大転子(だいてんし)というとミカエルとかルシファーを思い出すかもしれませんが、それは大天使です。
ピエタやダヴィデ像で有名なミケランジェロの名前もまた大天使ミカエルです。アンジェロとはAngelですね。
アンヘル・コレーラのアンヘルもまた天使です。
*グイド・レーニによる「大天使ミカエル」
まあ大天使ではなく、大転子ですが、いろいろと面白いです。大転子は本当は大天使なのではと思うほど面白いです。
探すことができて、よく触ることができて、かなり意識に上るようになってきたら次のステップへ行きましょう!
意識に上るというのは、肘や膝なみに意識に上るということです(*^^*)
そしたら大転子を動かしてみましょう。
大転子を前後に動かします。
特に後ろに動かしてみましょう。
もちろん触るだけでもいろいろとありがたい面白いことが起こるのですが、やはり一番は大転子を後ろに回すことです!
バレエを考えてみると、思いっきり使えます。
たとえば5番ポジションでつま先立ちするとき(5番シュスですね)、大転子を意識的に後ろに回そうとすると、驚くほど安定します。
*いや、これはシュスじゃなくて、思い余って飛んでいます!
なんというか絞り上げる感じになります。
絞り上げると言えば、我らがカイグリーンがバイセップス(上腕二頭筋)のトレーニングのときに、その言葉を使っていました。Squeezeですね。
「バイセップスのときはストレッチ(ネガティブコンストラクション)が大事なんだ~」と強調していたのですが、そのときに、Squeeze&Stretchと言ってました。
のちに、Contraction&stretchと言い換えていたので、Squeezeはコンストラクション(屈曲)の意味で使っているのはわかるのですが、たしかに筋肉を収縮させるって、彼らからするとSqueezeする感触なんだろうなーと思いました。
で、そのSqueezeする感じになります。
大転子を後ろに持っていこうとすると、ある種のスイッチがカチッと入り、Squeezeされます。
このある種のスイッチはとても大事です。
なんというか抽象的に言えば、クンダリーニのスイッチがオンになります。
引き上げのスイッチであったり、身体の高度化のスイッチです。
これは全身の至る所にひっそりと隠れているのですが、大転子もまた後ろに持っていくことでスイッチが入ります。
強烈なのは会陰です。会陰を引き上げる感じにするのがスイッチですし、また面白いのは湧泉です。湧泉を地上から少しだけ引き剥がそうとすると面白い具合にスイッチが入ります。
スイッチが入るとどうなるかと言えば、明確な反応は重心の移動です。
後ろに少しだけ重心が移動します。
そして、ウエストが締まり、バストアップし、背筋が伸びます。
呼吸が深くなり、地に足がつき、心が落ち着き、頭が回り始めます。
そういうスイッチがいくつもあるので、できればそのスイッチを入れるようにすると、身体も心も変わります。生産性も抽象度も変わってきます。
*レベルアップ!!
というか、まあITだとか、AIだとか、文明化だとかいっても、結局僕らは古代ギリシャ以来、2500年近く変わりません。
何が変わらないかと言えば、いまだにこの肉体に囚われているということです。
肉体という牢獄に閉じ込められている以上は、その牢獄自体を快適にするのが最良の方法です。
牢獄自体が無いことにするという方法もあるかもしれませんが、実際にどこまでもつきまといます。
死ぬまでつきまといます(この先はわかりません。鉄郎のように銀河鉄道999に乗って機械の体を求めに行くのかもしれません)。
であれば、うまくマネージメントすることで、身体という牢獄をマネージメントによってパラダイスにすれば良いのです(そもそもパラダイスというのは、囲われた空間のことです)。
* "Truly I say to you, today you shall be with Me in Paradise.”
イエス・キリストが十字架にかけられたとき、両隣には罪人がいました。三人で並んで磔でした。
片方はイエスを嘲るのですが、もう片方はイエスを讃えて言います。
「しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」と、それに大喜びしたイエスはこう言います。「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」( ー`дー´)キリッ
(ルカ23:43)
*死刑執行直前にあっても、パラダイスにいることはできるのです。
でもこんな反論があるかもしれません。
「いやいや、大周天とかクンダリーニとか丹田とかチャクラって、別に身体のことや解剖学を知らなくてもできますよね」という反論です。
もちろんそうなのです。
そうなのですが、、、、
ちょっと余談ですが、「イエスや空海とどうやったら会えますか?」という質問をされることが良くあります。
もうちょっと噛み砕いた質問というか、本音だと「なぜ情報空間にいる存在に会うために、物理的な場所が必要なのですか」という問いとなります。
これは気持ちは分からないではないのですが、ちょっと奇妙な質問です。
情報空間にいる存在に会うためには、情報空間を移動しなくてはいけません。
その情報空間の移動が物理空間の移動であっても(写像であっても)別に問題がないように思います
とは言え、質問者さんの気持ちは分かります。
瞑想と抽象度だけで、「イエスや空海と会えるのではないだろうか?」ということでしょう。
わざわざその場所へ行かなくても想念だけで移動できますよね、ということでしょうか。
でも、これはシンプルな話で、それでは会えません。
厳密には一度でも、ある特定の場所で会えたなら、その後はどこにいてもいつでも会うことができます(LINEのID交換みたいなものですね)。しかし、ファーストコンタクトは物理的な場である必要があるのです。
*ファーストコンタクトと言えば、映画「メッセージ」
この感覚はたとえばこんな感じです。
断捨離にがんばっていたら、ふと古い写真アルバムを見つけた瞬間、昔の日記を見つけた瞬間などです。
あまりの懐かしさに吸い込まれるようにアルバムや日記を開いてしまい、そこから数時間タイムスリップしてしまいます。いや、数時間で終わらず、心ここにあらずになるかもしれません。
たしかに記憶のフォルダーの中にはあったけれど、写真を見て、日記を見て、リアルに蘇る風景というのがあります。忘れていた記憶が芋づる式に引き出されるのです。
押入れの奥深くに敷き詰めてあった古新聞を引っ越しの際に見つけて、読みふけったり、子供の頃のドリルが懐かしくなったりする経験は誰でもあると思います。
すると突然、想い出が私に立ちあらわれた。その味覚は、マドレーヌの小さなかけらの味で、(略)叔母はそのマドレーヌを紅茶やシナノキの花のハーブティーに浸して私に出してくれたのである。(略)
いまや私たちの庭やスワン氏の庭園のありとあらゆる花が、ヴィヴォンヌ川にうかぶ睡蓮が、村の善良な人たちとそのささやなか住まいが、教会が、コンブレー全体とその近郊が、すべて堅固な形をそなえ、町も庭も、私のティーカップからあらわれ出たのである。(pp.115-117 プルースト作 吉川義一訳『失われた時を求めて1スワン家のほうへⅠ』)
あまりにも有名なプルーストの「失われた時を求めて」の冒頭の一節です。
庭園のありとあらゆる花も、睡蓮も村人たちも、住まいも、教会も、街全体が、なんとティーカップからあらわれ出たとあります。
そう、ティーカップからです。
アラジンの魔法のランプも真っ青です。
(魔神がランプの中に閉じ込められていました)
コンブレーの街全体が人々も建物もティーカップに閉じ込められていたのです。
古新聞やアルバムや古い日記と出会って、思い出す記憶というのは、頭の中にあったもので、いつでも引き出せたものなのでしょうか?
それともその日、実家に戻らなかったら、そして実家でふと出会わなかったら思い出されなかったものでしょうか?
ポイントはシンプルです。
その場所とそのモノがなければ、引き出されることがない(正確には生み出されることがない)記憶だったのです。
イエスと出会う、空海と出会うといったときも、特定の場所、その時間、その人でなければダメなのです。
ケルトの信仰にこんなものがあります。
亡くなった人の魂は消えるわけではない。
でも、我々の前から消えてしまっている。
実は、その魂は動物や植物や無生物の中に閉じ込められている、というものです。
まあ、王子様が悪い魔法で蛙にされるようなものですね。
ビースト(野獣)にされるくらいはまだマシなほうです。
蛙にされたら、王女は片っ端から、蛙にキスしなくてはいけないのですから。
*美女と野獣。エマ・ワトソン可愛すぎますね〜
*主題歌をアリアナ・グランデが歌っています!
まあ、それはともかく、、、、ケルト神話に戻ります!
ある日、故人の魂が眠る木そのそばを通りかかります。
そして、ふと何かを感じ、その木なりなんなりに触ります。すると、魂を閉じ込めている封印が解けます!
王子様のキスでお姫様が100年の眠りから覚めるようなものです。
すると、その魂は身震いし、我々を呼びます。魔法が解けた瞬間です。
魂は生き返り、再び我々と共に生きる、というのがケルトの信仰です。
美しい信仰です。
我々はこのような信仰を無邪気だと笑いますが、僕はここに真実があると思うほうが良い気がします。
我々はそのスモールバージョンとして、古いアルバムや古い日記を読み返します。
いや、それが卒業写真でもいいのです(*^^*)
たとえば、ニュートンの魔術師として、錬金術師としての魂を解放したのはケインズでした。
それまでは近代科学の祖として、真のニュートンの姿(魂)は封印されていました。
ケインズは深く沈思黙考して、シュメールの生き残りとしての最後の魔術師ニュートンに出会ったわけではありません。
ニュートンの遺族がひた隠しにしていた遺品がオークションに出たのを、競り落とし、研究した中で出逢ったのです。その物理的なモノが必要であり、ケンブリッジという場も必須なのです。
何が言いたいかと言えば、物理空間も情報空間であり、特に我々が情報空間の階層を上がろうとしたときは、いつも物理空間こそが重要なポイントになるのです。
(ちなみに「まといのば」では、そのような場をあえて「鬼門」と呼んでいます)
そして身体においても、たとえば大転子は重要な物理場なのです。
大転子から上がる抽象度の階層性は明確にあり、骨盤から上がる抽象度の階層性もあります。
そして、大転子や骨盤や胸骨を触って再認識しない限りは、それは意識が見た情報空間には存在してないのと同じなのです。
身体に触ること、それも正確に戦略的に、そして楽しんで触ることは、身体のレベルアップ、身体操作のレベルアップのみならず、抽象度の階層も上がることになります!!
さあ、大転子を触りましょう!!
【参照書籍】
失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI (岩波文庫)/岩波書店
¥価格不明
Amazon.co.jp
本稿のマドレーヌの下りも、もちろんそうですが、ケルト信仰の話もプルーストからのパクリです!
私はケルトの信仰が実に理に敵っていると思う。それによると、亡くなった人の魂は、動物とか植物とか無生物とか、なんらかの下等な存在のなかに囚われの身になり、われわれには事実上、失われている。ところが多くの人にはけっしてめぐって来ないのだが、ある日、木のそばを通りかかったりして、魂を閉じ込めている事物に触れると、魂は身震いし、われわれを呼ぶ。そしてそれとわかるやいなや、魔法が解ける。かくしてわれわれが解放した魂は、死を乗り越え、再度われわれとともに生きるというのだ。
われわれの過去もそれと同じである。(同p.110)