数学的に、構造的に、ご自身の読解について書いてくださると、どこで間違えたのかが、くっきりします。検証可能なので、お互いに益があります。
逆にアウグスティヌスのように、「聞かれるまでは、分かっていたのに〜」と言われると、どこで間違えたのかが、迷宮入りしてしまいます。
(別に回答を出せとプレッシャーをかけているわけではありません。回答をこのブログで提示することはありませんので、時間は無限にあります。寿命という制限はありますが)
そして我々の脳は過去を都合よく改変していくので、間違いもお蔵入りしていしまいます。
すなわち、永遠に改善の見通しがなくなるのです。
ということで、文章をきちんと文法的に解きほぐしてくださって、構造的に説明してくれたM君の回答は秀逸です。唯一と言って良いくらいに文法に言及しています。
その回答例はこちらにあります。
c.f.「自分は、コーチになったルータイスが、成功している、ゴールの世界にいると思って読んでいました」 2021年05月02日
彼の結論は、
A「あなたが思った通りではない形で成功が訪れたときに言っているかもしれないこと」と「あなたが将来振り返ったときに言っているかもしれないこと」が逆接になっている。
ということだったので、
これがいかにして「逆接」と言えるのかを示すことを課題にしたら、クリプキの可能世界意味論を用いて、回答例を出してくれました。
(引用開始)
Q『「あなたが思った通りではない形で成功が訪れたときに言っているかもしれないこと」と「あなたが将来振り返ったときに言っているかもしれないこと」が逆接になっている。』
これがいかにして「逆接」と言えるのかを示せ。
A 「あなたが思った通りではない形で成功が訪れたとき」という可能世界と、「あなたが将来振り返ったとき」という可能世界は全く別の世界であり、かつ並列を示す文言もない。そうであるがゆえにルー・タイスの書いた2文目と3文目は逆接の関係以外にはなり得ない。よって、ルー・タイスが「しかし」という逆接の接続詞を使うのは構造的必然である。
【回答に至った論拠】
まず改めて問題となるルー・タイス3つの文を読み返してみよう。便宜上ルー・タイスの文書はその冒頭に「・」をつけるものとする。また文意を同じくして書き換えたものも文の冒頭に「・」をつけることとする。
・私の人生はかつて思い描いたものとは、まったく異なるものになっています。
・あなたの成功も思ったとおりの形では訪れないかもしれません。
・しかし、将来振り返ったときは、私のように「わからないものだね。今、コーチをしているんだ」と言っているかもしれません。
こうして分けてみると、実はその3文は、接続詞に関係なく独立してかつそれぞれ違うものを指していることがわかる。
この3つの文章がそれぞれ指し示す情報空間の構造を整理するために、分析哲学の可能世界という概念を導入する。可能世界とは哲学者クリプキによると2つのサイコロを振ったときに出る目の組み合わせのことである。以下、クリプキ自身の説明を引用する。
(引用開始)
二つのありふれたサイコロ(それらをサイコロAとサイコロBと呼ぶ)を振って、二つの目が現れる。各々のサイコロにつき、六つの可能な結果がある。したがって、目の数に関する限り、一対のサイコロには三六の可能な状態があることになるが、現実に降られたサイコロの現れ方に対応するのは、これらの状態のうちただ一つだけである。様々な出来事の確率の計算方法を(諸状態の等確率性を仮定して)、われわれは皆学校で習っている。(略)
さて、こうした確率の練習問題を学校でやらされることによって、われわれは実際、年少時に一組の(縮小版の)「可能世界」に引き合わされたのである。世界に関して、二つのサイコロとそれらが出す目以外のすべてのことを(仮に)無視する(そして片方または両方のサイコロが存在しなかったかもしれないという事実を無視する)限り、そのサイコロの三六の可能な状態は、文字通り三六の「可能世界」だと言える。これらのミニ世界のうちただ一つだけーーサイコロの実際の出力に対応するミニ世界ーーが「現実世界」なのであるが、現実の結果がどれだけ確実ないし不確実であったか(あるいは、あるだろうか)を問う時には、他の諸世界も関心の的となる。
(引用終了)(クリプキ 「名指しと必然性」 pp.17-18)
クリプキが書くように2つのサイコロの出た目の組み合わせ三六は縮小版の可能世界群であるが、実際の可能世界は無数にある。少なくとも我々の想像できうる限りの可能世界が存在している。例えば同じく哲学者のマルクス・ガブリエルがいうように、警察官の制服を着用して月の裏側に潜んでいる一角獣が存在する可能世界もあり得るのだ。
念のためDr.Tの「洗脳原論」からも認知科学を踏まえたより厳密な可能世界の定義を引用する。なお可能性世界と表記されるが可能世界と同義である。
(引用開始)
「物理的現実世界をそのひとつとする、あらゆる時間的空間的に存在しうる物理的現実世界の潜在的可能性としての仮想世界(クリプキ的な意味での可能性世界)と、物理的現実世界に置けるその存在可能性を問うことができない仮想世界(SF的な意味での可能性世界)の両方を可能性世界とする」とする。脳内情報処理の観点からいえば、「人間の脳が想定することができる潜在的な存在としてのあらゆる仮想世界」ということになる。
(引用終了)(苫米地英人「洗脳原論」pp.20-21)
それを踏まえた上で、ルー・タイスの3つの文をそれぞれ可能世界=Pと見做して、それぞれ数字をつけて置き換えていこう。
・私の人生はかつて思い描いたものとは、まったく異なるものになっています。
→これをP1とする。
次に、
・あなたの成功も思ったとおりの形では訪れないかもしれません。
→これをP2とする。
そして、
・しかし、将来振り返ったときは、私のように「わからないものだね。今、コーチをしているんだ」と言っているかもしれません。
→これをP3とする。
P1はルー・タイス自身の人生という可能世界を指す。P2はあなた(読者)の成功した人生という可能世界。P3は読者が将来振り返ったときという可能世界。
P1とP2の関係は並列である。なぜならP2の文章自体が文法的に前文を受けて「も」という副助詞で綴られているからである。すなわち、ルー・タイスが「・私の人生はかつて思い描いたものとは、まったく異なるものになっています。」という自身の人生(という可能世界)の述懐から、それを受けて読者に主語をスライドさせることで、「・あなたの成功も思ったとおりの形では訪れないかもしれません。」というそれとは別の可能世界を指し示しているということだ。当然P1とP2はそれぞれ独立した可能世界だが、P1を踏まえた上でP2を指し示している以上、並列の関係にあることがわかる。そしてそれは副助詞「も」によって指し示されている。
しかしそれとは反対に、P3はP2のような副助詞「も」のような文法上並列を指し示す文言はないし、かつP2は成功したときという可能世界で、P3は将来振り返ったときという可能世界でそれぞれ別の可能世界なので、必然的に「しかし」という逆接の接続詞が使われる。
それを前回の回答に準じて文意を同じくして書き替えて、
「・あなたが思った通りではない形で成功が訪れたとき」という可能世界P2
と
「・あなたが将来振り返ったとき」という可能世界P3
とする。
それを踏まえて回答を整理すると、
A 「あなたが思った通りではない形で成功が訪れたとき」という可能世界と、「あなたが将来振り返ったとき」という可能世界は全く別の世界であり、かつ並列を示す文言もない。そうであるがゆえにルー・タイスの書いた2文目と3文目は逆接の関係以外にはなり得ない。よって、ルー・タイスが2文目と3文目を「しかし」という逆接の接続詞でつなぐのは構造的必然である。
と言える。
(引用終了)
(図とアマゾンリンクは引用者が付け足しました)
ゆっくり読み解いてください。
正解か否かが問題ではなく、プロセスが重要です。
そしてもうお一人!
(引用開始)
おはようございます
課題、大変な盛り上がりになっていますね
想定外に、皆さん苦労していらっしゃるようで、驚きです
印刷して読んでいますが
読めば読む程、訳分からん
何でじゃ❓に
なってしまっています
自分が読解出来ていないだろう自覚は
ずっとあったので
どれ程ダメなのか知りたかったので
挑戦してみたのですが
出来ていない少数派だと
思っていたので
その方が少数派だと思っていました
姑息な手段を使って
仲の良い東大卒くんに
読解してみてもらおうか❓とか
海外在住の友人に
読解してみてもらおうか❓
高校の国語教師の友人に
読解してみてもらおうか❓とか
色々横道を考えてみたりしました😅
が、人生の課題にしてもいいやと
病気の治療には
死ぬ迄かかりそうだと知った時は
絶望感しかなかったですが
「まといのば」に辿り着いて
想定外に成長し始めることが
出来始めて、
今は学ぶことがとても面白くて
楽しいので
まぁ、いいか‼️です
ステップ3には程遠いので
課題の提出は出来ないのですが
今の感想です
行間は、白紙
とても難しいですね
聴く時の、ひたすらechoと
同じことだと思うのですが
聴く方は聴き逃してしまうし
読む方は感想盛り沢山で読むし
どちらも私は
非常にマズい、状態だということです
それでこそ
学び甲斐があるというものです‼️
順接で、「そして、将来〜」と繋げてしまうと、「分からないものだね、〜」と博打的な成功という意味にもなってしまい、コーチの言葉としては
とてもおかしな言葉になってしまいます
なので、「しかし」を使うことで
「まったく異なったもの」、と
「今、コーチをしている」ことを肯定して繋げないように、逆に繋げる必要があったのではないでしょうか
「まったく異なったもの」、だけど、「今コーチをしている」
そうすると、「つまり〜」以降の詳細な解説は、「まったく異なったもの」、と、「現在コーチをしていること」、との解説になり、2つの文章の意味を繋ぐのではないでしょうか。
原文の from the way を、せっかちに
いきなり、成功、と読まないようにすることだな、とも先程気付きました
(引用終了)
もし、逆接の「But(しかし)」ではなく、順接で(たとえば「そして」)繋いでしまうと、成功が博打的にもたらされたことになる。それはコーチの言葉としてはおかしい。
だから、ルー・タイスはここに「逆接」を持ってきたというご意見です。
では、逆接の「しかし」を順接の「そして」にして読んでみましょう。
私の人生はかつて思い描いたものとは、まったく異なるものになっています。
あなたの成功も思ったとおりの形では訪れないかもしれません。そして、将来振り返ったときは、私のように「わからないものだね。今、コーチをしているんだ」と言っているかもしれません。つまり、大きな理想を描くときには、細かい計画をしないほうがいいのです。方法や手段を固定するのも良策とはいえません。結果を思い描き、方法や手段には柔軟性を持たせましょう。(p.295-296 ルー・タイス『アファメーション』)
どうでしょう?
「わからないものだね」以下の言葉が、成功の確信とは程遠いギャンブル的な、博打的に成功をおさめた人のつぶやきに聞こえてしまう、、、、、と。
なるほど。
こちらも、再挑戦の方です!
アメリカ在住です(そもそも日本に住んでいる時間の方がはるかに短いそうです)。
(引用開始)
さて、何日も経ってしまいましたが、ルータイスの課題文の「しかし」の謎に再挑戦させていただきます。
いろいろ考えてみて言えることは、この課題文を難解にしている理由のひとつは「コーチをやっている」という状態が具体的に何を指しているのかが、課題文を読むだけだとわかり難い点だと思います。
さらに、意地悪く「わからないものだね」という呪いの言葉(!)が隠されており、読めば読むほど「わからなく」なります。
「つまり」の後の文から、「あなたの成功も思ったとおりの形では訪れないかもしれません。」というのは、成功実現の方法や手段が結果としてどうなるかはわからないの意であり、また「ルータイスのようにコーチをしている」というのが、大きな理想を実現している状態だということがわかります。
課題文以前の内容から汲み取るのであれば「現状から想定するようなやり方での成功はしないかもしれない→しかし、ルータイスのように現状の外的なゴールは達成出来るかもしれない」、または課題文の内容だけで解釈するのであれば「成功実現の方法や手段は選べない→しかし、大きな理想を実現することは出来る」ということなのではないかと思います。どちらに於いても逆接が成立し「しかし」が適切に使われた事になります。(引用終了)
ルー・タイスはどう考えていたのでしょう(国語の時間の国語教師のような物言いをしてしまったw)。
「わからないものだね。今、コーチをしているんだ」はルー・タイスの勝利宣言なのか、それとも人生の悲哀を噛み締めているのか、成功者としてのモデルになっているのか、円環の理を噛み締めているのか、、、。
いや、これってそもそもルー・タイスが言うのか?
(with me は「私のように」なのか?)
*わけがわからないよ(キュゥべえ)
君たちはいつもそうだね。
事実をありのままに伝えると、決まって同じ反応をする。
わけがわからないよ。
どうして人間はそんなに魂の在り処にこだわるんだい?