私たちの生き方には二通りしかない。
奇跡など全く起こらないかのように生きるか、
すべてが奇跡であるかのように生きるかである。
今回の神話学の冒頭で取り上げたのは、アインシュタインの言葉として知られているこのセリフです。もちろん実際にアインシュタインが言ったのかどうかは議論がありますが、アインシュタインが言ったから採用しているのではなく、神話学の幕開けにふさわしいために採用しました。
僕自身は若いころ、この言葉に強い違和感を持ちました。
すなわち、アインシュタインは物理学者であり、物理学者であれば「奇跡など全く起こらない」という立場であるべきです。
「奇跡も魔法もあるんだよ」は白い小さな可愛らしいメフィストフェレスだけで十分です。
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いや、白いメフィストフェレス(キュウべぇ)の言葉かと思ったら、純粋な善意が魔を呼び寄せる美樹さやかの言葉でした。勘違い。
美樹さやかの問題はヒーラーに普遍的な問題です。我々は魔女になる前に自我を殺さないといけません。
もし奇跡も魔法もあると考えるのであれば、それは個人の超人的な能力(もしくは悪魔との契約)でなされるのではなく、世界のなりたちがそうであると考えるべきです。
アインシュタインの言うように(言ったとして)、すべてが奇跡であるかのように生きるべきです。
個人の能力で奇跡や魔法が引き起こせると考えれば、それはキリストの言うヒュブリス(傲慢)の罪です。
だからこそ、イエスは私がしたことはあなたもできる。むしろそれ以上のことができると言ったのです。奇跡や魔法は超越的な個人、もしくは神の子にのみ許された特権ではないのです。イエスの癒しの業(わざ)は人類に普遍的なテクノロジーということです。
また、イエスは神の国はここにある、あそこにあると言えるようなものでも、見えるものでもなく、ただ人と人の間にあると言いました。人と人の関係の中に神の国は立ち現れます。
ヒーラーを職業とすると、まれに悪魔的な力を手に入れたように感じる瞬間が来ます。圧倒的な力です。これがエゴの肥大を生みます。平たく言えば、愚かな勘違いを生じさせます。その力は個人の力ではなく、共同体の力であり、人と人の間にあらわれた神の国の力と言えるようなものです。イエスが神の国と呼んだものが、ヒーリングの源泉です。
またエゴが肥大すると、自己犠牲的になりがちです。それも誤った方法で。
美樹さやかは自己犠牲を喜んで選びましたが、イエスは自己を犠牲にせよとは言っていません。
自分を愛するがごとく、他人を愛せよ、であり、自分を愛せず、大事にせずに、他人だけを愛せよということではないのです。
自己犠牲的に見える命令があるとしても、それは永遠の命につながるためであり、自分を愛する結果です。それゆえに命を失うものは、命を得るのです。
このエゴの肥大と自己犠牲の誘惑がヒーラーにまつわる大きな問題です。
まどマギという神話はそれを残酷なまでに美しく教えてくれます(本当か?w)(まあ神話というのはどんなものでもそうですが、読み解く人がいない限りは読めないものです。聖書もしかり)。
アインシュタインはなぜ物理学の立場ではありえない「奇跡を生きる」ほうを選んだのか?それについて書きたいのですが、スペースがないのでまた。
あ、今日の神話学では扱いますw
p.s. 奇跡や魔法を非科学的な力と矮小化すると見誤ります。まどマギでもそうですが、奇跡にも魔法にもきちんと物理的なコストを支払います。奇跡や魔法は現代においては、デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)ではないのです。
p.s.2 寺子屋「熱力学」で扱いましたが、生命というのは大きな枠ではエントロピーの拡大に従っており、小さな開放系においてわずかな時間だけマックスウエルの魔として機能しているのです。そこだけエントロピーの拡大に逆行しますが、閉鎖系ではないので熱力学には反しないのです。