円環の理に導かれて 〜トーラスのリンゴはイブの夢を見るのか?〜 | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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数学をやるには体力が必要です。

物理空間の移動には体力と根性が必要ですw

当然ながら、情報空間における移動にも体力と根性が必要です。気合いというべきでしょうか。
そこには物理的なコストが必要なのです。
というか、物理は情報の一部なので、当然と言えば当然です。限界費用はゼロに近づきますが、ゼロではありません。

グーグルはすべて情報空間に移動させたと言われますが、Wiredの元編集長であるクリス・アンダーソンが指摘したようにグーグルはより安い電力を求めてサーバーをダムとダムの間に置いています。安いほうから買えるようにです。


あまりに疲れていると、ベッドから冷蔵庫への移動すら億劫です(^^)
ましてやブログのネタをあたまで発酵させるだけのエネルギーはありません。

昔の人が言うように、「腹が減っては戦はできぬ」のです。

マクスウェルの魔の帰結は意外なことにも、ビットとイットは等価であったということです。

これで円環は閉じたのです。

ニュートンは天界と地上界をリンゴというささやかな二次元閉多様体によってつなぎました(その表面が多様体です)。アインシュタインは真空の光の速度一定をアプリオリとすることで、時間と空間をつなぎました。そして重力の理論と古典的な幾何学をつなげることで、重力と幾何学をつなぎ、事実上、遠隔力としての重力を葬りさりました。重力と幾何学を組み合わせるにあたりよく使われる例が、リンゴの上をはうアリはリンゴの曲率を理解するかというものです。アリは平たい鉄板の上を歩いているのか、曲面の上を歩いているのかを、二次元に囚われたまま理解できるのでしょうか?ここでもリンゴが出てきます。

そしてリンゴが好きなマクスウェルの魔は最後にビットとエネルギーをつないでいきました(あ、リンゴが好きなのは「デス・ノート」の悪魔ですね。いやいや悪魔ではなく死神でした。悪魔なのは月と書いてライトと呼ばせる奇妙な名前の主人公ですね)。


*デス・ノートを知らない人がいましたら、こちらでなんとなくイメージを。

質量保存の法則があり、エネルギー保存則があり、質量とエネルギーは交換可能というアインシュタインの法則があります。



そして、エネルギーとビットがつながります。これで物理学は質量からスタートして、情報までをすべてつなぎました。ブラックホールやワームホールなどの命名者であるジョン・ホイーラーはそれを簡潔にこう表現しました。

It from bit.

と。

これでリンゴをめぐる円環の理(まどマギ)に導かれた長い旅は終わりということです。

天界と地上界はつながり、質量とエネルギーはつながり、エネルギーと情報がつながります。円環が閉じます。

イブのおかげで口にすることのできた禁断の知恵の実は、我々を楽園から追放するだけではなく、はるか遠くまで運んでくれました。


楽園追放の絵画のなかで好きな絵です。マサッチオです。
左は修復前です。わいせつということで、聖書に従っていちじくの葉で隠しました。マサッチオの意図どおりに修復されたのは1980年代です。



というわけで、少しだけニュートンについて考えましょう!




ニュートンは手の中にあるリンゴと目の中にある月の2つが同じ二次元閉多様体でありがなら、なぜ一方は手をすり抜けて地球に吸い寄せれれ、もう一方はぷかぷかといつまでも浮いているのかを不思議に思いました。リンゴは円環(トーラス)ではなく、むしろ球体ですし、月も同じです。

しかし両者ともに地球に引き寄せられて落ちているのだと気付いたのが、ニュートンの偉大な点です。



落下するリンゴに月を見たのです。

月はどう考えても落下しているように見えません。しかしそれは我々の目か頭が悪いせいです(もしかしたらそのどちらもがw)。

錯視ということを真剣に考えると、目はうっかり八兵衛のようなおっちょこちょいの器官であることが分かります。どれほど過ちを修正しても、愛すべき八兵衛さんは間違いを繰り返します。それはそれで良いのです。ビュリダンのロバのように真理と客観を模索しているうちに餓死するよりは、適当であっても突っ走ってくれたほうがいいのです。

ビュリダンのロバとは、「おなかを空かせたロバが、左右2方向に道が分かれた辻に立っており、双方の道の先には、完全に同じ距離、同じ量の干草が置かれていた場合に、ロバはどちらの道も進まずに餓死してしまう」という逸話です。ビュリダンは哲学者ですが、心理学の用語として認識されていることが多いのです。

このビュリダンのロバの別の名前はフレーム問題ですw

R2-D2になれなかった試作機たちは、膨大な可能性を計算していたら一生を終え、計算すべき可能性を選択していたら一生を終えます。電池が切れるまでの時間はR2たちも、我々もそれほど長くはありません。

ニュートンは月もリンゴも落下していることを示すためにこんな図を描きました。



窓から手の中にあるリンゴを放り投げることを考えます。

普通に放り投げたら、それはモノを放り投げたときの曲線の軌跡である放物線を描きます。平方数という代数学のいわば平面の面積の求積法が、曲線の軌跡を記述し、それが物理学のものを放り投げるときの軌跡を記述するという、いわば奇跡の一致がここにあります。

平方数 ーーー 2次方程式 ーーー 放物線 ーーー 物体の運動の軌跡

という円環の理に導かれていますw

計算(代数学)と図形(幾何学)と物理学の幸運なKISSがここにあります。
KISSとは接吻という2つのものが1つになるということもありますが、もう1つは科学の世界でよく言われるKeep it simple, silly.です。まじめに言えば「オッカムのかみそり」です。
シンプルに説明しましょうってことですね。オッカムのかみそりとはスコラ哲学の考えで、「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきでない」ということです。シンプルな公理からスタートしましょうということです。

しかしこれは言い換えれば整合性を高めることであり、端的に言えば抽象度の階段を上がるということです。

僕らがよく使う言い方であれば、束論におけるLUB(Least Upper Bound)です。最小公倍数のイメージです。正反合でおなじみのアウフヘーベン(止揚)のイメージでも良いと思います。

でも、やはりキスはキスです。格別ですね。


このかわいらしい二人のキス。微笑ましいですが、それぞれプシュケーとアモーレであることを考えると、感慨深いです。人と神のキスであり、生命と愛のキスです。生物は愛によって命を吹きこまれます。

ニュートンは手の中にあるリンゴを放り投げました。

放り投げたリンゴは宇宙空間を2次方程式に従って、放物線を描きながら落下していきます。
放り投げたときの勢い(初速)が小さければ近くに落下します。地面に落下して、運動エネルギーと位置エネルギーが熱エネルギーに変わって(もしかしたらリンゴを変形させるようなエネルギーに変わって)エネルギーはいつもながら保存して終了します。

初速をどんどん大きくすると、落下する位置もどんどん遠くなります。
落下地点も遠くなります。
そしてしまいには。。。。

地球の衛星軌道をまわりはじめます。

第一宇宙速度として知られる約 7.9 km/sでニュートンがもし窓から投げることができたら(まあどこかの建物なり山に激突してしまうでしょうが、そこは考えずに)、リンゴは小さな人工衛星になります。

リンゴの立場で考えみましょう。リンゴとしては放物線を描いて落下します。しかし落下して、落下して、そろそろ地上だな~と思うころに、地球はもっと下へ落下しているのです(地球が落下しているというのは比喩です)。ですからいつまで経っても地上にたどりつけません。

これが月の状況です。この落下しても落下しても地上が離れていく感じのするリンゴが月ということです。


*いつもセットで紹介しますが、このWikipediaの図はニュートンの図をきれいにトレースしています。

こう考えると、たとえば、人工衛星における無重力状態の説明がよく分かります。

人工衛星というのはバンジージャンプと同じということです。バンジージャンプで自由落下している最中はいわば無重力状態です。重力を感じることができません。アインシュタインの思考実験で言うエレベーターが自由に落下している状態です。ですので、人工衛星は無重力状態になるのです。ずっと落下しているからです。重力が働いていないはずもなく(当然ながら遠心力なる「見かけの力」を想定するのは、便宜上の話です。遠心力とは慣性力によるもので、慣性力は力ではありません。もちろん慣性力を神の力と考えたスコラ哲学者なら別ですが)。

ニュートンはそんな鮮やかな方法で、月とリンゴをキスさせ、そのことで天上界と地上界をつなげる(キスさせる)ことに成功しました。

アインシュタインは光を特別視することで、時間と空間という独立変数をキスさせました。アインシュタインの大学時代の恩師であり、大学生のときもノーベル賞を取っても数学の苦手だったアインシュタインを支えたミンコフスキー教授が唱えたミンコフスキー空間とは時間と空間が絡み合った空間です(虫垂炎などで死ななくてはいけなかったのは無念だったと思います)。

アインシュタインはリンゴの表面にいる虫はリンゴの表面がユークリッド空間ではなく、リーマン空間であることを見分けられるだろうかと考えました。リンゴの球面は平面ではありません。



すると我々が測地線と呼ぶ直線は奇妙な性質を持ちます。

硬い鉄板の幾何学であるユークリッド空間では、平行線は交わりません。しかしやわらかな曲面の幾何学であるリーマン幾何学では平行線は交わりたい放題です。地球を考えると、緯度はたしかに平行線ながら交わりませんが、緯度に直交する平行線である経度はすべて重なります。無限にある平行線がすべて2つの特異点で交わる(極地のことです、念のため)というのはすごいことです。

北極からバラバラの方角へ直線上に旅した旅人たちは、その旅の半分ではお互いがどんどん離れていきます。しかし旅の後半ではどんどんお互いが近づくことに気づきます。直線上をひたすらに歩いているだけなのに、近づくのです。

ニュートンはそれをある種の遠隔力と考えました。我々もそれに従って重力と呼びます。重力という奇妙な遠隔力はプリンキピアの刊行当初から盛大に批判されました。ニュートンはわたしは仮説を立てないと強弁しました。しかし本音では神がその力を数学を通じて重力という形で示されたと考えていました(これは推測ではありません。実際にプリンキピアに書いています(^^)。ここらへんの話は寺子屋「ニュートン力学」でやりましたね)。

地球上をひたすらに直線上に旅する者達は「生まれ変わる」ことなくても南極でめぐりあうのです。円環の理に導かれていますね(違うかw)


*中島みゆきさんは子供時代に何度も聞きましたw

すなわち重力なる遠隔力という仮想の力を想定することなく、幾何学によって「引き付け合う孤独の力」(谷川俊太郎「二十億光年の孤独」)は説明できるということです。二人の旅人が引き付け合うように見えるのは、二人の旅人が幾何学にそって、地面に沿ってひたすらに直線を進んでいることによる不可避的な現象ということです。これを空間のゆがみなどと言いますが、それはユークリッド空間を絶対のものと考えた我々の誤解です。ユークリッド空間自体がゆがんだ発想なのです。


*寺子屋「サブリミナル」ではないですが、床のだまし絵ですね。楽しいです。壁はファインマン図で覆い尽くしたいですね(大栗教授の研究室がそうなっているそうです)。天井はだまし絵の宗教絵画がいいですね!


*アンドレア・ポッツォ「聖イグナティウス・デ・ロヨラの栄光」です。宗教絵画のだまし絵の傑作ですね。


その当然の気血帰結として、面白いことに空間と物体は相補的です。
空間は物体に作用して、物体にどう動くかを教える。逆に、物体が空間に逆作用を及ぼし、空間にどう曲がるかを教える」(「重力理論」p.4)のです。

というか、これは2300年代の子どもたちにとっては当たり前すぎる結論であり、それ以外を考えられないでしょう。プリンキピアを読んで、頭をひねることでしょう。
「なぜこのニュートンおじさんは何も存在しない空っぽな空間(絶対空間)などというものを想定したの?」と聞くのではないでしょうか?

すべては縁(えん)によって起こると考えれば、空間と物体は当然に相補的です。

朝永振一郎先生が書かれていますが、物質と空間は電光掲示板のようなものです。点灯しているときに存在すると言い、消灯しているときに不在(真空)と言います。そして電光掲示板は点滅を繰り返しています。量子論以上に超弦理論を思わせます。いずれにせよそれが新しくより正しい宇宙観です。

リンゴもそうですが、何にせよその果実を得るまでには大変な情報量が捨てられます。
とは言え、情報を捨てることが果実を得ることのポイントではありません。
大事なのはまず月を目指すことです。月を指すゆびだけを真似しても意味がありません。

我々は果実だけを得ると、それが魔法か奇跡にも見えますが、「魔法も奇跡もないんだよ」ってキュウべえに言われます。クラークは優しく「充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない」と言ってくれます。

魔法の裏側はこんな感じかもしれません。


*ホンダのだまし絵CMのメイキングです!魔法の裏側も十分に楽しめます!


アダムとイブに関してはこんな話が神学にあります。

イブは蛇にそそのかされ、アダムはイブにそそのかされて禁断の果実を口にしたということになっています。

いつもながら古典はそっけないものです。抽象度が高いということは、情報量が少ないってことです。桃太郎の育ての親は最後まで名前がありません。

(引用開始)
女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
(引用終了)創世記3章6節

アダムはなぜ神を裏切ったのでしょう。

神に禁止されていた禁断の実を口にしたのでしょう。

これはシンプルです。誘惑ではないのです。

その理由は単純です。奥さんから言われたからです。

奥さんから言われたら、神が言おうが、誰が言おうが、それは破棄されます。

奥さんから言われたら、その言葉は神の言葉より重いということです。

カミさんは神様の上位ということです(^^)





愛も実体もある恋をしましょう(^^)!

恋にもエネルギーが必要です。まずはリンゴでも。