1
5時のチャイムとともに工場のロッカールームはごった返す。疲れ切った中年の溜め息もあれば、これからが自分の時間だと活気付く若者もいる。秀雄はそんな若者サイドの一人だ。
帰宅前に軽く居酒屋に寄る者たちもいれば、パチンコ屋に1秒でも早く行きたい者もいて、工場の巡回マイクロバス乗り場はすぐに行列となる。それを尻目にマイカー通勤族は自由に放たれた鳥たちのように正門から次々と走り去って行く。秀雄はバスに並ぶでもなく自分の車に乗るわけでもなく正門の脇に立つ。控え目に大きめの音を轟かせたターコイズブルーの小さな商用バンが秀雄の前に停まった。
「お待たせ」
秀雄は軽く手を上げてバンの助手席に乗り込む。
「作業場でいいのかい?」
「うん、よろしく」
バンは軽くホイールスピンを立てて走り出した。バンの持ち主は山根亘、秀雄と同じく今年入社した新人工員だ。二人はたまたま入社式で隣り合わせ、何となくウマが合ってつるむようになった。ほんの10年前では車は高価な贅沢品であり、なかなか手の届く物ではなかったらしい。しかし変動為替への移行で労働賃金が急激に上昇し、ローンが手軽に組めるようにもなったため、今では1家に1台の時代になりつつある。安価な中古車も市場に豊富に流れ出したために秀雄や亘の年代でも自分専用の車は高嶺の花ではなくなった。
「今日は集会どうする?」
「うん、覗いてみようかな」
亘の問い掛けに秀雄はにこやかに答えた。
「じゃあ9時に迎えに行くよ」
秀雄は梶谷自動車工業の看板を掲げた整備工場で降ろしてもらった。ここが秀雄の実家、高校を卒業して早々に家業を手伝うつもりでいたが、父親の茂がしばらく社会勉強をしてこいと数年前から操業を始めた製鉄所へ送り出した。静かな漁村は製鉄所によって潤いだし、町へと昇格したが、反面湾内の海水は汚れ出して魚が育たなくなり、漁師たちは苛立っていた。まあ秀雄には直接は関係無い話だ。
整備工場の裏手が梶谷家の住居になっているが、その間の小さな物置に秀雄は入り、電球のスイッチを入れた。そこには茂から譲り受けた日産サニーの初代商用バンが置かれている。形式B10、2ドアタイプで1000ccの非凡なOHV、A10型エンジンを載せていた。これが4ドアだったら秀雄は関心を向けなかったろう。若者は2ドアでなくちゃ格好がつかない。
そのエンジンは降ろされ、脇に組み立てられた別のエンジンが控えている。秀雄は製鉄所が引けた後、ほぼ毎日ここでサニーバンの改造整備を行っていた。幸いにも欲しい部品は整備工場の棚に大抵そろっているし、中学の頃から車弄りを手伝ってきた秀雄の知識は大人顔負けのものだ。そして整備工場には父親以外に腕利きの師匠が2人ばかり居た。物置の組み立てられた改造エンジンは、その一人クニさんこと高橋からもらったもので、ボアアップしたエンジンブロックとそれに見合ったピストン、ショートストロークのクランクとクランクシャフト、高回転に向けたクロスフローシリンダーヘッドにバルブセットが組み込まれている。どれもレース用にクニさんが購入したり試作加工したりしたもので、結局不要になったパーツたちだ。正確な排気量は分からないが、クニさんによれば10,000回転は軽く回る仕様だそうだ。キャブレターはソレックスのツイン、排気側にはタコ足が怪しげにくねっている。クニさんは日産のA型やL型の改造が三度の飯よりも好きな男で、仕事の傍らレース用のチューニングを色々と試している。自作のA型で1300ccのTSクラスにトライするのが生き甲斐だ。クニさんの愛称はもちろん高橋という姓から伝説的レーサー高橋国光にならって呼ばれている。だが残念ながらドライビングの方はチューニングの腕ほどはないようだ。
「おう坊ちゃん、綺麗な色に仕上がったじゃないか」
そう言いながら顔を出したのはもう一人の師匠格、杉田だ。彼はチューニングよりもオリジナル状態の分解整備が得意で、あらゆる不具合を一発で直していく。日産最高の名機、S20エンジンを載せたスカイラインの専属整備を請け負っていて、秀雄はそのスカイラインGT-Rのオフホワイトにサニーバンを塗り替えた。
「もう少しで走らせられるな」
「ええ、多分来週には」
秀雄がそう答えると、杉田は頑張れよと従業員用の風呂へと向かった。
A型エンジン、まあ仮にA12改と呼ぼう、は秀雄の目には珠玉の宝石に映る。搭載するのに物置にはチェーンブロックなど無いから、ドンガラの車体とエンジンを整備工場へ別々に運んで誰かの手を借りながら載せる予定だ。その前にパワーに見合った足回りを仕上げたい。ストラットのサスペンションでも組めれば最高だろうが、後輪は強化したリーフスプリングとし、ブレーキを前後輪ともにディスクタイプに換えた。ロールを抑えるために太目のスタビライザーを追加している。
1時間半ほど作業した後、秀雄は物置を閉めて実家の夕飯に向かった。
2
9時に亘が迎えに来て、秀雄はスタジャンとレーシングキャップを羽織って青いバンに乗り込んだ。
「今日あたりは出るのかい?」
「いや、見物で十分さ」
亘が笑う。彼らが向かうのは週末に防波堤で行われるゼロヨンレースだ。車好きな製鉄所の若者たちと腕っ節自慢の若い漁師たちが自然に集まってくる。最初の頃はほんの数台で秘かに競い合っていたようだが、今は観客も集まるちょっとしたイベントだ。亘の車はマツダのファミリアバン、だがその中身がただならぬものである事は秀雄には隠せない。シャコタンに直管マフラー、エンジン音はチューニングされたロータリーのものだ。亘の父親は数年前まで広島でマツダに勤めていて、どうやらロータリー開発陣の一員だったらしい。奥さんの喘息が悪化して、故郷のこの町に移ってきたが、生憎ここも環境破壊が進み始めている。父親は漁を手伝っているが、秀雄と同じ様に物置小屋で趣味のようにロータリー弄りをしているようだ。その仕上がったオモチャに亘が乗っている。
「あまり速いやつは来てないな…」
亘が呟く。レースは2台並走で勝ち残り形式で進められ、タイム計測などはしていないが見たところでは最後に勝ち残ったギャランGTOで16秒そこそこだろう。隣町から来たらしい、あまり見かけない奴だ。
「だからキミが出ればいいのに」
秀雄の勧めに亘は「いたずらに荒らしたくもないさ」と口元を歪めた。
秀雄たちにとって、車は自己表現の象徴だ。カッコイイ派手な外観でアピールする者もいれば、中身をきっちりと仕上げる者もいる。いずれにしても誰かと同じはまっぴらごめんだ。ファッションにしたってそうだろう?だからこの町の若い奴の車は、大抵は一目で持ち主が分かる。町で唯一の整備工場である梶谷自動車工業が日産車をメインとしているために日産車が多く、セドリックを頂点としてローレル、スカイライン、ブルーバード、サニーといった面々だ。中でも横綱級の別格が2台、スカイラインのGT-Rとフェアレディ240ZGの存在感が光る。どちらも秀雄には馴染み深い車で、GT-Rは杉田が、フェアレディ240ZGはクニさんが専属メカニックを請け負っている。おそらくは誰もがその2台を期待してゼロヨンレースに集まって来るが、未だに顔を見せる気配はない。
「じゃあまた来週な、迎えに来るよ」
秀雄を家に送って、亘が挨拶すると、
「いや、もう迎えはいらないよ」
と秀雄が笑った。
「自分の愛車が仕上がるからね」
製鉄所は湾の左側の岬の突端近くに有り、町から岬に伸びる海岸線のワインディングロードが唯一の通路だ。朝夕は通勤の車で賑わうが、夜ともなれば通る車は皆無だ。その道に快音が木霊す。街灯のない暗闇をヘッドライトの光だけを頼りに、各コーナーにスキール音を残す常軌を逸した走りの主は、オフホワイトのスカイラインGT-R。岬の突端に車を停めてストップウォッチの針が刻んだタイムに薄ら笑いを浮かべて頷いた。
3
「いいねえ」
「そうだろ」
翌週末、秀雄を家に送った亘は物置をガレージ代わりにした車を見て感嘆した。完成したB10サニー2ドアバンは小さなボディーから独特の凄みを醸し出している。
「走らせてみたの?」
「いや、まだ。問題の出ない事を祈るさ」
「じゃあ今夜は防波堤で落ち合おう」
「うん」
夕飯後、もう一度簡単にチェックを済ませた秀雄は、オフホワイトのサニーバンのエンジンに火を入れた。キュル…キュル…キュル、セルの音が緊張感とともに響く。この手のエンジンはプラグ熱価も高いから被らせないようアクセル操作に気を使う。キュ…ル…、ボッ!セルの最後の絞り出しにようやく応えるように着火する。秀雄はすかさずアクセルを慎重に煽る。フォフォファァァン、ファン、ファン!秀雄の組み上げた珠玉のA12改エンジンは元気に産声を上げた。秀雄は工場の裏口からゆっくりとサニーバンを公道に進めた。
「今日は秀雄が走ると思ってたのにな」
町に新しく出来たファミリーレストランで寛ぐ二人はすっかりコーヒーの無料おかわりサービスが気に入った。
「そんなつもりで車を作った訳でもないさ」
秀雄が答える。だが内心では試してみたい熱意もある。その場に臨んだら心臓が高鳴って勇気が出なかったのだ。
「そういえばさ、自動車評論家が出してる間違いだらけの何たらって本知ってるかい?」
「うん、本屋でパラパラと立ち読みしたことはある」
「あの本だとさ、車はスタイルなんかよりも実用性が一番で、その点から言えば俺たちの愛車ってお勧めになるよな」
馬鹿言ってるなと秀雄は笑った。
その時、秀雄の後ろの席に居た男が声を掛けてきた。
「表のバンは兄ちゃんたちのかい?」
「ええ、そうですが?」
男の凄みに秀雄は敬語で答えた。
「ちょっとツラ貸してもらおうか」
と男が表を顎で示す。秀雄たちはビビリながらも平静を装って男について行った。出来れば逃げたいが車を置き去りにすることも出来ない。
秀雄のサニーバンの隣には、同じオフホワイトのスカイライン4ドアGT-Rが停められている。
「このサニーの色よ、俺に喧嘩でも売りたいのかよ」
男は眉を吊り上げて腕まくりする。
「俺は鷹応、網元の息子の鷹応壮一だ。この町に住んでりゃ名前くらい聞いた事あるだろ」
「ちょ、ちょっと待って下さい」
亘が慌てて仲裁に入る。
「こいつはあなたに喧嘩売ってる訳じゃないです、むしろあなたに憧れてるくらいで、そうだろ秀雄」
「う、うん…」
秀雄は震え上がって声もかすれている。
「こいつの家は梶谷自動車で、ご存知ですよね?整備工場」
「うん?ああ」
「こいつは家で時たま整備に入るあなたのGT-Rに惚れ込んでしまって、でもこいつの稼ぎではとても手に入る代物では無いし、だったらせめて色で気分を上げたかったらしくて」
亘の助けに秀雄は激しく頷く。
「ほう?だったら当然整備担当は知ってるよな」
「す、杉田さんです」
秀雄はかすれる声を絞り出した。
「そうか、まんざら嘘でもなさそうだ。だったら最初に挨拶くらいよこしゃいいのによ。悪かったな勘違いして」
鷹応壮一はニコリとして腕まくりを戻した。
「お詫びに何か奢るからよ、店に戻ろうぜ」
秀雄はホッと胸を撫で下ろす。切っ掛けはともあれ、とんでもない人物と顔見知りになったものだ。
4
町内の集会所では話し合いが熱気を帯びていた。
「それで網元よぉ、製鉄所への立ち退き要求は進んでいるのかよ」
漁師たちのグループから声が上がる。
「その件だが、弁護士の先生の話では製鉄所による被害の実態把握は相当に難しいらしいのだ。魚が減るほどの海の水質汚染などがあるのか?仮に汚染が測定されたとして魚との関係性をどう証明するのか?さらに汚染が製鉄所の原因であることを証明するのは極めて困難と言っている。だったら前向きに漁業権の放棄を考えた方がワシはいい気もするのだ」
網元の鷹応源太郎が文書を読みながら台上から答えた。
「そりゃ網元はいいさ、漁業権放棄すりゃ一生遊んで暮らせるほどの補償をもらえるんだろ?俺たちはどうだ、補償なんて雀の涙で終わるだろうさ。その後の生活はどうするよ、網元が食わせてくれるのかよ」
「その件に関してだが、製鉄所の方で雇い入れてくれる契約が提案されている」
会場がざわめいた。収入の保証されない漁業よりも、安定した給料をもらう生活は安心感がある。
「ちょっと待てよ、金の問題じゃねえだろ。俺たちの故郷がどうなってもいいのかよ」
若い漁師が立ち上がった。源太郎は答えに詰まって口ごもる。
「こっちから言わせてもらえば…」
商店街の代表が発言する。
「製鉄所のお蔭で町は活気付いて我々はとても恩義を感じている。それをなくせと言うなら漁師さんたちよ、それこそ我々の生活をどうしてくれるつもりだ?」
そうだ、そうだと飲食店などが賛同する。
「まあ慌てることもないから、漁業権については前向きに考えてはくれんかね」
源太郎はそう話をまとめた。当面結論を出すのは難しそうだ。船を貸し出している連中は強引に従わせることも出来るが、自分の船を持っている者に強制は効かない。
「それよりよ、製鉄所が顔を出さないのもおかしいじゃねえか。今度はちゃんと呼んでくれよな、網元」
源太郎は分かった分かったと頷いて会合を終えた。
5
朝、駐車場に停められた車を見て、秀雄はワクワクしながら職場である事務所に入った。
「お帰りなさい、柳さん。東京はどうでした?」
柳恭一は秀雄の直接の上司で、係長だ。屑鉄を受け入れ、溶鉱炉で精錬するまでの担当をしている。今年係長に昇進した恭一は管理者研修とやらで1週間東京に出張していた。久しぶりに目にした赤系の派手なグラデーション塗装のフェアレディ240ZGこそ彼の愛車だ。
親元を離れて寮暮らしの恭一は給料の大半を愛車につぎ込んでいる。クニさんの手で中身も外観も生まれ変わった怪物だ。
「まあとにかく人が多くて、電車は身動きとれないすし詰めで、それだけで疲れたよ。研修も当たり前みたいな話ばかりだしな」
恭一は軽く溜め息を吐く。
「じゃあ辛抱の1週間でしたね、お疲れ様でした」
「まあそれなりに楽しみもあったけどね」
恭一は意味ありげに笑った。
製鉄所で精製した鉄材は、主に建築資材などに使われている。安定した業種ではあるが、社長の金本がここに製鉄所を建てた狙いは別にあった。大手の造船所が近くに操業していて、そこに納めることが出来れば売り上げは桁違いになる。だが造船所の要求は品質、価格ともに厳しく、金本はコストダウンに頭を悩ませていた。手っ取り早く稼働率を上げるなら交代勤務による24時間態勢がいい。どの道、溶鉱炉を止めることは出来ないので常に火が入っており、夜勤の見回りを行っているのだから。
単純に考えれば24時間操業は3交代制が必要で、今の3倍の人員が要る。幸いなことに増員については網元と検討中だが、これを機にできるだけ人手を減らす効率化も進めたい。金本はそのためにやる気のありそうな若手を中間管理職に抜擢していた。恭一も金本のお眼鏡にかなった一人だ。
「社長、ちょっとよろしいでしょうか?」
そう言って部屋に相談に来たのは総務課長だ。
「何だ?」
金本は威厳を示すように椅子に踏ん反り返る。
「実はですね、その、最近通勤車両に違法改造車がチラホラ出てきまして、来客者が駐車場に停められた改造車を訝しげに眺めている感じがしまして、その、この先造船所の来社でもあった矢先には早々に手を打っておいた方がよろしいかと…」
総務課長は手を捏ねながら告げた。
「そんなことか。キミに任せるから何とでもしたまえ」
ありがとうございますと総務課長は深々頭を下げた。
掲示板に張り紙がされたのはその日の午後のことだ。
「違法改造車での入場を今後一切禁ずる 総務課長」
車に全く関心のない中年の総務課長はそれで事が全て済んだ気でいた。ところが話は予想外の展開を迎えていく。
7、8人の集団が職場を抜けて総務課にやって来て、張り紙の撤去を求めた。
「ああ、ダメだダメ。さっさと職場に戻って仕事に就きなさい」
総務課長は相手にする気も示さない。
「不満があるならさっさと辞めてくれていいのだよ」
この一言が若者たちに火を付け、その日の就業間際にストライキ宣言が出された。
翌日、製鉄所は水を打った静けさだった。一部の車好きの若者たち、改造車を楽しむ者も、これから改造を考えている者もストライキを実施して出社を拒んだのだ。それにより生産は滞り、総務課長は社長の苦言を受けることになった。何としても事態の収拾を図らなければ自分の首が危ない。
困り果てた総務課長は恭一の元に相談に来た。恭一も渋々通達に従って、今朝は巡回バスを利用して来た。
「分かりました。彼らと話してみますよ」
恭一は総務課長から体良く仕事を投げられた形だ。
勤務を終えた恭一は、出社を拒んだ面々を食事処へ呼び出した。
「あんな一方的な話はないでしょ、好きな車で通えるから勤めてるようなもんなのにさ。恭一さんだってそうじゃないすか?」
確かにその通りで、総務の通達は恭一のやる気にも水を注している。意見をまとめた結果の妥協案として、目立つ車は表の駐車場には停めずに、裏手の限られたスペースに停めるということに落ち着いた。恭一は話をまとめることで社長の心象を良くしたい思いもあったが、全て総務課長の成果として横取りされた。まあ会社とはそういうものだ。
問題は完全に解消された訳ではなく、新たな争いを生むことになる。製鉄所の裏手はそれほど広くなく、せいぜい10台の車が停められる程度だ。それではとても全ての若者たちの要望には応えられない。優先権をどう決めるかという話になり、速い奴に権利があるだろう、週末のゼロヨンレースで上位の者から駐車権を得ようとなった。
6
金本には一人娘の奈美子が居て、今は東京の短大に通っている。金本としては目の届くところに留まらせたかったが、奈美子のおねだりには逆らえない。今のうちは自由にさせておいて、あと数年も経ったら一流大学出のサラブレッドとでも結婚させるつもりだ。美奈子はそんな金本の胸の内を察していて、何とか逃れたい気持ちで一杯だ。とりあえず東京のマンションを借りてもらって短大生活を謳歌しながら将来を模索している。といってもすでに彼氏と呼べる相手が居るのだが。
恭一の東京での秘かな楽しみは、その美奈子との密会だった。二人は帰郷した美奈子が恭一の美しいフェアレディに見とれたことから付き合いが始まったが、高卒の恭一では金本の許しを得るのは難しく、自然と隠れた交際となった。
恭一はあまり目立つ事はしたくなくて週末のゼロヨンから遠ざかっていたが、愛車で通勤できなくなるのは御免だ。秀雄も亘も新人だからといって遠慮する気持ちはなく、ゼロヨンレースはこれまでにない活気を帯びることになった。
国産の市販車はゼロヨンで20秒を切れれば速い部類で、トップクラスの鷹応壮一のGT-Rで16秒フラット。公称値の市販車最速は意外ともいえるいすゞのアスカで、15秒3を誇っていた。だが当然ながら改造車はそんなレベルではない。
ゼロヨンの鍵を握るのはタイヤのグリップである。駆動輪が太ければそれだけ接地面積に有利なため、上位を狙う面々はこぞって手軽に手に入るダンロップCR88を装着した。秀雄も亘ももちろんだ。
夜の防波堤で秀雄は初めてゼロヨンレースのスタート位置に並んだ。相手は製鉄所でたまに見かける男だが名前はよく知らない。510ブルーバードに乗っていて秀雄のサニーバンを見て明らかに見下しているようだ。秀雄はスタート合図に集中してアクセルを煽りながらタイミングを待った。スターターの腕が振り下ろされると同時にクラッチミート、まずまずの出来だがブルーバードがわずかに前にいる。秀雄がA12改を10,000回転まで引っ張ると先にシフトアップしたブルーバードを後方に置き去る。素早く2速、3速と繋ぎ、サニーバンはブルーバードに快勝した。
その後も秀雄は亘とともに勝ち進み、結果的に3位に食い込んだ。優勝は恭一のフェアレディ240ZG、亘は4位だった。2位に割り込んだのは漁師の村井が駆るフェアレディSR311で漁師たちの意地を見せた形だ。鷹応は出場せず、遠巻きにストップウォッチでタイムを計っていた。
「240ZGが13秒9で、村井が14秒1か、まあそんなところだろうよ。あの小僧のサニーが14秒3とは驚いたぜ」
鷹応は出走を見送って正解だった。GT-Rは速いとはいえほぼノーマルだ。ワイドタイヤを履かせたところで14秒台は難しい。だが鷹応はそんなことは気にも留めていない。彼の得意とするのはワインディングでの速さだからだ。
「とりあえず安泰だな」
亘が秀雄に話し掛ける。秀雄も安堵の笑いを返した。
7
総務課長は金本の名代として製鉄所代表の立場で町の集会に呼ばれた。ここ数週間で製鉄所から5人の若者たちが辞め、食い凌ぐために漁師たちの手伝いを担っている。彼らが辞めたのは車で通勤できなくなったためだ。そんなことでと思うだろうが、若者たちにとって愛車との暮らしは何よりも大事なことなのだ。5人は漁師側の立場で集会に顔を出していた。
漁師達から総務課長に矢のように質問が飛ばされるが、総務課長はしどろもどろで何一つ答えにならない。5人の若者たちはあんな奴のせいで将来を失ったと思うと腹が立ってきた。何とか仕返しを見舞ってやりたい。
集会をはぐらかして終えた総務課長は、その足で秀雄の実家、梶谷自動車に立ち寄った。
「何とかうちの従業員の車への違法改造を止めてもらえないだろうか?お宅にとってうちは上客じゃないかね?なんなら今度町にトヨタのディーラーが出来るそうだから、従業員たちにそっちを斡旋してもいいのだよ」
総務課長はそもそも違法改造を出来なくすれば問題が解消していくだろうと短絡的に考えた。茂はフッと笑いを浮かべる。
「何様のつもりか知らないが俺のところの経営方針に口出す権利はないだろう。うちはアンタの会社と契約してる訳じゃなくてうちに来る客がたまたまアンタのところの従業員ってだけだ。トヨタだろうが何だろうがやれるもんならやってみな、痛くも痒くもないぜ」
実際のところは茂も危ない橋を渡っている。車検認証工場の認可を利用して、車検場では合格しないような改造車も書類審査で通しているのだ。それが表に出るのは死活問題になるから内心は冷や汗ものだ。だが車好きの若者たちの気持ちは良く分かる。この国の厳しすぎる車検制度から守れるものは守ってやりたい。総務課長は踵を返して立ち去った。
「すみません鷹応さん、Zに負けちまって」
SR311の村井が鷹応壮一に侘びを入れる。
「いや、上出来だぜ。あのZは別の形でいずれ俺が倒す。ゼロヨンじゃ無理だがな」
「頼みますよ、製鉄所で働く奴らに恨みはねえが、製鉄所の俺達に対する対応にはイラつくばかりだ。せめて車勝負ですっきりしたいっすよ」
鷹応を囲んだ若い漁師たちが口々に思いをぶつけた。鷹応はそろそろ動く時だと感じた。
秀雄と亘は鷹応に呼び出されて緊張の趣きでファミレスに向かった。鷹応は既に来ていて、向かい合った席に座るよう促す。
「この前のゼロヨンな、見事な走りっぷりだったぜ。まあお前らが製鉄所側の人間だとはちょっと驚いたがな」
「いや、隠してた訳じゃないんですけど、何となく言いそびれて、どうもすみません」
亘が頭を下げる。
「勘違いするなよ、別に怒ってる訳じゃない。むしろ橋渡しが出来たようで嬉しいんだ」
秀雄と亘は顔を見合わせてホッとする。
「まずはよ、正直お前たちの車には敬意を払うぜ。見た目からは想像も出来ねえ速さだ。特に秀雄よ、あのサニー自分で仕上げたそうじゃねえか、杉田さんから聞いたぜ。そのうち俺の車も見てくれや」
「は、はい、喜んで。しっかりと勉強しておきます」
「俺もチューニングに関心がねえ訳じゃねえんだが、変な不文律があってな。GT-RのS20とトヨタ2000GTの3Mは特別でオリジナルを保つ事に意義があるってな」
それは秀雄にも伝わってくる。ほとんどが手組みの芸術的エンジンは日本の宝だ。
「それはそうと、今日はお前らにちょっと頼みがあってよ」
鷹応は切り出す。
「例の240ZG、ドライバーに話を付けられるか?」
「は、はい。僕の上司ですので」
秀雄の答えに鷹応はホウっという顔をした。
「そいつは手っ取り早いぜ。俺はそろそろどっちが町一番の走り屋か決着を付けてえと思ってる。やるからにはゼロヨンなんてつまらねえ形じゃなくて、ワインディングのレースでな。テクニック勝負といこうと伝えてもらいてえ」
秀雄は期待に胸が膨らむ。おそらく自分を含めてみんなの最大の関心事だ。
「いつがいいんですか?」
「それはそっちに任せる。俺の方はいつでもいいぜ」
秀雄は翌日、恭一に鷹応の話を伝えた。
「分かった。OKだと伝えてくれ。日時はそうだな、来週の週末でどうだろう?一つ条件があるんだけど、この件はなるべく内密で公言しないでもらいたい」
恭一は今はなるべく車のことで目立ちたくなかった。
8
美奈子が試験休みを利用して、週末に帰郷して来た。恭一は特急の停まる隣町の駅まで迎えに行き、ファミレスで甘いひと時を楽しむ。
「私ね、パパにあなたとのこと打ち明けてみようと思うの。いつまでもこそこそ会うのは嫌、堂々と腕を組んで街中を歩きたいわ」
恭一は半分不安を感じながらも美奈子に任せることにした。
「ありがとう。俺も社長の信頼を得られるように頑張るよ」
「何だと!」
金本は美奈子の報告に声を荒げた。
「誰だ相手は?ちゃんとお前に相応しい奴なんだろうな。どっちにしろ俺は大手を振って受け入れることは出来ないぞ、お前はまだ学生だし、早過ぎる。社会に出て冷静になれば分かるだろうさ。心配するな、そのうちお前にピッタリの男を見つけてやるさ」
「何よ、私はもう子供じゃないわ、そんなこと言うならもう家を出て行くから!」
美奈子は泣きながら家を飛び出し、恭一のもとへ行った。恭一は泊めてやりたいところだが立場上寮でそれは出来ない。とりあえず駅前のホテルに美奈子を頼み、喫茶店で宥めた後にその夜は別れた。
翌日、予定を切り上げて美奈子は黙って東京へ戻り、恭一は気になって仕事も手に付かなかった。
製鉄所では若手の退職と欠勤が相次ぎ、24時間稼動が必要な恭一の職場は完全に人手不足に陥った。規則上夜勤は二人組で行い、夜勤前後には休養が求められる。だがそれでは昼間の人員を確保できないのだ。恭一は総務課に相談したが当面何とか回してくれと言うばかりで話にならない。渋々社長の金本に直談判した結果、労働基準に従う必要のない課長以上の管理職が夜勤人員として補填されることになった。とはいえどの課長も本業に穴を開ける訳にもいかず、結果的に総務課長が一人で担うことになった。総務課には課長代理が配置されているので不在でもそれほど支障は起きないからだ。最初補佐として夜勤を始めた総務課長はすぐに自分一人で夜の工場を見守ることになった。というのも仕事自体は一定時間毎に計器類をチェックして数値を記録することと、現場を一回りして異常がないかを確認するだけで難しいことはない。異常があった場合にはすぐに恭一へ緊急連絡を行うことになっていた。
公私ともども綱渡り的な1週間を過ごして、恭一は鷹応との対決の日を迎えた。
9
港の外れ、岬へ向かう海岸沿いのワインディングロードに鷹応のスカイラインGT-Rと恭一のフェアレディ240ZGが並ぶ。この道はこの時間、他の車が通ることはなく、車線は完全に無視できる。恭一の要望で秘密にされたため、この世紀の対決のギャラリーはスターターを務める秀雄と亘だけだ。その上防波堤ではゼロヨンが行われていて、大半の車好きはそこに集まっていた。
「俺はほぼ毎晩ここを走りこんでいて、目を瞑ってでも走れるくらいだぜ。そんなハンデがあってもいいのか?」
鷹応が確認する。
「俺も毎日通勤で往復してる庭みたいなものさ。全てのコーナーや路面の凹凸も頭に入っている」
恭一の答えに、そうかと鷹応は頷いた。
「レースはここから同時スタートで岬の突端がゴールだ。先に着いた方が文句無く勝者、分かりやすいだろ?」
「ああ、準備は出来てる、始めようじゃないか」
秀雄が2台の前のセンターラインに立ち、確認する。ヘッドライトを煌々と照らし、アクセルを煽りながら鷹応と恭一は秀雄の合図に集中した。腕が振り下ろされ、強烈なホイールスピンとブラックマークを残して2台は秀雄の両脇を抜けていく。秀雄は下手に動くと危険なので目を閉じて身動きを避けた。焼けたゴムと焦げたオイルの匂いが鼻をくすぐった。
加速に優れた240ZGがGT-Rを抑えて先にコーナーに飛び込んでいく。鷹応は無理することなく恭一の真後ろにピタリとGT-Rを付けた。曲がりくねったこの道はほとんど直線などなく、車の性能よりもコーナーリングのテクニックが問われる。絶対的な自信を持つ鷹応は何箇所かの追い越しポイントに備えてまずは恭一の走りを観察した。基本に忠実なアウトインアウトのライン取り、最速ラインをトレースしながらも鷹応に飛び込む隙を与えずに巧妙にブロックしている。並みの腕ではない、このままでサーキットレースでもかなりの成績が望めるだろう。
「だがここは公道なんだよ」
鷹応はそう呟きながら、ヘアピンの手前でやや車間をあけ、ブレーキングしながらステアリングを切ってアクセルを煽り、GT-Rを横向きにした。ドリフトだ!アウトに寄った恭一のフェアレディに添うようにイン側に並ぶと、後輪を軽く滑らせながら小回りにヘアピンを抜けて、鷹応は恭一の前に出た。抜き返そうとする恭一に対して鷹応はコーナー入り口で両車線を塞ぐように車を横向きに滑らせ、完全にブロックしていく。このままブロックし続ければ鷹応の勝利だ。恭一は初めての難敵に急いで対策を思案する。製鉄所を大きく回りこむコーナー、あそこが勝負どころになるかもしれない。道幅が広くなっているから鷹応のドリフトブロックでも隙ができるはずだ。少し落ち着きを取り戻し、恭一は鷹応を追走する。
「あの走りを続けたらタイヤがもたないかもしれないな。岬の突端手前の終盤に向けて俺はタイヤを温存しよう」
そう自分に言い聞かせた恭一は、遥か前方に光を見た。2台の車のヘッドライトのようだ。予想もしなかった何かに不安を覚える。鷹応は気付いているだろうか?
鷹応もチラつく光を確認していた。岬に向かって走っているようだ。十分な距離があるから勝負に支障をきたすことはないだろう。
製鉄所の敷地に乗り入れた2台の車から5人の男たちが降りる。例の退職した若者たちだ。
「間違いないんだろうな?」
「ああ、毎晩総務課長が夜勤を請け負ってるって内部情報だ」
「よし、見てろよ野郎」
男たちは勝手知ったる工場の横に忍び込む。ゴミ箱を開けると灯油を染み込ませたボロ布に火をつけて投げ込む。火はしばらくゴミ箱の中身を燃やした後、一挙に火勢を増した。
「やべえ、逃げるぜ」
工場の中、溶鉱炉監視室では総務課長がシャツ1枚で寛いでいた。規則では防火服を着ることになっているが、そんなもの暑くてたまらない。灼熱で溶かされた鉄は室温をサウナのように上げ、エアコンをフル稼働しても40℃を下回ることはないのだ。ここ数日で総務課長はすっかり慣れ切っていた。やって見ればこんなに楽な仕事はない。見回りを済ますと椅子に座って雑誌を眺めているうちに居眠りを始めた。
ゴミ箱の火は建屋に燃え移り、溶鉱炉の熱に加勢されて瞬く間に火の海になった。総務課長は元々の室温の高さに加えて居眠りで周囲の火に気付く事が出来ず、逃げ場を失っていく…。
レースは拮抗しながら勝負どころにさしかかろうとしていた。製鉄所に向けて大きく回りこんでいくコーナーだ。鷹応は例によってGT-Rを横向きにしてブロックするが、インに隙間が生じている。恭一はここぞとばかりにそのイン側の隙間にフェアレディZをねじ込ませた。鷹応はその動きも想定していた。巧みにドリフトをコントロールして進路を塞ぎにかかる。だが微妙な狂いが出た。タイヤを酷使したあまり予想以上にリアが滑ってアウト側へずれたのだ。加えて鷹応の予想を裏切ったのは、恭一もドリフトにでたことだ。鷹応と同じ方向に鼻先を向けることで広い道幅に2台が並走する形になった。恭一は上回る加速力で鷹応を一気に抜き去りにかかった。その時だ、製鉄所の炎が目に飛び込んできた!恭一は急ブレーキを踏む。スピンしそうになるフェアレディZを捩じ伏せて製鉄所の正門へ滑り込んだ。鷹応はそれを横目で見ながら通り抜ける。このまま岬の突端まで走りきれば自分の勝利だ。だが…
「チッ、バカヤロウが!」
吐き捨てるように舌打ちすると鷹応はGT-Rをスピンターンさせて、恭一に少し遅れる形で製鉄所へ入った。
燃え盛る工場の建屋の前で5人が呆然と立ち尽くしている。
「何をやってる!総務課長はどうした」
詰め寄る恭一に男たちは建屋を指差した。
「なんてことだ…」
考える暇もなく恭一は無我夢中で燃える建屋へ駆け込んだ。袖で口を塞ぎながら監視室へ向かうと倒れている総務課長を見つけた。恭一はドアを蹴破り総務課長を背負って工場の出口に向かう。だが火柱に煽られて恭一は倒れ込み気を失った。
「おい、奴はどうした?柳恭一だよ!」
鷹応が表の男達に叫ぶと建屋を指差している。
「何てことだよ、てめえら黙って見ているしか出来ねえのかよ!」
鷹応は外の水道を見つけると蛇口を捻り、ホースから飛び散る水を頭から浴びた。
「逃げるんじゃねえぞ!」
男たちに吐き捨てると燃え盛る工場へと飛びこんで行った…。
10
恭一は意識を取り戻して薄っすらと目を開ける。ぼんやりと真っ白な世界が広がっている。
(俺はどうしたんだっけ?そうだ火に逃げ遅れて…するとここはあの世ってやつか?)
突然誰かの覗き込む顔が映った。
(ん?美奈子か?)
「…さん、恭一さん、良かった目を覚ましたのね」
美奈子が涙を浮かべている。自分は何処かで横たわっているようだ。
「ここは?」
「病院のベッドよ。この人があなたを救い出してくれたの」
美奈子の横には鷹応が居た。
「バカヤロウが、無茶しやがって」
見回せば職場の仲間たちも遠巻きに恭一のベッドを囲んでいる。
「あと数10秒遅かったらお陀仏だったぜ、幸いにも工場の入り口間際に倒れててよ、背中に背負ってた奴が上手い具合に覆い被さって火からアンタを守ってくれてた。そいつは炭になっちまったがな」
鷹応が説明する。
「どうやら製鉄所を辞めて漁の見習いやってた5人組が何考えたか放火したらしい。警察で事情聴取とやら受けてるぜ。火はなかなか消えなくてよ、消防もこんな火事初めてだから手に負えなくて、結局3日3晩工場を燃やし尽くしちまった。残ったのはでっけえ鉄柱に吊り下げられた巨大な壷だけよ。頑丈で良かったよな、あれが倒れていたら大変なことになったらしいぜ」
恭一は3日以上意識を失っていた事になる。
「本当に良かった!私もうパパが何と言おうとあなたから離れないから」
美奈子が泣きながら恭一の手を握った。
製鉄所は現場検証のために操業停止になったが、どのみちそんなレベルではない。事務棟を残して全焼し、全てが無くなっていた。焼け死んだ総務課長が連続夜勤をしていたことが判明し、勤務状態に問題がなかったかを調べるために本来なら必要ない総務課の資料調査もくまなく行われた。その結果、警察は思わぬ発見をした。帳簿を照らし合わせると工場で発生したスラッジと処理業者へ引き渡されたスラッジの量が合わないのだ。その消えたスラッジは敷地の裏山に埋められていた。処理業者への支払いを減らすために行われた違法行為だ。さらにスラッジは雨水で海へと流された跡があり、海底からはスラッジが検出された。条例に触れる環境汚染である。加えて粉塵処理にも問題が見つかり、大気汚染も判明した。金本はそんな事情は知らなかったようだが、引責を取らされて社長を退任するしかなかった。後釜をどうするか以前に製鉄所の復興自体を諦めざるを得なく、不謹慎ながら町の漁師たちは喜びの声を上げた。
保険に入っていたため、金本には多額の保険金が下りたが、金本は事業への熱意を失っていた。
「金はお前らにやる。何とでも好きにしろ」
と美奈子に通帳を渡す。お前らとは恭一のことを指すらしい。
まだ未定ではあるが、美奈子は恭一とともに町の人たちの声を聞き、自然を損なうことなくみんなが潤えるような事業をしていくつもりだ。
馴染みのファミレスで、退院した恭一と鷹応が向かい合っている。
「レースはよ、アンタの勝ちだ」
鷹応が負けを認めた。
「何言ってるのさ、俺は途中で棄権したんだ。レースはそっちの勝ちだろ」
恭一も鷹応に勝ちを譲る。同じ車に乗ったとしたら勝負にさえならないかもしれない。
「仕方ねえな、引き分けってことにしようぜ。十分に満喫したからな」
鷹応が周囲が振り向くくらいの大声で笑った。
離れた席では秀雄と亘が憧れの視線を送っていた。
完







