リンゴとナツメヤシ 〜一つの麦、もし死なずば〜 | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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神様がエデンの園に中央に生えさせたのは、禁断の果実の樹だけではありません。
もう1本、命の樹も生えさせました。

創世記をのぞいてみましょう!


主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。
また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。



命の木と、善悪を知る木」ですね。
禁断の果実たる善悪を知る実が有名ですが、生命の樹も重要です。

とは言え、些細なことですが、こういうのはいつも気になります。

中央に2本ってどういうことなんでしょう。
どちらが中央なのでしょうか?

善悪を知る樹はしばしばリンゴの樹とされます。
いまは、リンゴではないと言われます。間違いだと。
ただ、間違えでも何でもリンゴでもいいじゃないかとも思います。メタファーなので。

ちなみに、どう間違えたかと言えば、マリアが処女と誤訳されたように(本当は乙女)、言葉というか翻訳の問題です。

以下、Wikipedia「禁断の果実」の引用です。


西欧では、禁断の果実はしばしばリンゴの実とされるが、これはラテン語で「善悪の知識の木」の「悪の」の部分にあたる「malus」を、同じつづりの「リンゴ」の意味と取り違えてしまったか、二重の意味が故意に含まれていると読み取ってしまったものとされる。「malus」は「邪悪な」を意味する形容詞だが、「リンゴ」の意味の名詞も「malus」になる。創世記2章17の「善と悪の知識の木」の部分は、ヴルガータ(標準ラテン語訳聖書)では、「de ligno autem scientiae boni et mali」となる(mali は malus の属格)。


malusだけを見ると、ダブルミーニングのようで「邪悪」であり「リンゴ」だったわけなのですね。
ただここに聖書書記者が二重の意味を込めてないのは、ウルガータにおいて、boni et mail(善と悪)とあることからも分かります。ちなみにlignoはリンゴーではなく(リグノですね)「樹」ですね。scientiae boni et maliのscientiaeで思い出すのは、scientia potentia est(knowledge is power 知は力)のscientiaです。

というわけで、リンゴというよりはブドウであったり小麦であったりトマトであったり、マルメロであったりしますよね。

ブドウと言えばサムエルがつくったぶどう酒を思い出します。

サムエルという悪魔がブドウの樹をエデンの園の中央につくり、それに怒った短気な神様がサムエルもブドウの樹も呪ったという話です。頭にきた天使サムエル(呪い後は悪魔に降格人事)は神様の新しいオモチャである人間を誘惑します。もちろん蛇に化けて。

別な話しではサムエルはリリトのパートナー。別な話しではサムエルはエホバであり、この邪悪な宇宙をつくった神様という悪魔というグノーシスもあります。という話はまた別な話し。

トマトは歴史的にはしばらく食べれるものと思われなかったので、まさに禁断の果実。
もしくは創世記では唯一名前があるイチジクかもしれないという説もあります。イチジクの葉を最初の下着にしたのは有名です。


*イチジクの葉


*ミケランジェロは善悪を知る樹をイチジクと考えています。ちょっと見えづらいですが右側の樹を見るとイチジクの葉です。蛇の上半身は女性です。まさに前妻のリリトなのでしょうか。
右側が誘惑、左側が追放という物語が一枚の絵の中で進行します。鳥獣戯画のようなものです。これはもちろん絵画のスタイルです。赤い服を着ているケルビムという天使は生命の樹を守っています。


話を戻します。

禁断の果実(善悪を知る実)はリンゴという可能性は限りなく小さいのですが、まあとりあえずリンゴで良いと思います。

で、生命の樹はナツメヤシと言われます。

リンゴとナツメヤシ。

ここで疑問が生まれます。

先ほどを言及しましたが、どちららが園の中央にあったのでしょう。

神様はさらっと、園の中央に2本生やしたと言いますが、たとえば園が円形であれば中央は一意的に決まります。中心は一つです。どうやっても中央に2本は無理。

あ、もしかしたらエデンの園は楕円状だったのでしょうか、そしたら焦点は2つになりますよね。
でも楕円における焦点は中央とは言わない気がします。楕円であったとしても、焦点と焦点の中点が中央という気がします。

いや~聖書という素晴らしい「The Book」はいたるところに「つまづきの石」を配置しています。
中央というだけで深い深いパラドックスに堕ちます。

二つある中央というのはどういうことなのでしょう。創世記で人間の女は2回生まれますが、これもなぞなぞのようなものです。一人目はリリト、二人目が追放されてからエヴァ(生命)と名付けられます。つまづきの石ばかりです。

たしかに「わたしにつまずかない者は、さいわいである」(マタイ11:6)とありますが、僕自身が聖書学で学んだことでは、まさにこの「つまづきの石」につまづくことによって、人は内省的となります。ヤーヴェがヨブより愚かだったのは(ユングによれば)、この内省、反省がなかったことによります。

イエスが、「わたしにつまずかない者は、さいわいである」などと言った時にそれをアタマから信じるのは、まさに「さいわい」です。

イエスのメッセージはシンプルです。「頭を使えっ」てことです。「オレに盲目的に従え!」などと言いません。盲目の天使とはのちのサタンであるサムエルの別名です。イエスを「目を開け」と何度も言います。

ペテロに対して「お前はオレを裏切る」とイエスが言った時に、そこに「裏切りやがって」という意味はありません(だからたとえばユダにイエスが「お前は生まれないほうが良かった」などと呪うのは明らかに後代の捏造でしょう)。

予言とその成就によって、我々は自らを深く省みるのです。実際にペテロは鶏が鳴いたときに慟哭します。自らを省みるのです。あり得ないようなことを実際に予言されたようにしてしまった自分を省みるのです。鏡を得るのです。

ですから、このうっかり八兵衛のごときペテロは初代教皇になります。



よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう
マタイ26:34)


ちなみにペテロはイエスから名指しでサタンと呼ばれていますw(「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。)
ユダをサタンとしたかったのは原始キリスト教です。

少し引用します。

(引用開始)
イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。

(引用終了)(マタイ16:23

ここでのサタンに悪魔という意味はありません。もし悪魔ならなぜ第一の弟子なのでしょう。
そうではなく「邪魔する者」というサタンの原義であるstnの意味で使っています。stnとは邪魔とか敵対するという意味です。

Creative Avoidanceです。

二元論の価値観での善悪ではなく、一元論における邪魔がStnです。

そしてこのイエスの言葉を実践した唯一の弟子がユダである、というのがユダの福音書の世界観です。
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。」
マタイ16:25

その結果としてユダは2,000年間迫害されています。


「わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
(5:11)

自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。

という言葉は印象的です。
あまりに浅く読めば「殉教せよ」とも聞こえないこともありません。

僕はこの言葉が子供の自分、嫌いでした。

教会がこの言葉を発したときに、それは「奴隷になれ」、「命を捧げよ」、「お国のためw」にというニュアンスがあります(まあ、「心臓を捧げよ」はいいと思います。がんばって壁の向こうのリヴァイアサンと闘いましょう。そこにしか人類の未来はありません。インターステラーのテーマです。当たり前ですが、インターステラーはリサ・ランドールの解説動画ではないのですw)。


しかし、このモチーフは普遍的なのです。我々は教会なり国家が語るその歪んだ口にとらわれてはいけません。

自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。」

という言葉の「わたし」とは神のことです。
これをイエスという社会運動家の言葉と考えれば、カルトとグルでしかありませんが、その抽象度で見ると、見誤ります。

ヨハネの福音書にはこうあります。

(引用開始)
よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。
(引用終了)(ヨハネ12:24-25

麦です。

麦ではなく、トウモロコシなら、芋なら...

そう、これは神話のモチーフなのです。

死と再生(復活ではなく)というのは神話学のテーマです。テーマというのは繰り返しどの神話にも出てくるモチーフであるということです。
そして死ぬのはいつも神です。人に化身した神です。神が死に作物になるのです。

日々、我々は生命を口にして、自分の生命とします。神話の物語は我々の日常に至るまで反復します(秘伝功では後天の気と言います)。

種はそのままでは種のままだが、種として死に、芽を出すことで豊かに実を結ぶようになります。
(グノーシスでも、我々は悪魔がつくった悪魔の宇宙に悪の素材でつくられているが、しかしグノーシスの種が蒔かれていると考えます。その種によって我々は暗黒の世界の中に光を見ることができるのです。自らの奥深くに)

個人の死が集団を救うことがあります(というとまた特攻隊とか殉教的なニュアンスですね)。
詳しくはジョセフ・キャンベルを読むと良いのでしょうが。

我々は種であり、種は死んではじめて生きるのです。
これが「永遠の命」の意味です。


ちなみに、この死んではじめて生きるというあり方は小林秀雄を思い出します。


*小林秀雄。。。耽美的ですね。しかしその講演の語り口は五代目志ん生的でしたw(茂木健一郎さんいわく)。実際に落語のようです。しかし、その声を聞いてから、小林秀雄を読むと難解な文章、そしてその修辞的な文章の奥にある本人が浮かび上がってくるように思います。


僕は若いころ小林秀雄をよく読んでは、全然ダメだと批判していました(本当にバカです。とは言えその耽美的な文体を自分の文章にパクったりしていましたが。影響を受けていました)。いま思うと当時の自分がなぜ批判しているかはよく分かるのですが、そしてその浅はかさも指摘できるのですが、当時は真剣でした。

若気の至りというのは自分のためにある言葉だと事あるごとに思います。

小林秀雄の「無常といふこと」は高校の教科書にも乗っていました。当時、友人から「これ何?」と聞かれたことがあるのを覚えています。小林秀雄の文章の一部のそれも難解な部分を教科書に引く感覚に文科省の邪悪さを感じました(おおげさかっ)。

こんな有名な一節があります。

(引用開始)
又、或る日、或る考えが突然浮び、偶々傍にいた川端康成さんにこんな風に喋ったのを思い出す。彼笑って答えなかったが。「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出来すのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解った試しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」(引用終了)(小林秀雄「無常といふこと」)

たまたまそばにいたのが川端康成というのがまたいいですね。

生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」という表現は小林秀雄本人も気に入っていたと続いて書いてあるのですが、いま思うと非常に分かる気がします。

これは「一粒の麦、もし死なずば」という思想と重ねて、そして神話学に繰り返し出てくるモチーフと重ねて、うっすらと理解が見えてくるのだと思います。


赤いケルビムが守っている生命の樹の実を食べると、そんな永遠の命が手に入るのかと思います。

というわけで、次回のスクールではデーツ(ナツメヤシの実)を配布します( ー`дー´)キリッ


【CD紹介】
音声教材というのは昔から存在します。
僕は夏目漱石や芥川龍之介をテープで子どもの時分に繰り返し聴きました。おじさんがくれたものですが、これは今思ってもありがたかったです。

ファインマン先生もテープが残っています。ビデオも!(無料で公開されています)。
僕は歴史が苦手なので司馬遼太郎さんの講演CDはありがたいです。
古事記を読むのはキツいですが、中村吉衛門さんが傍で読み上げてくれれば聞いてしまいます。そして日本の神話というのは意外と慣れ親しんでいることに気付きます。

小林秀雄さんもまさに五代目志ん生という語り口です。落語のようです。

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イスラムの井筒俊彦先生のCDはと思ったのですが、ちょうどこれから発刊される全集に珍しい講演CDがつくそうです。これは買いですね(^^)

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