宇宙はランダムか、秩序か? | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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ランダムか、秩序か?という問題は宇宙を語る上で欠かせない視点です。

ただ現代科学ではその結論は出ているのではないでしょうか?

一言で言えば「カオス」ということでしょう。

一つ抽象度を上げれば、パターンが見えるということです。そのパターンも不確実性が必ず働き、それはどこまで抽象度のレイヤー(層)を上げても残ります。その究極を「空」と言います。ベクトルを変えて、下に行けば、臨場感は高まります。でも、混乱は深まります。パターンは失われます。そして最も底辺を、現代哲学では「矛盾」と呼びます。

現代哲学の「存在論」によれば宇宙は「包摂半順序亜束」です。それは「矛盾」しか想定していないからです。

ただ苫米地先生が提唱しているのは、「有」と「無」の上位概念として「空」を設定すれば、宇宙は「包摂半順序束」となります。
「束(そく)」とは水戸納豆のように、上と下が結ばれているものです。「亜束(あそく)」とはどちらかが開いているものです。水戸納豆の上を縛っているのが「空」、下が「矛盾」。すべての存在は納豆ということです。


歴史的にランダムか、秩序かと言えば、秩序であるというのが伝統的な考え方でした。

すなわち「神」です。

「神」がいて、すべてを決めている、と考えておけば思考停止できます。

たしかにニュートン力学は神を矮小化して、神の仕事を最初の一撃だけにしてしまいました。でもニュートンは「絶対空間・絶対時間」という枠組みを「神の肉体」と考えたことは事実です。

理解が不十分な時代、時期に「神」という仮説を必要としたのは、理解できます。子供がサンタクロースを愛し、輪廻を信じるのと同じです。

大人はそれらが「夢」であったことを理解して、大人となります。「子供の見る夢」とは自転車につける補助輪のようなものです。

ちなみに「全知全能」というのは、ちょっとしたパズルのようなものです。全知であり全能であることは不可能です。

前世紀に数学を壊した昔から知られたたった一つの台詞と似ています。

すなわち「私は嘘つきだ」という命題です。

この命題を巡って、パラドックスを解消できず、数学はその不完全性を暴露されました。それがゲーデルの不完全性定理です。

「私は嘘つきだ」という命題が真ならば、すなわち正しいならば、どうなるでしょう。
私=嘘つき、ということになります。
ということは、「私」の言うことはすべて「嘘」です。
すると、「私は嘘つきだ」という私の言うことも定義上、うそだということになります。すると、「私は正直者」ということになり矛盾します。

逆に「私は嘘つきだ」という命題が偽ならどうでしょう。
私は嘘つきではないということになります。すなわち、私=正直者、です。
正直者は嘘は言いません。すなわち、「私は嘘つきだ」という台詞も本当のことになります。また矛盾です。

これを自然数論の中でゲーデル数というモデルを使って、鮮やかに示したのが若き日のゲーデルでした。

そしてこれは当然、ストレートに神の不在証明となります。

それはさておき、「全知全能」です。

全知と全能は矛盾します。

全てを知っているということは、過去現在未来の自分のことも宇宙のありとあらゆることを神は知っているということです。

これだけならOKなのです。

舞台俳優のようなものです。俳優は筋書を全て知っています。結末も知っています。次に自分が何をするか、何を話すかも知っています。むしろ忘れたら大変です。

俳優は何でもできるでしょうか?何でもはできません。台本の中で動きます。

全知であるということは、全て知っているということです。全能であろうとしても、知っていることをしているだけです。

では全知である神はどうやれば全能になれるのでしょう。

自分は自分のすることを知っています。そこから自由になれるのでしょうか?自分が新しいことをクリエイティブにしようと思ったら(クリエイトと言えば神の仕事です)、それは全知か全能に反します。


もちろんこれは言葉遊びでしかありません。

ただ神は科学的にも神学論上も否定されたのが現代です。

数学と同様に神もきわめて危うい土台の上に何千年もいたという認識は重要です。むしろ土台のないところにあるかのようにいました。

神の子イエスが水の上を歩いても驚いている場合じゃないのかもしれません。

最初に戻ります。
その意味で、秩序かランダムかという二元論そのものが無意味です。

完全ランダムも完全秩序も不完全性定理、不確定性原理で否定されています。

ランダムに見えるものを、抽象度を上げればある程度のパターンが見えるというのが、カオス理論です。これが宇宙です。そのパターンは絶対的ではありませんが、下位の抽象度の存在はそれに従わざるを得ません。そしてそのパターンは永遠に下の抽象度にとどまる限りは見えません。


これが気功のカラクリです。

ですから、ある程度の整合性のとれるパターンを情報空間でつかまえてしまえば、下位の抽象度は操作可能になります。そして下位の抽象度から上は絶対に見えません。操作されていることすら分かりません。

抽象度を上げていけば、もちろん物理法則すら越えられます。相当に抽象度を上げないと無理ですけど。絶対は存在しません。物理法則すら人間が決めたルールです。宇宙をつくったのが人間であるという立場からすれば当然の帰結です。

少し整理しましょう。

人間の観測が物体を生じさせます。これは量子論の結論です。
時間は未来から流れている、というのも物理学と現代哲学の結論です。
すなわち、ビッグバンをいま私が「見た」から、ビッグバンは180億年前に起きたのです。これが苫米地宇宙論です。

「現在、過去、未来はどれほどリアルに感じても、それは幻想にすぎない」とはアインシュタインの言葉です。


気功と洗脳は情報空間の操作という面では同じです。

これが宇宙のカラクリであり、気功のカラクリです。

苫米地先生が繰り返し我々に伝えようとしていることの一つです。