「きみが神の友ならば、炎は水である」「人はすべて火で塩づけられねばならない」 | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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四ツ谷にありますバレリーナ専門の気功整体「まといのば」のブログです。
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一見すると二項対立かに見える二つの概念が実はコインの表と裏であったということはよくあることです。たとえば情報と物理、たとえば真空と物理的実在(超弦理論では単に情報状態の違いでしかありません)、そして顕教と密教です。

一般的には、顕教とは表の教えであり、広く公開された教えで、密教とは限られた人にだけ(選ばれし者だけ)に教えられる世界の秘密です。

たとえばビジネスでもそうですが、非常に重要で素晴らしい情報はインナー・サークルで共有されます。貧者の税金として大々的に公開されるのは宝くじです(もしくはパチンコ、競輪競馬競艇も広い意味で貧者の税金でしょう。アングラマネーの税金はカジノでしょうw)(カジノはもちろん黒いお金の洗濯にも使われますが)。

密教とは文字通り秘密の教えなのでしょうか?


*頭が松果体にしか見えない空海さま


空海は最澄にあてた手紙でこう書いています。

顕教一乗ハ、公ニ非ザレバ伝ワラズ   
秘密仏蔵ハ、唯我ガ誓フ所ナリ


最澄がいそいそと天台山からコピーしてきた天台宗のことをここでは「顕教」と明確に言い、自身の胎蔵界、金剛界の密教を「秘密仏蔵」と呼んでいます。

顕教はあなたでなければ、中国から日本へと伝わらず、秘密仏蔵である密教は私空海が中国から(はたまたインドから)日本へもたらそうと誓ったものです、というような意味でしょう。

ですので、秘密の教えと考えても良さそうです。
実際に公開されていない秘密の教えというのはたくさんあります。
「まといのば」でも同様です。秘密の教えはたくさんあります。

しかしそれは隠しているのではありません。隠していて隠せるものなどありません。

スクールの「光と闇」でもテーマでしたが、隠しても隠せないものを隠す最適な場所はどこでしょう。
子供の頃にこんな話を聞かされてたことはないでしょうか?
かつてブラフマン(梵天様ですね)という神様は人間から「真理」を隠そうとしました。
しかし高い山の上に隠しても、人間はいつか見つけてしまい、井戸の奥深くに隠しても、人間はいつか見つけてしまい、砂漠の真ん中に隠しても、いつか人間は見つけてしまう。
困ってしまったブラフマンは最適な場所を見つけました!
それが人の脳の中です。

(で、三年寝太郎はその脳の中を丹念に3年間探して、回答を得るのです)

理趣釈教を貸して欲しいと願う最澄に対して、空海はこう書いています。

モシ心ノ理趣ヲ覓(もと)ムレバ、汝ガ心ノ中ニ有リ。別人ノ心ノ中ニ覓(もと)ムルヲ用イザレ。

心の理趣を求めるのであれば、自分の心の中にあるから、そこを探せ。他人の心の中を探すな、という意味のことでしょうか。

まさにこのブラフマンの隠し場所を知っていた空海らしい切り返しです。

そしてこのことはイエスももちろん知っています。

耳のある者は聞くがよい(11:15、13:9)と繰り返し語ります。

もちろん「耳のある」とは器質的なものではなく、情報的なものです。正確にはマインドの問題ということです。

すなわち、「それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。」

「見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らない」のです。

卑近な例で言えば、その人にとって適切なアドバイスをしても、聞き流されたり、あっさり反論にもならない反論をされることがヒーラーにも教師にもよくあります。そのときは、嘆くことなく(嘆きたくなる気持ちは分かりますがw)、「見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らない」とつぶやけば良いことです。

より具体的には、

こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。

『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
見るには見るが、決して認めない。

この民の心は鈍くなり、
その耳は聞えにくく、
その目は閉じている。
それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。

しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。



あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
見るには見るが、決して認めない。


とはまた痛烈です。

そしてそのとおりです。

これを盲点と考え、スコトーマの原理とも言います。

素晴らしいアドバイスがあるから、成功するのではなく、素晴らしいアドバイスを受け入れるマインドがあるから、素晴らしいアドバイスがもたらされ、成功します。

イエスは十二使徒といういわばインナー・サークルのメンバーに対して、Esoteric(秘教的)な話をいくつもします(彼らがそれに見合っているかはともかくとして。ユダの福音書によれば、見合っている弟子はユダのみです)。

種まきの譬えで群衆に語ったあとに弟子たちがイエスに質問します。

それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。

そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。

おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。

だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。


なぜ譬えで話すのかという弟子たちの質問に対して、あなたがた弟子は天国の奥義を知ることが許されており、彼らには許されていないという線引がなされます。

その上で有名なマタイ効果が語られます(モテる者はますますモテ、非モテは永遠に...)。

天国の奥義を知ることが許されていないからこそ、譬えで語ると言いますが、その許可を出しているのは神でもイエスでもなく、彼ら自身です。
なぜなら「それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないから」です。

ですので、先の部分に対応するルカ福音書では「聞く耳のある者は聞くがよい」と言われたのです(ルカ8:8)(「対応する」って何?という人もいるかもしれませんが、マルコ・マタイ・ルカは共観福音書と言います。共観福音書というのは、似ている福音書ということです。似ているというか、コピペ福音書ということです。で、どこがどうコピペされているかを観るのが対観表です。オリジナルをQ資料と言います。これがトマス福音書だとか何だとか言われています。トマス福音書は面白いですが、現在の正統な福音書のほうが残るに足る理由があると思います。トマス福音書はムラがあるように僕は感じます)。


聞くものと聞かぬものの違いはどこかと言えば、結論から言えば「汝ガ心ノ中」を探すか否かだと思います。

ちなみにイエスはヒーラーであり、ヒーラーとして弟子に伝授もしています。
そのときの有名な言葉がこれです。

何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられる」(10:19)

もちろんこれは「長官たちや王たちの前に引き出される」ときのことですが、ヒーリングの際も同じかと思います。なぜ授けられるかと言えば、「語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。」からです。

イエスがヒーラーだと言うと、本当ですか?という人も多く(あれだけ癒やしの奇跡を起こしているのにもかかわらずw)、イエスが伝授をしているというと聖書外典ですか?という人も多いので、引用しておきます。

そこで、イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった。マタイ10:1

権威を授けたのです。そしてそれに続く章句が「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。」(マタイ10:16)です。

イエスが悪魔を追い出したときに、悪魔を追い出せるということは悪魔のボスに違いないという奇妙な論理を持ち出すパリサイ人がいました。何時の世でも不思議なロジックをひねりだす人はいます。

しかし、パリサイ人たちは、これを聞いて言った、「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」。

イエスは彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない。

もしサタンがサタンを追い出すならば、それは内わで分れ争うことになる。それでは、その国はどうして立ち行けよう。

もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。

しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。(12:25-28)


どの時代にも奇妙な人がいます。命を助けてもらっておいて、そのヒーラーを魔女だと告発するようなものです。

イエスが「人々に注意しなさい。」(10:17)と言うのは正しいと言わざるを得ません。


というか、顕密の話を開始すると、どんどん深みにはまります。

重要なことなのですが、言葉で語るには言葉は不自由です。


今回、持ってきた材料だけ示して、またの機会に解説します。


光と闇の気功整体ではおなじみのスーフィーのルーミーのイスラム神秘思想の詩を紹介しました。何がおなじみかと言えば、スーフィーもルーミーもおなじみでしょうが、この詩も繰り返し目にしているでしょうから、おなじみでしょう。



きみが神の友ならば、炎は水である。
何百枚という蛾の羽を欲したまえ、
それらを、一晩に一組ずつ、燃やしてしまえるように。
蛾は光に向い、炎の中へと飛び込む、
きみも炎を目指して、光に向いたまえ。

炎は、神が世界を焼きつくすためにあり、
水は世界を守るためにある。

いつのまにか、それら二つは互いに相手の姿を与えられた。
きみが持つ目には。

水の姿を持つものは燃え、炎の姿を持つものの
内部は大いなる救いである。



そして、バガヴァッド・ギーターのこれまたおなじみの一節です。

集められた魂は目覚める
霊(アートマン)の知識の中に
それは無知の者には暗夜である。
無知の者は自らの感覚的な生命の中に目覚める
それを彼らは日光だと思う。
だが見者にとってそれは暗黒である。

(バガヴァッド・ギーター2章69節)


この意味をなんとなく理解すると、ヘーゲルの言う「どんな好き勝手なことでも想像できる柔軟で軟弱な境域」に存在することになります。

大切なのは「なんと書いてあるか。あなたはどう読むか」(ルカ10:25 イエス「サマリア人のたとえ」)です。
そして順番としては、「なんと書いてあるか」が最初です。

その点を徹底的にやると「咒(しゅ)」なり魔術なり密教の世界が見えてくると「まといのば」では考えます。


上記の光と闇とはゾロアスターでもグノーシスでも出てきますし、ウロボロスのヘビのようでもあり、メビウスの輪のようでもあります。

イエスもパラドックスに満ちた言説をいくつも語っています(たとえば顕教中の顕教と言える親鸞も「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや(親鸞「歎異抄」)」というとびっきりのパラドックスを用意しています(ここから分かるのは明確な顕密不二でしょう。顕教と密教はコインの裏表ではなく、いやコインの裏表なのですが、そのコインはメビウスの輪であり、裏は表になり、表は裏になるのです)。


そして、イエスもまたルーミーやバガヴァッド・ギーターに通じるこんな言葉を語っています。


人はすべて火で塩づけられねばならない。

塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。


この文章だけであれば、何のことはありません。

しかし、この「火」とは何かを考えると、意味がガラッと変わります。

この引用の前段は「地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。」です。ギリシャ悲劇のコーラスのように繰り返されています。
すなわち火は地獄を象徴しているのです。

マルコ9章43節から引用します。

もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、かたわになって命に入る方がよい。〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕

もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい。〔地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。〕

もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。

地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。

人はすべて火で塩づけられねばならない。

塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。



そこだけ引用すると、問題ない文章も、文脈の中で理解するとパラドックスを引き起こします。
(一応、確認ですが、文脈を無視して抜き出すこと自体が大問題です。そもそも、文脈の中にしか意味はないからです。しかし私たちはしばしばそうしてしまいます。では文脈とは何かを考えれば、もちろん前後は読まなくてはいけないでしょうし、マルコ福音書ならマルコ福音書をすべて読まないと文脈は浮かび上がりません。そしてほかの共観福音書もヨハネ福音書も使徒行伝もパウロの手紙もすべて読み、そして旧約も読んでようやく文脈が浮かび上がってきます。いや、むしろもっと分からなくなるかもしれません。我々は一文だけ引用を見て分かった気がする顕教のクセをそろそろやめる時期が来ています)。

繰り返します。

人はすべて火で塩づけられねばならない。

塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」


というだけの引用であれば、問題はないのです。

しかし、その火が地獄の火だとしたらどうでしょう。
火で塩漬けるのであり、塩は良いものなのです。そして「あなたがた自身の内に塩を持ちなさい」とあります。

地獄を内に持てということでしょうか?

イエスが稀に優しい言葉をかけるシーンがあります。

重荷を負うて苦労しているものは来なさい、休ませてあげよう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いと言っているシーンです。マリア様のようなイエスですw


すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。

わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
(11:28-30)


しかし、この地獄の火による塩漬けを経たあとだと、文字通りに言葉通りにイエスの甘言を理解することはできません。むしろ誰かが重い荷物を持っていたら、イエスはもっともっと重いバーベルを持たせて、基礎体力をつけさせることで、それまでの重荷を軽くするのではないかと邪推してしまいます。地獄めぐりをすれば、現実世界の苦悩など小さなことに思えます。



僕自身はこのイエスの言葉は岡 真史くんのこの詩を思い出します。

『ぼくの心』

からしをぬったよ

体に

そうしたら

ふつうになったんだ

よっぽど

あまかったネ

ぼくの心って


この詩に出会ったのは小学生のころ。


本の表紙に

ひとり
ただ
くずれさるのをまつだけ…


とあり、タイトルは「ぼくは12歳」。
彼は12歳で投身自殺。

透明感ある詩は当時の同級生たちにも共感を呼んでいました。

いま読み返してみて、からしを塗ったのが「ぼくの心」ではなく「体に」であるところにいまさらながら衝撃を受けます。


閑話休題


誤読から始まるとは言え、このようなパラドックスの引き起こし方は面白いと言えます。

たとえばパラドックスとは、いわゆる短文の自己言及型(「私は嘘つきである」)、そして複文というか二文での自己言及型(1.次の文章は正しい。2.前の文章は間違っている)、そしてより複雑な形があります。

一文だけだと一匹のウロボロスのヘビ、二文型は二匹のヘビがお互いの尾を噛んでいるようです。

もうちょっと複雑になるとこんな感じです。

(引用開始)
(1)ウォーターゲート事件に関してニクソンが言ったことの半分以上は偽である。
(2)ウォーターゲート事件に関してジョーンズが言ったあらゆることは真である。

(1)を言ったのはジョーンズであった。そしてそれがジョーンズがウォーターゲート事件に関してなした唯一の発言だった。
一方、(2)を言ったのはニクソンであった。そして、この発言以外にウォーターゲート事件に関してニクソンが言ったことはちょうど真・偽が半分ずつであった。

(引用終了)(pp.90-91 「論理学をつくる」)

ちょっとパラドックスの意味が分からない、、、という方は解説を読んでください。
2年前の記事ですね。

そしてこのパラドックスを解きほぐす感覚こそが密教的なIQ(MiQと呼んでいます)です。

それがイエスの言う「なんと書いてあるか。あなたはどう読むか」(ルカ10:25)です。
この能力だけが人間に必須です。

我々は明らかに人工知能と共に生きる時代に入っています。人工知能と競争して、狂騒しているようでは、ただの暇つぶしにもなりません(盛り上がらないラッダイト運動でしかありません)。
今西進化論ではないですが、求められているのはいつも棲み分けです。我々にとっては嫌な仕事や作業をすべて引き受けてくれる気の良い隣人が生れたのですから、歓迎しましょう。

そして我々は自身の内に塩を持ち、互に和らぎましょう!!



*天使の翼で羽ばたきましょう!!!(サモトラケのニケ。たしかに古代ギリシャの完成度は素晴らしい)

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