この肉体は気の遠くなる様な努力の結晶だ(ジェネレーションアイアン) | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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知的バカは、まずデッドリフトをしない、とタレブは言います。

 

知的バカという社会を率いているエリートたちは、さすがにデッドリフトのような重い物を必死で引っ張り上げるようなバカげたことをしないのです。

 

ですので、僕らはそれを尻目にせっせとデッドリフトをします。

 

 

知的バカは、自分の言動が評判にどう影響するかを常にわかっている。

だが、もっと簡単な見分け方がある。知的バカは、まずデッドリフトをしない。(ナシーム・ニコラス・タレブ『身銭を切れー「リスクを生きる」人だけが知っている人生の本質」)

c.f.私たちの社会は身銭を切らない連中に乗っ取られてしまっているのだ。(ナシーム・ニコラス・タレブ) 2020年05月17日

 

 

ちなみに、たとえばデッドリフトで20kgから30kgを挙げるのがやっとという素人が、140kgをトライしようとしている人にアドバイスをするシチュエーションというのは想像できるでしょうか?

 

それは滑稽以外のなにものでもないはずです。

 

漫画的ですらあります

 

でも、、、、とある業界ではそれが普通だったりします。

 

コンサルティング的な業界では、140kgに挑戦する人に、20kgビルダーがアドバイスしていたりします。

いや、気功の業界でもそうです。

 

実力が可視化しづらいのは、分かりますが、、、それでもって思うことがあります。

 

 

20kgしか上がらないのに、デッドリフトのことは大体わかったという顔をして、「腹圧だ!」「大臀筋だ!」とか「200kgをあげようと考えろ」とか「上がったときのことを想像しろ!」とか、言ってしまったりしている漫画的状況です。風刺漫画としては最高ですが、現実だと考えると、恐ろしいものがあります。

 

(ちなみに、これはあまり言いたくないのですが、、、僕がトレーナー資格を受講する際の講習会の教師陣は皆さんヒョロヒョロでした。

むしろ生徒のほうがマッチョばかりで、ボディビルの大会にも出場したり、すでに優勝してゴールドジムの店長になるという人がいたりで、、、、先生と生徒が逆だろって、おそらく生徒全員が思っていました。

それどころか、一様に、、一様に筋トレ批判者ばかりで、、、

じゃあ、トレーニングを教えるなよって思います。

有酸素が最強と思っている教師陣ばかりでした。

 

面白すぎます)。

 

 

で、そういう20kgリフターが、120kg、140kg、200kgのリフターに指導している状況が続き、そのうちに、「最近、集客に苦労する」とか、「アメブロはもうダメっすよね」とか、「やはりインスタですか」とか、「お客さんのゴールが低すぎる」とか言い出すのです。

 

いやいや、まずはデッドリフトしようよ、と思います。

 

デッドリフトじゃなくても良いのですが、まずは自分の頭と身体を鍛えましょう、と。

 

*ちなみにRayさんは120kgを挙げます。トップサイドですが、普通にトレーニングしている男性でもかなりハードだと思います。

 

 

受講生のお一人がジェネレーションアイアンを見たそうです。

それにいたく感動されて、これまでキワモノ扱いであったボディビルディングが、24時間戦っている究極のスポーツなんだと印象が変わったそうです。

 

嬉しいことです(というか、キワモノ扱いって知りませんでしたけどw)。

 

でもどんなスポーツであれ、芸術であれ、音楽も、24時間戦っていて、それぞれの「究極」を目指しています。

 

食わず嫌いということはありますので、是非、ドキュメンタリーは見て欲しいです(予告編だけでも)。

 

 

 

*「この肉体は気の遠くなるような努力の結晶だ

*ジェネレーションアイアンの2と3がNetflixで観れます!!

*昨日の井脇幸江さんのインスタライブでも、バーミンガムロイヤル・バレエのプリンシパルの厚地康夫さんが、「若い頃に戻りたいとは思わない」ということを話されていました。「あの努力をもう一度繰り返せる気がしない」と。まさにあの美しい肉体は気の遠くなるような努力の結晶なのでしょう。

 

 

1975年のシュワちゃんのパンピング・アイアンも是非!

*パンピングアイアン(Pumping Iron)

 

 

 

BootCamp講習会でも話したのですが、BootCampは学校ではないので(どちらかと言えば職人集団のギルドです)、何か一つにまず卓越することを求めます。

ほとんど全部が下手くそでも、何か一つが異常に上手であれば、デビューできるのです。

 

「逆にすべてがまんべんなく及第点」という官僚やサラリーマンなら喜ばれそうな性質は、むしろFail(落第)なのです。満遍なくとか求めていないですし、そんなことができる能力があれば、、、。

 

 

これはポストコロナセミナーでも言いますが、かつてフォードはこう言ったと言われます。

 

人々に何が欲しいか聞いたら、良い馬車が欲しいと答えただろう」と。

 

スティーブ・ジョブズに言わせれば、「俺は市場調査はしない。あ、するとしたら、鏡の中の自分に向かって、『お前は何が欲しい』と問う」という感じでしょう。

 

御用聞きになってはいけないのです。

 

「提案せよ」と竹花さんは言いますが、「まといのば」では「ずらせ」と言ってきました。

 

どうずらすかと言えば、「プラトンはともかくソクラテスでは」とずらすのです。

 

(これは都市伝説なのでしょうが、某京都大学の哲学科の試験問題で、プラトンについて書けとあったのに、山を張ったのはソクラテス、、、。そこで一計を案じて、「プラトンはともかくソクラテスでは」と回答を書いたという話です。

ただ、これに似た話は実際に聞きます。某私大の大学院の入試試験で、それまでの傾向と全く違う内容の出題があったのですが、同じように「○○はともかく」とはじめて、無事にパスしたそうです)

 

 

たとえば、フォードはこう言いました。

 

「新しいT型フォードはどんな好きな色でも選べます!」と。

 

カラバリ(カラーバリエーション)が豊富だったのでしょうか、、、いやいや

 

「好きな色が黒である限り」(笑)と。

c.f.うまくいったことは異常に反復してみる 2012年09月24日

 

 

 

 

「まといのば」ではゴールをクライアントに聞きますし、要求しますが、そのゴールは素早くずらされます。

 

顧客が出してきたゴールに執着してしまっては終わりなのです。

 

顧客の要望をすべて答えようとしてはアウトなのです(「来た球はすべて打ち返す」のは事実ですが、打ち返すのであって、受け止めるのではないのです)。

 

 

まあ、それはともかくデッドリフトです。

 

ともかく頭と身体を鍛えましょう。

デッドリフトをしている人は分かるように、テクニックや科学的トレーニングや知識というのは大事ですが、、、、大事なのですが、結局は根性であり、努力です。

 

いや、たしかに、、、プリンシプルに従えば、努力も根性もいらないのですが、、、それはWant toでやっているからです。

 

それを傍から見れば、努力や根性に見えるのです(とは言え、やっている本人も猛烈な努力と根性は必要と思っていると思いますが。ただベクトルが違うのです。自分に忠実なのです。『異邦人』のマルソーのように。他人の顔色をうかがっていないだけです)。

 

 

それに関連してですが、いま、プロ倫を読み直していて、まさにその通りだなと感じることが多々あります。

 

平たく言えば、「How to be rich」です。どうやったら豊かになれるのか、について書かれています(草葉の陰のウェバーから棒で殴られそうですが)。逆になぜ「貧乏なのか」も書いてあります。

端的に言えば、信心が足りない、と(笑)

 

 

ウェバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」はいまでこそ評価する人は少ないですが(多分)、しかし重要な視点だと思います。

 

まさに、プロテスタンティズムの倫理が、資本主義の精神を生み出したのです。これは歴史的なもので、システムが動き出したら、プロテスタンティズムの倫理は一方で骨抜きにされます。

しかし同じ鋳型が再生産されます。

 

システムの中で生きていると、私たちはシステムを吸収し、システムの中で考えるようになる(ジェームズ・W・ダグラス)

 

 

 

 

とは言え、とりあえず資本主義で成功したければ、プロテスタンティズムの倫理に戻るのは有効です。

 

「禁欲せよ」が「働け、散財するな」に繋がります。職業とは天職であり、それは神からの召命なのです。ですから、働いて、働いて、働いて、そして豊かになることは神のお眼鏡にかなうことなのです。

 

富の追求が危険視されるのも、他日煩いなく安逸に暮らすためにおこなわるばあいだけで、むしろ、[天職である]職業義務の遂行として道徳上許されているだけでなく、まさに命令されているのだ。主人から預けられた貨幣を働かせて利殖することをせず、そのために追われた下僕の譬話は、このことと端的に示すものと考えられた。貧しいことを願うのは、しばしば論じられているように、病気になることを願うのと同じで、行為主義として排斥すべきことだし、神の栄光を害うものだとされた。それのみでなく、労働能力のある者が乞食をするのは、怠惰として罪悪であるばかりか、使徒の語に照らしても、隣人愛に反することがらだった。

 

主人から預けられた貨幣を働かせて利殖することをせず、そのために追われた下僕の譬話」とはよく引用するイエスの譬話ですね。

利殖に失敗したものを罰し、成功したものを褒めるという主人(神)の話です。

 

おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。マタイ25:29

(主人が旅に出るときに、従僕にそれぞれいくばくかずつお金を渡すというあの話です)。

 

 

このときに猛烈に働くことを、働かない人から見て、「猛烈な努力だ」、とか「猛烈な根性だ」と考えます。

 

もしくは、裏に何かあるに違いないと考えます。

 

それが金儲けであったり、社会的成功であったり、自分にわかりやすい説明に引き寄せて考えます。

でも、それは違うのです(信仰です)。

 

 

ある種の狂気をまとい、一心不乱にそれを何年も継続していくのはある種の宗教的信念であり、使命感です。

 

そこが見えないからこそ、言葉が通じ合えないのではないかと思います。

 

 

実は、医学も薬学も、このプロテスタンティズムの倫理から始まる資本主義の精神、その資本主義を彩る機械化、工業化の中で成功したのです。

 

ですから、国民皆保険制度で一律、一様な診療で、大量生産大量消費のドラッグなのです。

 

同じ服で良いし、同じものを食べ、同じ薬を飲めば良く、全国一律の診療で良いのです。

 

(ここに「自己疎外」なる哲学の亡霊が立ち上がりますね)

 

今日では生産の「規格化」(standardization)という資本主義の要求に形影相伴っている、あの生活様式の画一化という強力な傾向は、もともと「被造物神化」の拒否をその観念的基礎としていたのだった。

 

規格化、画一化、そして工場製品化というのは、プロテスタンティズムの倫理から来ていたということです。それは禁欲に彩られ、享楽を封じるために。

 

大量生産大量消費という現代文明が曲がり角に来たように、薬の大量消費・大量消費も曲がり角に来ているのです。

 

 

これについてもコリン・キャンベルは面白いことを言っています。

 

処方薬の副作用こそが、主な死因の第3位となっている

 

と。

 

 

それよりも上位にあるのは、わずかに心臓疾患とがんのみだと。

そもそも、処方薬が原因で亡くなる人のほうが、交通事故で亡くなる人よりも多い、と。

 

ちなみに、医療ミスとかオーバードーズとかではありません(それはそれでまた別の統計があります)。

 

 

 

 

 

 

というわけで、いろいろと書いてきましたが、とりあえずポストコロナセミナーの前提知識、そして今週末のスクールの前提知識です!

ここを前提にスタートします!(もちろんその場で解説もします)。

ともかく時間が無いので、バイキングのようにアイディアだけを並べていきます!

 

 

セミナーもスクールもお楽しみに!!

 

そしてデッドリフトをしましょう!!(懸垂でも)