ダニエル・カーネマンは批判にひどく敏感で、ニシキヘビがネズミの批判に傷ついてるようだった | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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岡田斗司夫さんが「いいひと」戦略の書籍の中で、面白いエピソードを紹介しています。

 

エピソードの肝は何かと言えば、こういうことです。

 

「いいひと」って相手に何か改良点が見えたら絶対に言うはずで、敢えて言わない方が「イヤな人」じゃないかと考えちゃうんですね。

 

という話です。

 

この結論はシンプルで、改良点が見えたら言ってしまうのがイヤな人で、改良点が見えても、敢えて言わないのが「いいひと」ということです。

 

Skinということと何も関係がありません。

 

欠点や改良点が見えることと、それを口に出すことの間には2万里くらいの距離があり、自分のブラックな信念が、「これはどうしても教えてあげなきゃ」と思ってしまうのです(このブログもその「小さな親切、大きなお世話」の集積のような気がしてきました。ただ読むか否かは読者の自由にゆだねられるので、、、、、^^;)

 

何が言いたいかと言えば、ホワイトな社会では、欠点が見えても指摘するな、教えたいと思っても、教えるな、ということです。

 

それでも教えたいという人は、、、、僕自身がオススメの戦略はブラックリストのレイモンド・レディントン方式です。

いや、イエスやブッダ方式と言った方がウケが良いのかもしれません。
 

 

彼らは何かを聞かれると、長い長いお話を始めます。

いや何も聞かれていないのに、長い長いお話をします。まさに物語を紡ぐのです。

 

 

そんな一例を上げましょう。

 

たとえば、こんな感じです。

 

この若きラビのお話をレイモンド・レディントンの声で脳内再生したいですね。

 

お馴染みの「善きサマリア人のたとえ」です。

「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」という世界を鉛筆とノートだけで理解できると傲慢にも勘違いする律法学者くんに向かって、イエスはたとえ話をします。

 

*レンブラントの『善きサマリア人』


(引用開始)
するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。


彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。


彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。


彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。


すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。


イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。
するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。
同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。
ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、
近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。
この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。
彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。


(引用終了)(ルカ10:25

 

これをレイモンド・レディントン風味にやりたいのです。

 

何かを教えるということが急速に忌避される社会において(それは2000年前も同様で)、何かを教えたいと思ったら、昔話をしましょう。

 

「要点は?」とか不遜にも聞かれたら、レディントンのように撃ち殺しましょう(←冗談です)。

 

話を戻します。

 

ホワイト社会では、とりあえず欠点を指摘するな、改良点を言うな、ということです。

「こうしたらいいよ」とか禁句だと思うとちょうど良いかもしれません。

 

岡田斗司夫さんはこう言います。

 

 

 

改良点を見つけて提案するというのは、ある程度頭のいい人達にとってはすごい誘惑なんです。

僕も45歳くらいまではそういうことをするのが当たり前だと思っていました。たとえば、アニメを見たり漫画を読んだりしている時に「ここが足りない」と思ったら、そう喋ることがいいことだと思っていました。でも、全然そんなことないですね。

 

 

僕等にとってもすごい誘惑です。
でもその誘惑はブラックな誘惑だと思って、逃れましょう。

良いことだと思ってしまうのです(僕は今でも思っているフシがあります。気をつけなきゃ)。

 

そのあとにこんな面白いエピソードを紹介します。

 

ジャンプやマガジンでは、送られてきたファンレター検閲する、と。

明らかにネガティブなことを書いているファンレターは取り除く、と。

なぜなら、わずか10通でもネガティブなことが書かれていると、作家の心が折れてしまい、作品が書けなくなるだそうです。

 

(引用開始)

 

ジャンプでもマガジンでも、漫画の編集部って、送られてきたファンレターを一回全部検閲しているんです。明らかにネガティブなことを書いているファンレターは取り除いて、作者に見せないようにしているんですね。

 何故かというと、わずか10通でも「あなたの絵柄はもう古い」「すごく頑張っていると思うけど○○さんには敵いませんね」なんて書かれていて、作家の心が折れちゃったら、もうおしまいだからです。描けなくなっちゃうんですよ。その10通の送り主は本当に親切心から書いているかもしれません。でも、その10人を含めた数万人、数十万人のファンにはえらい被害なんですよ。

 

(引用終了)

 

*新人漫画家とジャンプ編集部の物語であるバクマンの臨場感と重ねて、読みたい文章ですね。

 

 

非常にデリケートな話ながら、これが真実だと思います。

 

とは言え、それに加えて、善意の第三者のネガティブなコメントであっても厳しいですが、それが家族からだったら、どれほどかと思うことがありますね。

 

「神のみぞ知る」という作品でこんなケースを以前に紹介しました。

 

c.f.アウトプット以前にインプットが全く足りない(;・∀・)と「神のみ」 2012年09月09日

連載初日の朝に母親から電話が来て、「主人公の名前が気に入らん」と貶されたことをブログに書いています。これは凹みます。(2012.02.16 Thursday)

*著者の若木民喜さんのこのブログはもうありませんでした。

 

 

同様なケースで言えば、小室哲哉さんがお母様に当てた手紙を思い出します、と書こうとしたら、すでにこのブログ記事で書いていたので、それを引用します。

 

若木民喜さんのブログ記事も引用していました。

 

***

 

先の連載初日の母親からの貶しについては以下のとおり。


(引用開始)
前に言ったかも知れないけど、昔サンデーで読み切りが乗った時に発売当日の朝におかんから電話かかってきて、「主人公の名前が気に入らん」だって。1発目の評価が貶し、しかも、内容と別のところで。こういうのは落ち込むなぁ。命令通りにやってるだけじゃお金がもらえない業種、まあ、漫画のような仕事で、制限だらけでのなかで前向きな気持ちをキープし続けられるのは、描いたモノを読んでくれて、喜んでくれる人がいる、と信じてるからこそ。
(引用終了)
引用元はこちらのブログ(2012.02.16 Thursday)



僕はこのシーンに小室哲哉氏を重ねあわせました。
文中の昱子とは母親のこと。


母親がふらふらしているように見える息子に耐えかねて叱責するシーン。

(引用開始)

「哲哉。ちょっと話があるの」
 普段は常に息子の側に立って物事を考える昱子も、この夜ばかりは心を鬼にしなければいけいないと、何度も自分に言い聞かせていた。
 大学の卒業はどうするのか。就職をどう考えているのか。女の子とのお付き合いはどうなっているのか。聞きたいことは山ほどあった。
 昱子の真剣な表情を見て、小室も事態を察したようだった。昱子が一気に捲(まく)し立てるいくつかの質問とも、意見とも区別がつかない言葉を、黙って聞いていたという。
 一通の手紙が残っている。
 翌朝、出かける前に小室が昱子に手渡した手紙だ。


手紙読みました。
だけどほんとうに何も気にしないで何もわかっていなと思うのですか?
もうすべて降参したいくらい、わかっているし、苦しんでいます。やり直せるものがあるのなら、ゼロからやってみたいなんて、夢の話です。
ほんとうにもうこれ以上心配は、かけたくないし、苦労もさせたくないし、いつか喜んで誇りをもってもらえるようにと毎日がんばっているのです。そして一日としてムダに生きてはいないつもりです。


(引用終わり)(pp.88-89小室哲哉『深層の美意識』)

一日としてムダに生きてはいないつもりです」と言えるように日々過ごしたいものです。

 

 

*****

 

読み切りがサンデーに乗るという一大イベントの発売当日のお母様からの言葉が、貶(けな)しって、ちょっと心が折れます。

 

それもそれが一発目の評価って、もう発狂レベルだなと思います。

 

大学生の小室哲哉さんに向かってのお母様の善意での問い詰めも同様です。善意だからこそ、辛いものがあります。

 

 

 

と、こんなに長く書くつもりは無く、さらっとダニエル・カーネマンが批判に弱いという話をしようと思ったのです。

 

その本題に入ります。

 

ちなみにダニエル・カーネマンは僕等にとって神様のような人です。

行動経済学でノーベル賞を受賞。

僕等は彼の理論をふんだんに使っています。

 

 

そのカーネマンが、批判にはひどく敏感だというエピソードです。

 

ダニエル・カーネマンと言えば、大天才です。でも本人は自分が間違っているかもしれないという強迫観念から逃れられません。

 

見当違いの学生にひとこと言われただけで、自信喪失し、長く暗いトンネルに入るそうです。

 

(引用開始)

 

ダニエルは批判にはひどく敏感で、見当違いの学生にひとこと言われただけで自信喪失し、長く暗いトンネルに入り込んでしまう。まるでニシキヘビのケージにネズミを入れて、しばらくして戻ってきたら、ネズミがしゃべっているのを、ヘビが隅っこで丸まって、じっと聞いているようだった。

 

(引用終了)

 

ダニエル・カーネマンと言えば、「ファスト&スロー」を思い出しますが、これも苦しみながら執筆されたそうです。

 

 

 

(引用開始)

 

実を言えば、わたしはダニエルが苦しみながら本を書くのを数年間も見続け、一部については初期の草稿も読んでいる。ダニエルの書くものは、話すことと同じように興味深いことばかりだ。それでも、二、三か月ごとに、彼は絶望的な気持ちに陥り、書くこと自体をやめると宣言する

 

(引用終了)

 

そして、無事に本が出版され、ニューヨークタイムズのベストセラーリストに乗ると、また不可解な反応をダニエル・カーネマンはします。

 

(引用開始)

「何が起こったか、きっと信じてもらえないだろう」。ダニエルがとても信じられないというふうに言った。「ニューヨークタイムズの連中が間違えて、わたしの本をベストセラーリストに入れているんだ!」(引用終了)

 

 

このエピソードを紹介しているのは、マイケル・ルイス。

 

以前も紹介したこちらの本からの一節です。

c.f.しかしわたしにとって、第二次世界大戦のあとはピクニックみたいなものだった(ダニエル・カーネマン) 2021年10月30日

 

 

マイケル・ルイスについては、お馴染みかもしれませんが、たとえば、マネー・ショート、そして、マネーボールの原作者です。

 

 

 

 

 

そして、マネーボールです。

野球を生業としている方は必見です。

 

そうではなくとも、直観とFactの差、隠れた真実の探し方を知りたい人には是非!

 

 

 

*どちらもブラッド・ピットが出ています。マネーボールは特にブラッド・ピットが原作を気に入り、映画化に奔走しました。

 

 

そんなマイケル・ルイスがカーネマンとエイモスという2人の天才の友情とその終焉を描いた感動的作品です。

 

 

 

で、結論から言えば、「欠点を指摘してあげたい」「改良点を教えてあげたい」という欲望を漂白していきましょう、ということです(「まといのば」もその点に関して、うまく漂白していきます)。

それを「いいひと」戦略と言うか、表現の漂白化と言うか、ホワイト化なのかは別として、ヒューリスティックにやるべきことは明白です。

 

とは言え、このブログ記事もまた「イヤな人」戦略になっているのです。

何かを教えようとしているからです。

ですので、それを薄めるために、いろいろな逸話を放り込んでいます(^o^)。

レイモンド・レディントンの声で読んでください(冗談です)。