「♪歌を忘れたカナリアは♪」〜ニーチェの隣人愛理解とリア王の叫び〜 | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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いかに潤沢に自分に与えることができるかが、おそらくは今後の大きな課題です。自分にどれだけ与えるかです。

Give&Take や Give&Giveなどと言いますが、与えるのは他者に対してではなく、まず自分に対してです(というか、道行く人から突然、「僕のサービスを無料でいいので受け取ってください」って言われても怖くて仕方ありません。無料だからとか。安価だからいいわけではないですし、気持があれば良いわけでもありません。「まず他人に与えよ」というのは間違っていはいませんが、そして僕自身も「社会に機能を与えることを優先に」とは言いますが、しかし安易にすぎるのはアウトです)。

まず自分に潤沢に与え、そこから余ったものを他人へ与えるというイメージです。あふれてきてしまったものを他人に与えるのです。
他人に与えるというのは、社会に役割を果たすということと同じ意味です。金銭やモノを安易に渡すことが解決になる場合は少なく(むしろ奪い尽くしたほうが良い場合もあります)、それよりはファンクション(機能)を渡すことです。

奪い尽くすと言えば、寺子屋「ニーチェ」で扱ったリア王の一節を思い出します。
ここでは文字通りネガティブな意味です。

長女と次女はリア王からすべてを奪い尽くします。
親の介護にかかる経費を削減をしたい娘たちと、王につきそう従者の数でもめたときにリア王は正しくもこう言います。

O, reason not the need: our basest beggars
Are in the poorest thing superfluous:
Allow not nature more than nature needs,
Man's life's as cheap as beast's:
(おお、必要なものを理屈で決めるな、卑しい乞食でさえ
貧しくともなにがしか余分なものを持っている。
もし人が必要以上のものを許されなかったら、
人は獣と変わらぬ)


そして何が余分か、何が余計かは傍から見ただけでは、判断はできないものです。

リア王は愚かな王です。口先だけの愛を語る長女と次女にすべての財産を分け、財産を分けたあとに手の平を返されます。

上のセリフに続く以下のセリフが印象的です。

(引用開始)
わしはおまえたちに復讐する、
全世界が・・・わしはやるぞ・・・
それが何であれ、わしにもまだ分からぬが、
全世界が恐怖におののくだろう。

I will have such revenges on you both,
That all the world shall--I will do such things,--
What they are, yet I know not: but they shall be
The terrors of the earth.

(引用終了)

”What they are, yet I know not: but they shall be
The terrors of the earth. ”

というこの叫びこそ、ニーチェの思想の核心であるとバートランド・ラッセルはシンプルにまとめています。


この点は寺子屋「ニーチェ」でもきちんと言及しますが、少しラッセルから引用したいと思います!

(引用開始)
 ニーチェはキリスト者のいう愛を、恐怖の結果だと考えた故に断罪した。隣人が自分に危害を加えはしないかと恐れ、そのことから隣人に、わたしはあなたを愛しますと確言するのだ、というのである。もし自分がより強くおり大胆であるのなら、いうまでもなく自分の感じる隣人への軽べつを、公然と示すべきだという。人間が正真正銘に普遍的な愛を感じる、ということがニーチェには可能だと思えないのであり、明らかにそれは、彼自身がほとんど普遍的な憎しみと恐れとを感じたからである。その憎しみや恐れに、彼は殿様然たる無関心の装おいをかぶせざるを得なかったのだ。彼のいう「高貴なる」人間ーーーとは白昼夢における彼自身なのだがーーーは、まったく同情心を欠き、仮借なく狡猾で残忍な存在であり、自分自身の権力だけに関心を寄せるのである。まさに発狂せんとしていたリヤ王は、次のようにいう。

  いったい何のことや、自分にも
  まだわからぬことを余はやるつもりだーー
  しかしそれをは、地上の恐怖としてみせる。

 これがニーチェ哲学の要約なのだ。
 彼はみずからの超人に権力欲を賦与したが、権力欲そのものが恐怖の結果である、といったことは一度も彼に思い浮かばなかった。

(引用終了)(ラッセル「西洋哲学史3」pp.759-760)

ニーチェは「普遍的な愛」に対して可能だとは思えず、逆に「普遍的な憎しみと恐れ」には確信を持っていました。この点からニーチェを理解しなおしてみると、驚くほど彼の議論が整合的に見えてきます。

ニーチェは「この人を見よ」でこう書いています。

(引用開始)
わたしの多くの経験から、わたしは、いわゆる「無私の」衝動、すなわち助言と助力を惜まぬ一切の「隣人愛」に関して、おしなべて不信の念をもつ充分の理由をもっている。隣人愛とは、わたしの見るところでは、元来が弱さであり、刺戟に対する抵抗不能症の一つのケースであるーーー同情は、デカダン者流のあいだでだけ美徳と呼ばれるのだ。わたしが同情心の持ち主たちを非難するのは、彼らが恥じらいの気持、畏敬の念、自他の間に存する距離を忘れぬ心づかいというものを、とかく失いがちであり、同情がたちまち賤民のにおいを放って、不作法と見分けがつかなくなるからだ。ーーーつまり、同情の手が一個の偉大な運命、痛手にうめいている孤独、重い罪責をになっているという特権の中へ差しでがましくさしのべられると、かえってそれらのものを破壊してしまいかねないからだ。同情の克服ということを、わたしは高貴な徳の一つに数えている。(引用終了)pp.29-30

この同情の克服という点にツァラトゥストラの唐突なそして凡庸なラストシーンが思い起こされますが、実際にニーチェもこの直後にそのシーンについて言及しています。

今回はツァラトゥストラを岩波から引用してみます。

(引用開始)
「いままで残されていたわたしの最後の罪とは、何だろう?」(略)
「同情だ。『ましな人間』たちへの同情だ!」と、かれは叫んだ。
(引用終了)(ツァラトゥストラはこう言った」岩波文庫下巻p.333)

ニーチェが言いたいことは分かりますし、かなり肯定できるのですが、一つ問題があるとしたら、隣人愛に対する誤解です。少なくとも「それは隣人愛ではない」と我々は直観してしまいます。ただラッセルの言うとおりそれは論理ではなく、感覚であり、理性的というよりは、社会的情動的なもの(前頭前野内側部ではなく、外側部的ということ)かもしれません。



まあ、ニーチェはさておき「歌を忘れたカナリヤ」です。

ホトトギスについては浅薄な次のような戯れ歌があります。

なかぬなら殺してしまへ時鳥
鳴かずともなかして見せふ杜鵑
なかぬなら鳴まで待よ郭公


時鳥も杜鵑も郭公もホトトギスです(この文章を音読みすると「ほととぎすもほととぎすもほととぎすもほととぎすです」になりますw)。

それぞれ織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の気性というか性格というか政治的信念を表していると言われます。いずれにせよ他力本願というか、問題の解決にはつながらない立場です。
殺してしまえば鳴くことを期待できませんし、鳴かしてみせようではHowが示されていません。鳴くまで待とうは確率論です。他力本願というか、待っていれば確率論的には鳴く可能性は上がります。


「歌を忘れたカナリヤは」という有名な唄があります。
蘇州夜曲などで有名な西條八十の童謡です(蘇州夜曲は李香蘭の唄声で
(八十と書いて「やそ」と呼びます。80ではなく、8と10です。9(苦)が無いということです。西條八十は揮毫を頼まれるとこのカナリヤの最後の一節を書いたそうです)

(引用開始)
 歌を忘れた カナリアは
 後ろの山に 棄てましょか
 いえいえ それはなりませぬ

 歌を忘れた カナリアは
 背戸の小薮に 埋けましょか
 いえいえ それはなりませぬ

 歌を忘れた カナリアは
 柳の鞭で ぶちましょか
 いえいえ それはかわいそう

 歌を忘れた カナリアは
 象牙の舟に 銀のかい
 月夜の海に 浮かべれば  
 忘れた歌を 思い出す 

(引用終了)
(歌は初音ミクのこちらを参照してください)


象牙の船に浮かべるのです。

踊れなくなったダンサーは、象牙の舟に、銀の櫂で、月夜の海に浮かべましょう(^^)
(銀の櫂ではすぐにさびてしまって仕方ないのはないかと、かつて銀食器を磨く仕事をしていたことがある身としては心配しますw)

自分に対して潤沢にエネルギーを注ぐことです。

我々はもっと自分を甘やかすべきです。

いやいやもちろん物理的には十分に甘やかされていますが、情報的には枯渇しているのです。情報という意味で、ふんだんに潤沢に資源を与えて甘やかすことです。
(この物理と情報という二項対立を、肉体と精神と言い換えても悪くはないのですが、少し論点がぼけるように思います。肉体と精神という二項対立では見えなくなる点が多くなります)

我々には栄養たっぷりの情報が足りないのです。
ジャンクフードが栄養にならないように、ノイズも栄養になりません。コマ切れにされて、情動だけをわずかに発火させるようなビット数の小さなノイズは、ジャンクフードというよりは、むしろ海水のようなものです。喉を潤おそうと、飲めば飲むほど喉が渇きます。

いや確かに学問もそう見えるところがあります。知れば知るほど、無知の闇が深くなります。しかし、海水と学問は異なります。海水は栄養にはなりません。学問は確実に身になります。
真理の大海の前で小さな貝殻を拾っただけということに気付き、大海を前に絶望しても、美しい貝殻に宇宙を見ることはできます。宇宙の神秘の一端を感じることはできます。

着実に栄養になるものを摂り続けないと、精神は渇いてきます。そしてそれが普通になると慢性的な栄養失調となります。その空腹を情報のジャンクフードで満たし、見た目は充実していても、その内実は骨も内臓もボロボロの情報的な身体となります。

ちなみに、ゴールをきちんと設定することは、豪勢なご馳走と同じです。気功のワークなどで、気を身体に満たすのはアペリティフ(食前酒)のようなものです。

気功の世界では情報が足りない状態を気の枯渇と言います。

気が充満している状態を維持するのは難しいものです。まずは周囲に結界を張り、自分を最優先で癒すことからスタートしましょう。
古典は栄養たっぷりですが、いわば乾物のようなもの、干からびていますので、だれかに水で戻してもらってからゆっくりと味わうことです。

西條八十は自身が苦しい時にこの詩を書いたとも言われます。まさに創作の苦しみを「殺してしまえ」とか「鳴くまでまとう」ではなく、「象牙の船と銀のかい」で解決したのかもしれません。


*歌を忘れたカナリヤ!!


精神の栄養ということで言えば、リヴァーダンスを観てきました!
オススメです!!



【書籍紹介】
まずはバートランド・ラッセルの西洋哲学史です!
本当に素晴らしい著作です。
ラッセルの歯に衣着せぬ物言いが光ります。それでいてそれぞれの哲学者に対する深い理解と愛を感じます。そして非常にコンパクト。
3冊に別れて出ていますが、4つ目の古い版は一冊にまとまっています。前は3分冊を使っていましたが、最近は一冊に分厚くまとまっているのを僕は便利に使っています。

西洋哲学史 1―古代より現代に至る政治的・社会的諸条件との関連における哲学史 (1)/みすず書房

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西洋哲学史 2―古代より現代に至る政治的・社会的諸条件との関連における哲学史 (2)中世哲学/みすず書房

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西洋哲学史 3―古代より現代に至る政治的・社会的諸条件との関連にお 近代哲学/みすず書房

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西洋哲学史―古代より現代に至る政治的・社会的諸条件との関連における哲学史 (1969年)/みすず書房

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そしてリア王!!
漫画もあります!
シェイクスピアは必読です。
というか上演されているのを観るのが一番です。
それから読むとすらすらと頭に入ってきます!

リア王 (新潮文庫)/新潮社

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リア王 (岩波文庫)/岩波書店

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リア王 (まんがで読破)/イースト・プレス

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リア王 -まんがで読破-/イースト・プレス

¥価格不明
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そしてニーチェの傑作「ツァラトゥストラはかく語りき」。
こちらも漫画もあります!
ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)/岩波書店

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ツァラトゥストラはこう言った 下 (岩波文庫 青639-3)/岩波書店

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ツァラトゥストラかく語りき (まんがで読破)/イースト・プレス

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