937年の訪日の際、「君はそんなに新粒子がつくりたいのかね」と湯川を批判したという[11]。Wikipedia

 

そして、そのような素粒子が宇宙線の中から発見されたことが、のちのノーベル賞に繋がります。

 

1937年、米国のアンダーソンが宇宙線の観測で中間子と思われる粒子を発見というニュースがもたらされたのです(後年、素粒子のレプトンと判明)。中間子論は一転して世界の注目を集め、湯川は国際学会に招かれますが世界大戦の勃発で会議は中止。湯川は欧州から米国へ渡り、アインシュタインと議論を交わし中間子論への自信を深めます。
こうした功績によって39年には32歳の若さで京都帝大の教授に就任し、43年には史上最年少で文化勲章を受章します。そして、47年に決定的な出来事が起こります。英国の物理学者パウエルが宇宙線の軌跡から湯川が予言したパイ中間子(核力中間子)を発見したのです。これによって49年(昭和24年)に日本人初のノーベル物理学賞が授与されました。

シリーズ偉人たち

 

湯川秀樹博士の中間子理論が重要だと思うのは、まっすぐに言えばその後の素粒子論を切り拓いたからです。それが神の粒子などとも呼ばれるヒッグス粒子にも繋がります。

 

そしてこの中間子のキャッチボールというアイディアが後々きわめて重要になってきます。

 

 

蛇足に蛇足を重ねるようですが、、、自分自身との関係に失敗すると(自分自身とのキャッチボールがうまくいかないと)、自分に呪われます。