”ハングリーであれ、アホであれ” ジョブズの関西弁、オッペンハイマーとプロメテウス | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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「まといのば」では、バレエ・ヒーリング・美容の各種セミナーを行っております。

Sugiさんのブログを読んでいたら、関西弁のソクラテスの弁明が紹介されていました。

ギリシャ語で読むよりはラテン語、ラテン語よりは英語、英語よりは日本語、日本語で言えば関西弁でしょうか。翻訳が単なる写像だとすれば、自分にピンとくるチャンネルを選べばいいですね。

というわけで、おなじみのジョブズのスタンフォード大でのスピーチも関西弁で聴くとまた違うかもしれません。



オッペンハイマーのあのつぶやきもYoutubeで見るより、マンガのほうが入ってくるかもしれません(リンクは拙記事「今や我は死なり、世界を破壊する者なり」

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マンガの冒頭はオッペンハイマーが巨大な実験場に入るところです。二等兵の運転する車に乗って。
そこでオッペンハイマーは「プロメテウスの話を聞いたことがあるかね」と二等兵に聞きます。

プロメテウスはもちろんギリシャ神話の神。
天界の火を盗んで人類に与え、ゼウスはそれに怒り、プロメテウスを山頂にしばりつけ、毎日オオタカに肝臓を食わせるという罰を与える。これが死刑ではなく、罰なのは、プロメテウスが不死のため、何度でも復活するからです(実際に肝臓は非常に高い再生能力を持ちます。驚くべき再生能力は古代から知られていたということですが、そのポイントが細胞分裂ではなく細胞肥大であることを示した東大の研究はこちら。面白いです)。

で、プロメテウスがオオタカに肝臓を食われている状況がこちら。
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ルーベンスです。

その名は、pro(先に、前に)+metheus(考える者)で、「先見の明を持つ者」「熟慮する者」の意である。」とWikipediaでは紹介されていますが、火を与えたのは熟慮の結果だったのか、短慮だったのか。プロメテウスの火はもちろん原子力のメタファーでもあります。オッペンハイマーはギリシャ神話から引き、バガヴァット・ギーターから引きます。
マンガとは言え、あなどれません。核分裂がいかに錬金術の夢を叶えたかが書かれ、核分裂の機序と歴史も丁寧に描かれています。その他、読む人が読めば情報の宝庫です。


Rayまといのば」の施術所はバレエスタジオに併設されています。その本棚には大量のマンガが並んでいます。たとえば「まんがで読破」シリーズ、コナンやドラえもんの学習まんがシリーズです。むさぼるように読んでいるのはバレリーナの卵ばかりではなく、大人たちも同様です。

学ぶべきことを学ぶのは、それが学ぶべきことだからではなく、それを学ぶことが快楽だからです。

「学ばれるべきこと」とはラテン語、もしくはギリシャ語で「マテーマタ」と言い、これは「学ぶ」を意味する動詞「マンタノー」に由来します。これがラテン語で「マーテーマティカ」となり、明治期に「数学」と訳語を与えられました(古来あったのは「算学」)(以上、エウクレイデス全集第一巻 pp.i-ii )(エウクレイデスとは英語読みでユークリッド。この書籍の扉には先日の名古屋での「世界を変えた書物展」にも出ていたプリンキピアの初版本があります。同じものです。書物展を見た方は感慨深いのでは)。ですので、エウクレイデス(ユークリッド)がMathematicaといった時、それは数学ではなく、学問全体を示していました。特に自然科学系の(だからこそ、「幾何学に王道なし」は「学問に王道なし」の意味で使われます)。


「学ばれるべきこと」は空きっ腹のときの熟した果実のようなものです。それ自体は栄養もあり、美味しいものです。ただ果物は皮を剥くのが、もしかしたら少し面倒かもしれません。であれば、シロップ漬けでもすでにむいてある缶詰なり、コンビニのパックから食べ始めても良いかもしれません。ジャンクフードで空腹を満たしていると、どれほど熟れたイチジクでも喉を通りません。

人間という情報処理システムはいつも新鮮な情報を欲しています。
ただし食べやすいサイズにカットして欲しいと思っています。そして食べやすいチャンネルで提供して欲しいと。

僕自身が少し誤解していたのは、数学や形式化ほど食べやすいサイズは無いと思っていたことです。いや、これ自体は間違えていないと思いますが、数学や形式化が万人向けのカットフルーツだと思っていたことが間違いだったのかなと思っています。まあ、そもそも万人受けするというものの存在を想定すること自体が誤謬です。しかし高等教育を受けてきた人々においては数学は電卓並の便利さがあると妄想していました。

で、結論としては、数学を凍結しつつ(計算をしないで)、後ろに数学的なアルゴリズム(論理)を走らせながら、今後の寺子屋なり塾を展開しようと思い始めています。

ヴェーダやギーター、スーフィーなどに入るのはずいぶんと先だと考えていました。
ずいぶんと以前から予告はしていましたが、ただ哲学や自然科学、計算機言語学、認知科学の最低限の素養を獲得してから、東洋哲学であったり、神秘思想や神秘主義に入りたいと「まといのば」では予定していました。

ただ数学というのは言語ですし、言語というのは子供のときに叩き込むしかないものです。クリティカルエイジというのは脳の構造上、存在します。
クリティカルエイジのカラクリはシンプルです。
選択肢(可能性)が無限にあるというのは、逆に「何もできない」と同義になります。
選択肢を刈り込むことによって、はじめて可能性は開けます。
「君は将来、ピアニストにもバレリーナにも、科学者にも政治家にもなれる」と行動主義のワトソン
のようなことを言ったとして、そこに嘘はないのでしょうが、小林秀雄がアランを通じて批判したトルストイ伝(歴史学者の視点を批判)と似た感触の違いがあります。

ピアニストになるためには、すべてを犠牲にしてピアノを弾き続けることは大前提です。バレエも同じであり、科学者も同じです。

可能無限であることと、実無限であることの違いのようなものです。

可能性は無限にありますが、それが実在しているわけではないのです。「ピアニストになれる」というのは、「ピアニストになるという計算をスタートすることができますよ」という意味です。

逆に十分に大人になった皆さんは「もう手遅れですよ」とは誰も言ってくれません。
強いてあげれば、エッカーマンにアドバイスしたゲーテくらいしか思い出せません。
君は若い時代を無駄にした、そこできちんと古典語を学び、大量の古典を読むべきだったのに、と言っています。

「手遅れですよ」と正直に伝えることでの返り血を浴びたくないので、教師たちは(僕もきっとその長い列の末尾に並ぶのでしょうが)お茶を濁します。

ただどんな理論にも例外があるように、このクリティカルエイジの問題にも例外があります。抜け道があります(いや、それでもピアニストは難しいでしょうし、バレリーナも難しいでしょうが)。

その抜け道を教えたいと「まといのば」では思ってきました(最近は、イエス様の「豚に真珠を投げてはいけない」が耳に痛くて仕方ありません)。

僕自身は人の可能性と未来について楽観的であり、ポジティブなほうだと思います。

ですので、数学を封印しながら(あまりに脱落者が多くて、それにこのペースでの数学は僕はさすがにやりたくないので)、数学を使わないという意味で非形式的な議論を進めながら、より先へ進みたいと思います。

その意味で寺子屋の文系編的なものを月1回ペースくらいで、スタートして、初回「バガヴァット・ギーター」、2回目「中論」とか面白いのかもしれません。3回目を「スーフィー」、もしくは「ルーミー」(半分、冗談です)。ただ猛烈に学びたいという方はいるでしょうし、その方には猛烈に教えたいと思っています。

クリティカルエイジに絶望的な気分になったとしたら、その絶望はより一層深めたほうがいいです。
そこからしか始まりません。
フワフワした頭と身体で、綿菓子のようにIQが上がり、ヒーリングの不思議な力を獲得されると期待されている方には、辛いシシトウをごちそうしたい。

ただ絶望の淵にあって、1つの光となるのはアランのこの言葉です。

『「学ばざりしぞ口惜しき。」これは怠け者の言いわけである。それなら勉強するがいい。』

アランいわく、

『私がミケランジェロのような人をりっぱだと思うのは、自然のたまものを手にとりなおして、安易な生活を困難な生活と化す、あの激しい意欲のゆえである。この無愛想な男は、何かを学ぼうとして学校へ行ったときには、すでに髪がまっ白だったといわれる。』

神が、もとい髪が真っ白というのは若白髪ではなく、老年に至っても「何かを学ぼうとして学校へ行った」ということです(学ぶこと自体が自己目的化しているケースには僕は反吐が出ますが。学ぶのがゴールだったら、教室の座席に座った瞬間に何もしなくなります。なぜならゴールを達成しているので。)。

アランにせよ、ジジェクの「一にも二にも勉強」にせよ、過去記事にあるので参照していただければ幸いです。リンクは「奥さんと愛人どちらを持ちたいか?」です。タイトルはジジェクの「暴力」の中の小咄から取りました。

マルクスとエンゲルスとレーニンが、奥さんと愛人どちらをもちたいか、ときかれる。

という話です。続きはこちらで。


というわけで、本稿のまとめ。

・古典(というか「「学ばれるべきこと」=マーテーマティカ)を学ぶことは、熟れた果物を食べるくらい人間にとって喜びである。なぜなら人間は情報処理システムだから、何かを食べて、何かを排出する。Function(関数)で言えば、インプット(入力)してアウトプット(出力)する存在。インプットの質が上がるのは、Functionがアップデートされるので「嬉しい」と感じる。

・で、その入力値は様々なチャンネルがあるので、それは適宜選べばいい。
同じナスを食するのであっても、料理の仕方はいろいろあります。ラテン語から入りたい人はラテン語から、英語からなら英語から、関西弁なら関西弁、YoutubeならYoutube、マンガならマンガで。
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・とすると、別に数学もそのチャンネルの1つにすぎないので、数学というチャンネルを(少なくとも数式を)外すのも1つかもしれない(と最近は考えています)。しばらくして戻ってくると、「なにこれ、簡単!」ってことは往々にしてあります(実際にいまやっている数学は簡単ですし。単にスコトーマで目が曇っているだけです)。





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いろいろなチャンネルで学ぶことで、より深く認識できます(できる場合は)。

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アランの幸福論もマンガもあります。

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