自由であることの不自由、不自由であることの自由 | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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四ツ谷にありますバレリーナ専門の気功整体「まといのば」のブログです。
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スクールでも一番始めにやりますが、論理というのはしばしば誤解されがちです。
AだからBであるということと、BだからAであるということは別です。
A→B ならば B→Aなのは、幸いにも同値であるという特殊なときのみです。ほとんどはそうではありません。
「神は数学者か?」という命題を見て、「数学者は神ではない」と言い出す人につける薬はありません。
「神は数学者か?」と「数学者は神か?」は似て非なるものです。しかしこの程度の論理ですら操れないかたが多いのは事実です。
そして無意識レベルでこのような誤謬を我々は繰り返して、地獄への道を敷き詰められた善意を踏みしめながらひた走っています。


「論理的に話せ」と言われると嫌な顔をする人が多いのは、論理は自分を縛る鎖だからです。
そして論理を僕らはほとんど知らないからです。知らないものを強制されるのも、それで縛られるのも嫌がるのです。

しかし自分を縛るものしか、自分を解放しないということは知っているべきポイントです。

だからこそイエスは十字架の上でパラダイスを感じ、リア王は牢獄でパラダイスを感じたのです。

イエスがユダの接吻から逃れ、リア王が王として豪華な生活をし、ソクラテスがアテナイの鍵の開いた牢獄から逃げたら、おそらくどれほど「自由」でもそれは牢獄でしかありません。

この話は、肉体が自由でも、精神が不自由という、二元論ベースの話ではありません。
二元論はそもそも誤りでしかなく、心と身体は同じものでしかありません。コインの裏表です。

ですから精神に当てはまることは肉体に当てはまります。

肉体においても不自由に肉体を使うことが「自在」に使うポイントです。ダンサーが優雅に踊るときに、あんな自由に踊れたらどれほど楽しいだろうと僕らは考えます。

しかし白鳥の湖を踊るバレリーナは音楽に従い、振付に従い、そして自分の肉体のロジックに従っています。徹底的に縛られることで「自由」を得るのです。

しかしその身体の体感はまさに不自由そのものです。身体のロジック(論理)に従う不自由さが自由をもたらすのです。

それに比べて我々は身体をあたかも何でも可能なかのように使っています。物理的な限界すら無視して身体を操作しています。だから結果的に不自由なのです。

例えば、我々は脛骨を無視して腓骨をあたかも骨のように使います。それに合わせて腓骨周りは鍛えられます。腓骨に重心を乗せるというのは物理学的には困難です。しかしその困難をやすやすと行なっているのが我々の足です。自由に使うので、結果的に不自由になります。

論理に従い、不自由さの中でももがくと自由に通じます。精神においても肉体においても。
その不自由さのアルゴリズムの選択を間違えるのは危険です。
不自由であれば自由になると短絡するのは非論理的です。単なる苦行となります。
適切なアルゴリズムの選択は当然必要です。


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