神が存在しないことが科学的に(数学的に)証明されたと言っても、釈然としないと思われることも多いでしょう。
神の不在が証明されたと言っても、自分は神と出会っているし、その圧倒的な臨場感は誰も否定できない、と考える人もいらっしゃると思います。
神と何度もコミュニケーションを取り、何度も助けられたと感じている人もいるでしょう。
もちろん大多数の人はそのような「体験」はなく、そんな話しを聞いたことで、「神」を体感します。ネッシーのようなものです。「いるらしい」と「いる」の区別を脳はしません。
では、神と出会っていると感じる人々はそこで誰と出会っているのでしょう?
例えば、正直なマザー・テレサなどは「私は神が見えない」と晩年告白します。彼女はイエスへの信仰に生きたと僕は思います。神ではなく、イエスへの信仰です。病める人、身寄りのないまま絶望の中で死ぬ人々に彼女はイエスを見たのです。それは聖書のイエスの言葉に忠実に沿った行動です。
マリア信仰を堂々と口にする少なくないクリスチャンたちも、神であり人であるイエスの上位概念を想定している時点で、神はいないと確信しているいうことでしょう。神より上の存在があるなら、定義上、神は神ではありません。神にお母さんがいたら、それは神ではないでしょう。
では、神に出会った人は、誰に出会ったのでしょう。
答えはシンプルです。自分と出会ったのです。
自分と出会い、自分と対話したのです。
自問自答?
そう。自問自答とも言えます。
自我は意識の上では一つ、無意識には無数にあります。
自我と自我が対話します。
ではなぜ祝福と歓喜と光に包まれたのでしょう。神のお告げ通り行動したらうまくいったのでしょう。
プラセボ効果でしかない、と言えばその通りです。
光は幻視であり、お告げの効果は偶然の賜物ということです。
ある確率で、お告げの効果が得られないと、「エリ エリ レマ サバクタクニ(神よ、なぜ私を見捨て給うたか)」と叫ばざるを得ないのかもしれません。もしくは「私の信仰」が弱いからと反省するのでしょうか?(全知で全能なる神は、信仰の強さや弱さで判断や行動をコロコロと変えると本気で思っているのでしょうか)
いずれにせよ、「信仰」においては神の存在証明はゆらがないようにデザインされています。ゆらぐのはいつも自我か「信じる心の強さ」です。
ではなぜ人知を越えた知識と知恵がそこに含まれているのでしょう?
これも「気感は五感をこえた感覚」というのと似た誤解です。人知を越えていれば、我々は認識できません。五感を越えていれば、感じれないのと同じです。
知らない言語は聞いても意味がわかりません。人知を越えていれば、むしろ見ることも聞くこともできません。
知らないことは見えないのがスコトーマの原理です。
赤ん坊に微分方程式を見せても、見えません。「神の言葉」であれば、見えないでしょう。
ですから人知を越えていないありきたりのことを神からは言われます。たかだかの知識でしかありません。神の言行録である聖書を読むと、矛盾と暴力にみちみちています。神の物語ではなく人の物語であることがわかります。
すなわち「自問自答」なのです。圧倒的な知識と知恵があるように感じ、深いと感じるのは、A次元方向に高い「自我」と対話するからです。IQの高い自分と語るからです。
神と出会うとき、疲労困憊していたり、衝撃的な現実と向き合ったり、不眠不休で断食していたあとの深い変性意識状態のときです。また臨死も当然ながら深い変性意識です。
そこで「自分」と出会い、自分から情報を得ているだけです。
ただ深い変性意識とは深いリラックスであり、高いIQなので、大量のドーパミンが出ます。それが鐘の音であり、まばゆいばかりの光と祝福と歓喜のカラクリです。
神とは情報空間における自分との出会いです。