悪魔とヘーゲルとチョムスキー 〜部屋とTシャツと私〜 | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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神と子と精霊や、テーゼとアンチ・テーゼとジンテーゼのように、◯と◯と◯、という形式はいつも「部屋とTシャツと私」を思い出します。平松愛理さんの名曲です。

いや、それは、どうでもいいことなのですがね。

次の寺子屋についてです。次の寺子屋では、悪魔とヘーゲルと私、ではなく、悪魔とヘーゲルとチョムスキーをやりますw

1月の第1講座が悪魔学、第2講座がヘーゲルです。ヘーゲルをチョムスキーと重ねて理解したいと思います。

悪魔は神の親友。ヨブをめぐって賭け事をしてしまうくらいに、仲が良いのです。
AKBの総選挙というシステムがあり、衆議院が解散してリアル総選挙があります。これは競馬の人間版みたいなのもです。
漫画の話ですが、カイジ(賭博黙示録カイジ)やライアゲーム(Liar Game)は人間を競馬に見立てて遊ぶ富裕層がいます(どちらも実写化されました)。
旧約聖書のヨブ記も同様で、総選挙というよりはカイジやライアゲームに近いものがあります。

ヘーゲルはそびえ立つ知の巨人です。知識人にとってはお父さんのような存在です。その庇護下で育ってきたものの、アンビバレントな思いがあり、最後には殺すことで(親殺し)、親離れをします。とは言え、僕らのように中途半端な養父に育てられた子どもたちは雷親父を知りません。自由主義や啓蒙思想というのは、ゆとり教育みたいなものです。というわけで、ヘーゲルという知の巨人ならぬ知のパパに会いに行く旅です。



いつも寺子屋のテーマには頭を悩ませます。長期的にやりたいことはたくさんあります。
たとえば経済学、たとえば美学、たとえば音楽、絵画、数学です(音楽は観るものであり、絵画は読むものだと僕は思いますw。ちなみに数学は言語です。正しさを競う学問ではなく、コミニケーションを楽しむための道具と考えます)。


僕はいつも抽象度を上げるというと教会をイメージします。
ヨーロッパの大聖堂をイメージして欲しいのですが、教会の中は薄暗いものです。
洞窟のようです。胎内のメタファーとも言えます。広々としているのに薄暗く、柱が視界を微妙にさえぎり、ところどころ蝋燭の炎で照らされています。

ふと気づくと上から光が差し込んでいます。
見上げると、ステンドグラスで何色もの美しい色が自分に降り注いできます。

もっとよく見るとそれがステンドグラスで描かれた絵画であり、その絵画はイエスの物語であったりします。
そして唐突に音が天上から降ってきます。巨大なパイプオルガンの荘厳な音です。

この薄暗い静けさの中に突如として音楽が降り注ぎ、見上げると光が差し込むというこの教会の練り上げられた洗脳装置というのは、それと分かっていても感動します。

僕自身は闇の中の光とか、抽象度の階段を上がるといったときにヨーロッパの大聖堂をいつも思います。

寺子屋もまといのば自体もゴールはかなり明確にあるのですが、目の前の一歩をどうするかはいつも迷います。

ただ迷ったら、よりCrazyな方を採用するほうが良いのは事実でしょうw




1月の寺子屋では「悪」なり「悪魔学」をやりたいという話は神話学のときにしたかと思います。

なぜ悪魔なのか?(悪はいつの時代も魅力的ですw)

というのも、先日ザハロワの白鳥を観ていたら、ボリショイの白鳥の湖のロットバルト(悪魔)があまりにかっこ良かったのです。そこで悪の問題についてかなり考えました。神学、神話学と続けてやってきて、キリスト教神学においても、神話の世界においても、悪なり悪魔というのは非常に大きい問題であることは事実です。ただ今回、悪の問題は割愛しました。
ですので、ここらへんでまとめておくのはまた面白いのではないかと思います。悪の視点から宗教なり神学、神話を考えるとより立体的にゲシュタルトが構築されます。

ちなみに、ザハロワはやはり驚くべき素晴らしさでした。ボリショイ・バレエ自体も完璧だと思いました。あの全4幕を2幕にまとめあげる手際の良さはすごすぎます。演出も振り付けも素晴らしかったです)。

ザハロワと言えば、われわれは身体を高度化させるためのモデルとして何度となく使わせてもらいました。

*バレエ漫画から抜けだしてきたようなルックスとスタイル、そして圧倒的なテクニック。バレエの化身です。

白鳥の湖を感動して観ながら、悪魔ということを考えていました。

悪の問題というのは、西洋においては非常に重大な問題です。アメリカにおいては切実です。

たとえばホラーやスプラッターなどの「怖い」話は、後ろに悪魔なり悪の存在があります。

でも、僕らは悪魔よりも貞子のほうに教父恐怖を感じます。そして死霊よりむしろ生霊のほうに恐怖を感じますw

ですから、悪が中心の恐怖にあまり共感できません。

しかし西洋社会では悪は普遍的な問題として扱われます。

ヨーロッパに仏教が紹介されたときに、悪魔の宗教と恐れられたのは、仏教が神を否定する宗教だからです。西洋社会で神を否定するのは神のお友達である悪魔だけです。
サクッと結論というか、見取り図だけを観るならば、「悪魔の宗教→虚無の信仰→哲学としての仏教」という受容のされかたをしているのではないかと思います。

僕自身が大学でアイルランド訛りの強いエネルギッシュな哲学教師に学んだときは、この「虚無の信仰」もしくは「空の信仰」として東洋思想を学びました。
台風の目のようなもので、中心は無風であり太陽が見える。だからこそ、台風の目になれるのです。その無風の晴れの周辺は暴風雨です。

江戸時代なども、トップはうつけものでなくてはいけないというある種の不文律があったように思います。

その意味では社会学で言うような「王」ではないのです。日本のリーダーは無、もしくは空(から)であることで、台風の目となれるということです。

トップダウンではなく、とは言ってもボトムアップではなく、その仮のリーダーという空白の周辺がトップとして機能するという感じです。

いやこれはある意味で西洋で言う生贄、もしくは神話に見られる生贄に近いのかもしれません。
(ちなみに、イエスは人類の罪の贖いのための生贄であるという考え方があります。アダムとイブの犯した罪をなぜかわれわれは負債として背負いますが、それをキャンセルしてくれたのがイエス・キリストということです。僕自身はこの解釈には与しません。むしろソクラテスと同じであり、ペテロがそうであり、パウロがそうであったように、リーダーとして範を示したと考えます。僕の好きな言葉で言えば「私達は死を賭した お前は何を賭しているのか?」だと思います。谷川俊太郎さんの詩です)


閑話休題


それはさておき、悪についてです。

神学で見たように、神ですらその解釈は一枚岩ではありえません。ましてや悪も同様です。

ざっくりと見てみましょう。


*天上界で最も美しい天使であったルシファーは、人間に仕えよという神の命令に対して、神以外に仕えることができない(そもそもそういう神様の命令だったし)というまっとうな返答によって、地獄へ突き落とされます(いつも気まぐれで横暴な我らのボス)。
堕天使であるサタンは地獄の最下層にあって、神の叫びが木霊しているのを聴き続けます。呪いとは言え、神が自分に投げかけてくれた言葉を永遠に聞くことで、神への服従と愛情を示しています(留守電に残った罵倒のメッセージを繰り返し聞くような屈折した愛ですね。違うか)。
こうしてみると、いわゆる「悪魔」はサタンなのか神様なのか、わからなくなるのは僕だけでしょうか。


と思ったのですが、もう十分に長いので稿を改めます。

ということで、来月というか年明けの寺子屋は悪魔学とヘーゲルの弁証法です(予定)




*ともかく楽しくガツガツと学びましょう!!