ペガサスの翼
第ニ部
夏の雨
8月だというのに梅雨のような冷たい雨が降り注ぐ。朝いつものようにオートサービス・アペックスの裏口を開けようとして、三隅は何気なく部品取りのために置いてあるスクラップの山に目を移した。昨日警察から引き取り手のない、燃えかすとなった紺色の残骸を運んできた。ユウサクの棺桶となったルーフR Turbo。警察から鉄屑屋に直送されて事務的に処分されるのが忍びなく、独断でトラックに積んできた。だが、事故の悲惨さを思い出させる焦げ跡にユウサクの面影が重なり、まともに直視することが出来なかった。これ以上ここに置く意味もない。明日あたり業者に買い取らせよう。そう考えた三隅の視界に人影が映った。ドキリとして思わず身構える。
「誰だ!」
膝を抱えて座り込んだ礼装の男はゆっくりと雨水の滴る頭を上げた。
「アキヒコ!・・そんなところで何しとる!今日はお前の兄さんの葬式だろうが。」
三隅はアキヒコの手を引っ張って立たせると、事務所に連れ込んでタオルを投げた。
「何時からここにいた。10分や20分じゃないわな。」
憔悴しきったアキヒコの顔を見れば相当長い時間雨に打たれていたことは歴然だ。
「昨夜か?」
アキヒコが力なく頷く。
「・・何で教えてくれないんです、ルーフを引き取ったこと。・・かすみが偶然見て、携帯で教えてくれた。いてもたってもいられずに、気がついたらここにいた。・・」
掠れる声でアキヒコが呟く。
「兄さんの愛した車・・俺を助けるためにあんな姿になって・・どんなに苦しかったか、畜生!」
ドンと拳を壁に打ちつける。
「ステアリングがな。」
三隅が暖かいコーヒーをテーブルに置きながら言った。
「ステアリングホイールだけが無傷で残っとった。お前の兄さんはまるでそいつを守るかのように抱え込んどったそうだ。」
奥から小径の皮巻ステアリングを持ち出すとアキヒコに渡す。
「これはお前が持つべきだ。形見としてな。」
アキヒコはぼんやりと手にしたステアリングホイールを見詰める。ユウサクのお気に入りだったナルディの茶色い皮巻。兄の汗が染み込んで10時の位置だけ黒ずんでいる。
「最後の別れをしてこい。サイズは合わんかもしれんがワシの礼服を着て行け。そのずぶ濡れよりはましだろ。急げよ、もう始まる頃だろ?」
アキヒコは三隅に背中を押されて着替えに向かった。
親族席の最後列に高野良子とともに座ったアキヒコは、弔問客に機械的にお辞儀を繰り返す。父、池谷宗太郎の怒りに震えた冷たい視線が頭から離れない。
『何故お前が死ななかった、俺のユウサクを返せ。』
言葉に出さない無言の訴えがアキヒコの心を締め付ける。かすみやリエの焼香にも気付かず、目線を落としてうな垂れる。
その日一日、別の自分に動かされるように過ぎ去った。葬儀場の係員の事務的な説明に従って骨を拾う。深い悲しみは涙さえ奪い去り、魂の抜け殻となった体が夢遊病患者のように母の後を付いて歩いた。
「大丈夫?今日はここに泊まりなさい。」
気が付くと横浜のマンションにいた。逆らう理由もなく、勧められるままに2年ぶりのベッドに身を横たえる。あの頃に戻れたら、浦安にさえ戻らなければ、兄さんを死なせることはなかっただろう。悔やんでも悔やみきれない事故はアキヒコの心の時計を止めた。
ビオンディ
「(ええい、ちくしょう!ルベンソのやつ何てことしてくれるんでい。)」
ピットのモニターで自分のチームのエース・ドライバー、クニレボヤン・ルベンソがバス・ストップシケインでブレーキングミスによるガードレール・キッスをしている姿を見て、ロベルトは無線のヘッドホンを投げつけながら怒鳴った。
ベルギー、スパ・フランコルシャン。公道を利用したこの山岳サーキットでは今、レース界最高峰のカテゴリーであるF1の練習走行が行われていた。午後には公式予選を控え、各チームともセッティングの煮詰めに慌ただしい。決勝用のセッティングをほぼ終え、ガソリンを数周分に減らして予選用の足回りを確かめようとした矢先、白と赤のビオンディのマシンに乗ったルベンソがマシンをクラッシュさせたのだ。
ビオンディはイタリアの弱小F1チームである。代表のロベルト・ビオンディは10年前までフェラーリ・チームのチーフメカニックだった。長年に渡る名門チーム不振の責を負わされ、お払い箱になったが、彼を慕う若手の優秀なメカニックたちも何人か彼の後を追うようにフェラーリを去った。ロベルトはF1への情熱を捨てきれず、足を棒のようにしてスポンサーを探しては相手が根を上げるほど通いつめて幾ばくかの資金援助をとりつけ、ついに自らの名を冠したチームを作り上げた。
しかし、いかに優秀なメカニックを抱えようと、現代のF1は空力が物を言う。トップチームは名のあるデザイナーを取り合い、巨大な風洞で実験を重ね、レギュレーションを睨みながらいかに効率よくダウンフォースを得るかに凌ぎを削っている。さらにはビッグ・メーカーのパワフルなエンジンを獲得できれば、多少空力が悪く、角度を立てた不恰好なウイングで無理やりダウンフォースを得てたマシンでも十分な戦闘力を持たせることが出来る。だが、ビオンディにはそのどちらもなかった。セカンドグループに属するチームの多くは、トップチームの作り上げたデザインを模写し、翌年コピーマシンを作り上げてそれなりの戦闘力を得るのが普通であり、利口なやり方と言えた。だが、ロベルトはそれを好まず、スラントさせたローノーズが主流になりつつある今年においてもハイノーズを頑固に押し通している。彼はまだこのスタイルの持つ可能性を捨てきれずにいるのだ。一向に成績の上がらないチームに資金は集まるはずもなく、ビオンディはギリギリの予算で運営されている。スペアカーを持つ余裕もなく、この期に及んでのマシンクラッシュは彼にこのグランプリを諦めさせるに十分だった。
タイトル争いは早々と決着していた。フェラーリを操る皇帝ミカエル・シュナイザーが通算4度目のワールド・チャンピォンを獲得し、コンストラクターズ・タイトルも同時にフェラーリにもたらせていた。かつての所属チームの復活はロベルトにとって喜ばしいことでもあるが、苦々しくもあった。プラクティスの時間を修理に費やし、予選をセッティングに費やした結果、ビオンディ・チームはかろうじて107%ルールをクリアしたものの、定位置と成りつつある最下位のグリッドを脱出するには至らなかった。シュナイザーの独走に終わった日曜のレースもいいところがなく、ルベンソは15位で完走したもののセカンド・ドライバーのミルフェインはレース中盤のエンジントラブルでリタイアしていた。メカニックの士気も上がらず、チームは悪循環に陥っていた。F1活動も今年限りとなりそうな気配に、ロベルトは両肩を力なく落としていた。
イタリア・ミラノのバーで、蓄えた口髭についたビールの泡を指で拭いながら、巨漢のロベルトは細身で銀縁眼鏡をかけた金髪の男にグチをこぼしていた。
「(なあ、マルコよ。分かるだろ、俺の気持ち。何もかもが裏目に出やがる。俺っちのマシンはもう時代遅れなんだろうな。今のF1はもう車じゃねえよ。ジェット戦闘機顔負けのハイテクオンパレードだい。トラクション・コントロールに頼るようになっちゃもうドライバーの腕は関係ねえよな。)」
「(あんたらしくないぜ、ロベルト。あんたがそんなじゃチームのみんなも燃えないだろ。俺を誘ったころの闘志はどうしたんだい?)」
マルコはマセラッティ時代にビオンディ・チームに誘われた。サスペンションのセッティングに天性の勘を持つマルコはロベルトにとって魅力的なスタッフ候補だった。
「(今からでも遅くねえ、俺に手を貸してくれよマルコ。俺にゃ分からねえ、どうしてお前がパソコン野郎になんかなっちまったのか。お前にゃスパナとドライバーがお似合いだ。その腕を鈍らっしゃもったいねえ。)」
ロベルトはマルコの肩に太い二の腕を回して抱き寄せる。
「(買いかぶりだよ。俺は市販車しかいじったことがない。レーシングカーなんて、ましてやF1なんて俺の手に負えないさ。)」
マルコはビールをグビリと飲み干した。
「(フェラーリは俺を首にして大正解だな。今や飛ぶ鳥も落とす勢い。黄金時代の復活でい。それに引き換え俺のチームときたらよ、みんなのテールを拝むしか能がねえ。俺が目指してたのはこんなもんじゃねえさ。ルベンソやミルフェインも遅かねえんだろうが、俺を感動させちゃくれねえ。別に勝てとは言わねえさ。だがよ、たまにゃメカを喜ばす走りをしたっていいじゃねえか。シュナイザーの目ん玉ひん剥いて見ろってんだ。)」
ロベルトはジョッキをカウンターにドンと叩きつけ、お代わりを要求する。
「(ロベルト、感動をもたらすドライバーに会いたくないかい?それとあんたが欲しがる空力の天才にもな。俺の願いを聞いてくれたらあんたの前に連れて来てやる。どうだい?)」
マルコが眼鏡の奥の目を光らせて言った。
「(そんな奴らが何処にいる。もうトップドライバーたちは来シーズンのシートを決めてるぜ。空力を操るデザイナーはもっと引っ張りだこでい。お前がそんな奴らを連れて来れるってんなら何だって聞いてやる。ただし金はねえぜ。)」
ロベルトは半信半疑でマルコの条件を聞いた。
「(来年の年明けに世界中のカー・メーカーを対象にスペシャル・イベントが開かれる。ドリーム・ラリーだ。マシンの制限は一切なし、掛け値なしの世界一決定戦さ。ぞくぞくしないかい?俺はそれにチャレンジしてみたい。あんたの協力をもとにさ。)」
「(おお、ドリーム・ラリーの噂は俺っちも聞いてるぜ。だがよ、マセラッティを辞めちまったお前がどうやって出ようってんでい。それによ、仮に出たって勝負になりゃしねえ。シュナイザーやWRCチャンプの貴公子マユニネンが出ることは確実でい。世間の興味はもっぱらあの二人のどちらが速いのかってことだろうよ。奴らに対抗できるドライバーなんていやしねえ。)」
ロベルトは呆れ顔で言った。マルコはその目を見つめ静かに答えた。
「(だから言ったろ、俺を感動させるドライバーに会えたんだよ。あいつには世界に通用する素質がある。あんたのF1のお古でいいから譲ってくれよ。俺の友達と新興メーカーを興す。あんたの名前を借りられりゃなおいいがね。俺と友達の夢は理想のスポーツカーを作ることさ。その大いなる第一歩だ。)」
「(ふうん。まあいいぜ。お前が本当にそんな奴を知ってるんなら俺の前に連れてきてみな。場合によっちゃ協力してやるぜ。だがよ、そんなに車が好きなお前がなんでマセラッティ辞めちまったんでい。)」
「(あんたと同じ。首になったんだよ。セッティングの方向付けで上と揉めてね。運転も出来ない奴に何が分かるって言われたよ。まあお蔭で良き友トオルに会えたし、ボーイ・アキヒコにも会えたんだ。2、3週間待ちなよ、お楽しみにさ。)」
マルコはそう言うと自分の倍ほどもあろうロベルトの背中をポンと叩いた。
誕生の記憶
葬儀から2週間が過ぎてもアキヒコは心にポッカリと大きな穴が開いた気分だった。目を瞑ればユウサクが微笑みかけてくる。しかし、もう二度と自分の前に現われることはないのだ。何をする気力も湧いて来ない。失って改めて自分の中でのユウサクの大きさを感じていた。
携帯が鳴った。相手は確かめるまでもない。間違い電話でもない限り唯一番号を知る人物は、電話の送り主かすみだ。
「どう、気分は。アキヒコ。」
心配そうな声が電話の向こうから聞こえる。
「何とか生きてるよ。」
「情けない声。おいしいものでもいかが?王子様。窓を開けて見てよ。」
アキヒコはアパートの窓を開けて外を見た。白いロータス・エスプリにもたれたかすみがいる。野球帽にサングラス、タンクトップとジーンズのボーイッシュなスタイル。ちょっと見には清楚で売るアイドルとは思えない。
「行きましょ。どうせすることもないでしょ。」
アキヒコはかすみの誘いに素直に応じた。
かすみの運転で二人はディズニー・ランド周辺のホテルの中華レストランに入った。かすみが予約してあった個室に通される。
「割とおいしいのよ、ここ。前に打ち合わせで利用したことがあるの。」
かすみはそう言うとおしぼりを取ってアキヒコに手渡す。
「また痩せたわね、アキヒコ。ろくに食べてないんじゃない?」
げっそりと頬のやつれたアキヒコの顔をしげしげと見てかすみが聞いた。かすみもかなりの細身だが、今のアキヒコとは比べものにならない位に健康的だ。
「何もする気が起きなくてね。」
アキヒコはポツリと呟く。
「そんなんじゃ私を守るなんて出来ないわよ。言ったでしょ?一生側にいて守ってくれるって。」
かすみの言葉にアキヒコは胸の奥を打たれた感じがした。そうだ、確かにその通りだ。
5、6点の料理が並んだテーブルからかすみが小皿に取り分けてアキヒコに勧める。脂っぽい料理は避け、あっさりとした魚が中心だ。フカヒレのスープを啜りながらかすみが言った。
「私ね、思い出した気がするの。昔のことを。」
アキヒコはドキリとした。かすみの育ての父、木暮教授の話が頭を過ぎる。あの悪夢の夜の。思い出しただけで冷や汗が出て心臓の鼓動が激しくなる。
「・・どんな?」
かすみが記憶を取り戻し、過去に慄きや不安を抱いたなら、それを取り除いてやらねばならない。出来る限り。
「私は施設の白い小部屋に閉じ込められていたわ。ヘルメットを被らされて。一人きりのはずなのに不思議と寂しくないの。ヘルメットから伸びたコードを通して隣の部屋の男の子といつもお話出来たから。」
かすみはアキヒコの手を握る。
《こんなふうにね。》
頭に直接響くかすみの声にアキヒコはビックリした。伊豆で見たユウサクの意識を思い出すと急にかすみに畏敬の感を覚えて背筋が寒くなる。
「ふふっ、驚いた?リエさんに、いえ、白布衣夜子に思い出させてもらったのよ。あの伊豆の朝に。」
「シラヌイノヤコ?」
アキヒコは耳慣れない言葉に思わず聞き返した。
「そう。リエさんの神名。彼女は巫女よ。知らなかった?」
2年近くも付き合っていながら、アキヒコはリエの素性をほとんど知らなかったことに気付いた。もともとアキヒコは相手の育ちや過去など気にする性質ではない。かすみとの間にしたってそうだ。彼女が自分から生い立ちを話さなければ未だに知らなかっただろう。そして自分の本当の過去も。
巫女と聞いて初めてアキヒコはリエの神秘的な不思議な雰囲気に納得出来るような気がした。夜静かな環境では寝られないからラジオを付けっ放しにすること、携帯電話が嫌いなこと、妙に勘が鋭いことなど、巫女としての霊感から来るものだったのだろう。
「全然知らなかったよ。そんなこと。でも何処の神社なんだろう、彼女の生まれは。」
アキヒコは独り言のように言った。
「神社とかそういうレベルじゃないわ。私もあなたも関係しているわよ、彼女の種族に。伊豆でルシフェルがあなたに突っ込もうとした時、彼女の意思が、とても強いテレパシーが私の記憶を揺さぶったの。その瞬間に忘れていた感覚を思い出したのよ。私も彼女と同じような能力を持っていた。そして自分に与えられた、いえ、もともとついていた名前も思い出したわ。白布衣日子、それが私の本来の呼び名。同時にあなたが朱羽煌雀であることも理解できた。」
「シラヌイノヒコにシュバノコウシ?それが俺たちの呼び名なのかい?いったい何の種族だって言うんだ。」
「それはまだ良く分からない。何か持って生まれた記憶みたい。だって妙なのよ、生まれた時の記憶があるなんて信じられないでしょ?」
「生まれた時だって?」
目の前の料理に手を出すことも忘れ、アキヒコは聞き返した。木暮教授の口から聞いた人口受精の悪夢が過ぎる。
「私は、そしておそらくはあなたも、とても神聖な場所で生まれたんだと思うわ。目を開けた瞬間に白装束で頭に赤い羽根を付けた人たちが何人も私のことを覗き込んでいたわ。古い木の香りと松明の灯り。そして白布衣日子という名前の記憶。」
かすみの言葉にアキヒコは目を見開いた。俄かには信じ難いが、彼女の記憶が本物ならば自分たちは実験道具などではない。れっきとした人間、いやもっと選ばれた存在なのかもしれない。胸の奥に重く圧し掛かった暗灰色のベールがどんどん取り除かれていく。
「他に思い出したことは?」
「残念ながら今はここまでよ。後はリエさんに聞いてみた方がいいと思うわ。でも、彼女よく耐えてるわ、こんな能力に。見えてはいけないものが沢山見えるのよ。夜は携帯も使いたくないわ。電波に引き寄せられて大勢の浮遊霊が集まってくるの。今まで見えてなかっただけだったんだわ。」
かすみの両腕の鳥肌は冷房のせいではなさそうだ。震える肩をアキヒコはそっと抱き寄せる。
「そうだわ、アキヒコ。父がお礼を言っておいてくれって。この間の脳波の件で。とても興味深いデータが取れましたって。」
かすみが話題を変えるように切り出した。
「そう・・。何か言ってた?脳波については。」
アキヒコは多摩にある木暮教授の大学病院で頭に電極を幾つも付けたシーンを思い出す。過去を聞く代わりに脳波を測定させる約束をしていたのだ。
「ええ、普段は普通の人と変わらないけど、ある条件下では右脳の働きが活発になるそうよ。運転をイメージした時と、もう一つは・・」
「もう一つは?」
「ふふっ、私が側にいる時ですって。」
かすみは顔を赤らめて嬉しそうに笑った。かすみが現われてからアキヒコは不思議な能力に目覚めだした。まるでスイッチを押されたように。自分たちはきっと運命に繋がれた特別な間柄なのだ。
「それとね、私の歌、ミッドナイト・パラダイスを聞くと大量のアルファー波が流れるそうよ。それがヒットの秘密かもしれないって父が言ってたわ。あと、私の方が今のところ右脳の働きは活発らしいわよ。」
かすみが自慢気に言った。
「フーン。お転婆ほど活発なのかもね。」
アキヒコは止まっていた心の時計が動き出したような気がした。かすみをからかう余裕も出て来た。
「それだけかい?」
「ええ、最後に変なこと言ってたけどね。最近あなたに変わった様子はないかって。あなたの脳波に妙な波形が混じってるとか。思わず笑っちゃった。だってあなたが二重人格者じゃないかって言うんだもの。」
新人アルバイト
アキヒコはうなされて目覚めた。またユウサクのルーフが宙に舞う夢を見た。あの伊豆の日以来車を運転するのを止めている。する気も起きなかった。体が負のエネルギーに支配され、塞ぎ込むばかり。鬱病とはこういうものかと他人事のように観察しながら、外にも出ない生活が続き、どんどん悪循環に陥った。昨日のかすみとの会話がアキヒコを暗い湖の底から引き上げ始めたようだ。みんなはどうしているだろう。アキヒコは自分に鞭打ってマウンテンバイクに跨った。
久しぶりに顔を出したオートサービス・アペックスにはミッチが遊びに来ていた。
「大丈夫かよ、アキ。ユウサクさんがあんなことになるなんて。ショックなんてもんじゃないよな。」
アキヒコをなだめるようにミッチが声をかける。
「ああ、心配かけて悪かったな。もう大丈夫さ。」
「本当かよ、お前の顔見てると俺まで具合悪くなりそうだ。その頬のこけ方は何なわけ?まるでギネスもんだ。まあいいや。それより知ってるか?アルバイトの子・・」
ミッチの話を遮るように横からお茶が出される。若い女性の手だ。アキヒコはチラッとその顔を見て驚いた。長い髪、細身の神秘的美人。
「その顔はお前、初めて見るんだな。リエちゃんだってさ。すごい美人だろ。お前には木暮かすみがいるんだから俺に権利ありだぜ。」
ミッチが少し顔を赤くして捲し立てる。一目惚れしたらしい。それに構わずアキヒコが聞いた。
「何故キミがここに・・」
「伊豆の一件以来何となく社長や長谷川さんと親しくなったの。ここならあなたにも会えると思って。」
リエが答える。
「ちょっと待てよ。またお前知り合いなわけ?何でお前ばっか、ちきしょう。」
ミッチがふてくされる。
「大学でちょっと知り合ったのよ、山田さん。高野さんに恋人がいらっしゃるのは私も知ってます。」
リエがミッチに微笑みかける。それだけでミッチの顔がだらしなく緩んだ。
奥から三隅と長谷川が顔を見せた。リエは軽く会釈して給湯エリアに下がる。
「どうして彼女を雇うことにしたんです?」
アキヒコが三隅に聞いた。かすみが居るとはいえ、かつては心を占めた恋人だ。わざわざ悩みの種を増やすようなことをしてくれたものだ。
「ちょっと頭が上がらなくてな、若い女に頼まれると。」
三隅は笑いながら答えたが、目の奥に怯えの光があった。
「随分久しぶりじゃないか、アキヒコ君。キミ宛に書留が届いててね。どうしようかと三隅さんと相談してたところさ。北山さんからだ。」
長谷川が封筒を差し出す。アキヒコはそれを受け取るとその場で開封し、中身を見て呆然とした。
「何?」
長谷川の問に答える代わりに封筒を渡す。中を確かめた長谷川も驚いた。
「小切手!300万ドル!」
伊豆のレースの賞金なのだろうか。こんな大金を無造作に送るなんて北山らしい。中に手紙も添えられている。
(先日は取り返しのつかないことをしてしまい、
本当に申し訳ない。
心からユウサクさんのご冥福をお祈りします。
同封の小切手は約束の賞金です。
私の個人的な金なのでそっと受け取って下さい。
ユウサクさんの元には別に香典を包ませていただいたので、
これはキミ自身に受け取っていただきたい。
北山 元)
覗き込んだミッチが声を上げようとするのを三隅が止めた。
「余計なこと言いふらすんじゃないぞ、お喋り。」
「うん。でも、アキの親父さんが気味悪がってたのを思い出したよ。1億の香典なんて聞いたこともないって。」
ミッチが言った。
「とりあえず受け取れよ、アキヒコ。」
三隅が封筒をアキヒコに握らせる。
「いえ、迷惑じゃなかったら預かって下さい、社長。自由に使って結構です。」
アキヒコが突き返す。
「自由にって、お前・・」
「キミがその気になるまで預かろう。そうしましょう、三隅さん。」
長谷川が割って入った。言い出したら聞かないアキヒコの性格はよく解っている。
「それより例の、マルコからの案内を・・」
長谷川が目配せする。
「おお、そうだ。あんたから説明してやってくれよ、長谷川さん。」
三隅はマルコからのメールを印刷したプリンタ用紙をテーブルに広げた。英語の文とともにカラフルな宣伝ポスターのようなものが一緒だ。
「いいですよ。」
長谷川が話し出した。
マルコの提案
「実は来年の正月、ドリーム・ラリーと称して世界中の自動車メーカーを対象に一大イベントが計画されているらしい。全てのモータースポーツがオフだから名だたるトップドライバーを擁して欧米の各メーカーが出揃うことだろうね。コースや競技方法は公表されていないけど、ドリームと言うだけあって車体やエンジンに対する制限は全くなし。まあ、多くのメーカーは市販車ベースを送り込むだろうけど、何社かは専用のスペシャルカーを用意することだろうな。お祭りとはいえ、優勝すれば実質世界のトップと認められるわけだし。もちろんドライバーにしてもF1あり、WRCあり、夢の顔合わせが予想されるよ。ヨーロッパ各国のファンは今からその開催を待ち望んでいるらしい。結構派手に宣伝してるようだよ。」
長谷川はカラフルな宣伝ポスターを見せる。何処かの噴水の前で世界各国のスーパースポーツカーをずらりと並べた写真をバックに(Dream is here)の文字が刷られていた。
「俺たちにそれを見に来いとでも?」
アキヒコは久しぶりに聞くマルコの名前に心が躍った。
「違うよ、参加してみないかってさ。」
「えっ!」
意外な話にアキヒコは長谷川の顔を、目を丸くして見る。
「だって今、自動車メーカーを対象にって言ったじゃないですか。」
「うん。僕もマルコにそう言ったよ。そしたらあいつ、新しいメーカーを作ろうだってさ。イタリアじゃ結構簡単に認められるらしい。日本ぐらいなものかな、認可が難しいのは。で、やるからには本格的に、勝つための車作りをしたいって。世界のトップ相手にさすがにペガサスじゃ厳しいものね。ユーロモデリングシステムズを巻き込んで、さらに僕にも教えない秘策があるみたいだ。」
「ほんとに夢みたいな話ですね。でも、ドライバーは誰を?」
アキヒコは世界のトップドライバーの顔をあれこれ思い浮かべて聞いた。
「何を変なこと言ってるんだよ。キミ以外誰がいるというんだい?キミがいるからこそマルコは動き出そうとしているんだ。取りあえず会わせたい人物がいるから、キミと僕にイタリアに来て欲しいってさ。」
長谷川が笑いながら答える。三隅もニコニコしている。アキヒコは急に暗い気持ちになった。
「折角の誘いだけど、俺は走る気力が湧かないんです。伊豆のあの極限状態でのバトルは今にして思えば最高だった。あの事故さえ起きなければ・・命を賭けてまで走る意味があったのか、そう思ったら急に自分が虚しくなって・・俺はあの時兄の骸を前に心に誓ったんです。もう二度と走るのは止めようと。」
「レースは、モータースポーツは残念ながら常に死と隣り合わせのもの。誰でも一度はぶつかる心の壁だ。それを乗り越えた奴が本物になれるという・・ワシも何人も今のお前のような奴を見てきた。あるものは潰れ、あるものはそれを踏み台に飛躍していった。結局は自分で乗り越えるしかない。お前の場合は早過ぎる体験だったかもしれんな。特に身内がああいうことになるとは・・」
三隅がなだめるように言った。
「急ぐ必要はないさ、ゆっくり見つめ直そうよ。それにキミが走らないなら僕らは諦める。キミの走る姿を見るのが一番の望みだからね。」
長谷川の言葉にアキヒコは首を横に振る。
「期待に沿えなくてごめんなさい。」
そう言うとソファーを立ち、ゆっくりと背を向けた。誰にも言えない秘密を抱えながら・・
アキヒコが出て行った後、奥からリエが長谷川に話しかけた。
「参加して下さい。願ってもないチャンスです。あの人は世界のトップに立つ必要があります。誰もが認めるトップに。資金は先程の小切手を使って下さい。私があの人を説得します。かすみさんの力も借りて。お金が足りなければ私が何とかします。最高の車を作って、あの人を頂点に。」
「また理由を聞いても頭が混乱するんだろうね。いいよ、僕らこそキミにお願いするよ。アキヒコ君の説得をね。車は任せて。誰もが驚く最高の車を仕立ててみせる。」
「一つ教えてください。それだけのイベントを主催するのはどういう団体ですの?」
「えーと、ああ、主催はモーター・スピリット。イギリスの雑誌社だね。協賛はタンデオンか・・」
リエの顔色が一瞬曇ったのに長谷川は気付かなかった。
アキヒコはペガサスのボディー・カバーを剥ぎ取ると、じっとその赤い車体を見つめる。意を決してドアを開け、ドライビング・シートに腰を沈めた。キーを差し込むと深く息を吸い込む。
『大丈夫、落ち着け・・』
自分に言い聞かせるとイグニッションを捻る。野太い排気音とともにペガサスのエンジンが目覚めた。アキヒコはクラッチを踏み込むとギアをローに・・その瞬間手足が硬直し、自由が利かなくなった。体が小刻みに震え、額に脂汗が滲む。ゆっくりと左手をシフトレバーから外すと硬直は解ける。左足を戻し、エンジンを切ると、暗い気持ちでペガサスを降りる。やはり錯覚ではなかった。伊豆からここまでペガサスを操りここに停めた瞬間、自分の役目は終わったと気を抜いた瞬間、この症状が現われたのだ。心に受けた傷跡は相当に深く、アキヒコから運転することを奪い取った。この症状は治る気がしない。アキヒコはマルコの誘いに内心強く惹かれながらも応えることのできない自分に苛立ち、ジレンマを覚えた。
切り口の謎
伊豆スカイラインに出来た不思議な穴は地元警察の手におえるものではなく、警視庁に委ねられた。穴自体は表向き小さな隕石が原因とされ、その日の内に舗装で埋められた。
ブルー・ドルフィン堤は、馴染みのチューニング工場でR34GT-Rのリア・サスペンションを一式交換修理した。破損したスプリングやダンパーは屑鉄屋に送られたが、密かに政府機関の研究所に引き取られた。
「例のものと同じだな、この切り口は。」
電子顕微鏡の画面を見ながら初老の研究員が言った。写し出されているのはGT-Rのスプリングの破片。
「ええ。何と言う滑らかさでしょう。これだけの高倍率でも全く凹凸が現われないなんて。それに正確な球面。コンピューターの計算で半径は1024mmとなっています。切り口の組織には何の変化も見られませんね。もの凄く鋭利な刃物で切ったような感じです。熱も何も加わった痕跡がありません。」
電磁顕微鏡に備わったX線マイクロアナライザーを操作しながら30代後半の女性研究員が答えた。
「ということは例の子供が、いやもう子供じゃないな。あれから15年も経つんだから。成長したあの5才の坊やが絡んでる可能性が高いな。あの研究施設の有様は凄かった。まるで空爆でも受けたような印象を受けた。だが爆撃ではあんな状態になりっこない。建物自体はそのままで中だけ損傷を受けるなんて。そして熱や爆風を受けた様子もない。まるで空間ごと消滅したような・・」
初老の研究員が腕を組みながら考え込む。
「どういう現象なのでしょう、主任。」
「皆目分からんな。接する物全てをまるで蒸発したかのように消滅させる。とてつもない高温下なら有り得るかもしれんが、そんな様子は微塵もない。私の凝り固まった頭では理解出来ない現象だ。キミはどう考えるね、広沢君。」
「ブラックホール・・なんてことないですよね。でも似てますわ。外側に吹き飛ばされるのではなく、内側に吸い込まれていく。境界線に接した物が原子まで壊されて吸い込まれていったとしたらどうでしょう。この想像を絶する滑らかさは原子単位で磨いたようなレベルですわ。」
「ブラックホール?存在は証明されつつあるが、ブラックホールというのは中性子星のなれの果てと言われている。我々には想像もつかないような、もの凄く質量の大きい星が、自分自身の重力に負けて、周りのものを全て巻き込みながら中心に向かって吸い込まれていく現象だよ。光や電波さえも逃げ出すことが出来ないから観測そのものが成り立たない。そんなものがどうやって地上に出現するというのだね?」
「申し訳ありません。ただの思いつきですから忘れてください。」
広沢女史は主任と呼ばれる初老の研究員に頭を下げた。
「ふむ。別に謝ることではなかろう。キミを責めてるわけじゃないのだよ。ブラックホール・・ふむ。キミは仮にブラックホールが現実にあるとして、そこに吸い込まれた物質がどうなると思うね?もはや物質としては在り得ない、我々が知り得る原子や電子を裸にして寄せ集めてもそんな質量には到底ならないのだから。だが、それが何かの入口だと考えたら・・」
主任研究員は、自分に芽生えた突拍子もない考えに口をつぐんだ。
潜む影
テレビの生出演を終えたかすみが控え室でメイクを落としていると携帯がなった。アキヒコだなと思ったが父、慶三からだった。夜はあまり携帯に出たくはないが、明るい場所なら大丈夫だろう。
「いい歌だ。若者の歌はよく解らないが、お前の歌は心が安らぐよ。」
「ありがとう、お父様。でもそんなこと言うために電話したわけじゃないでしょ。」
「ああ、高野君のことだが・・どうだい、変わった様子はないかい?妙に気になってね。」
「大丈夫よ。私の周りの色んなことが変わってしまったけど、変わらないのは彼の優しさだけよ。お父様。」
「だといいんだが・・彼の脳波をFFTという周波数解析にかけたところ、やはり何かもう一つの意識が潜んでいるように見えるのだよ。ほとんど見逃してしまうような微かな兆候だが。いや、私の思い過ごしならそれに越したことはない。余計な心配のようでね。それじゃ気をつけて帰りなさいよ、おやすみ。」
そう言うと慶三は電話を切った。かすみは慶三の言葉が気になりだした。アキヒコの言葉や仕草を一つ一つ思い起こす。大丈夫、今まで通り。何一つ変わりない。父親の思い過ごしだ。
日曜日、オートサービス・アペックスのオフィスにアキヒコを呼び出したミッチが問いかける。
「アキお前、車なんかもう乗らないようなこと言ってたよな。俺たちを騙してるわけじゃないよな。」
リエの出したコーヒーを啜る。リエは中野の住まいを引き払い、浦安に越して来ていた。本格的にここに陣取るつもりらしい。
「騙してどうなる。乗る気は起きないね。」
アキヒコはミッチの剣幕にちょっとムッとして答えた。
「最近ペガサスがC1に出没してるって噂だぜ、お前じゃなくて誰がいるよ。」
「何かの間違いじゃないのか?しょうがない隠していても何時かはバレる。来いよ。いいもの見せてやる。」
二人のやりとりに三隅たちが顔を出した。アキヒコはみんなをつれてペガサスの前に立つと、運転席に乗り込み、エンジンをかけた。
手足を突っ張り、蒼白の表情で小刻みに震えるアキヒコが叫ぶ。
「分かるか?乗らないんじゃない、乗れないんだよ。俺はもうステアリングを握れる体じゃないんだ!」
リエが優しくアキヒコの震える体を包む。懐かしい香りがアキヒコの鼻腔をくすぐる。
「わしも注意してりゃよかったな。」
オフィスのソファーに座った三隅は静かに切り出した。
「ペガサスの合鍵はオフィスにあるから、ここに忍び込めればアキヒコ以外の奴でもペガサスを動かすことは出来る。アキヒコが乗らんというんでワシも夜は早々と住まいに引き上げとったが、別に事務所を荒らした形跡もないし、本当にアキヒコ以外の奴がペガサスに乗ってるとしたら相当事情を知った人間だぞ。」
「確かめて見ればいいじゃないですか。今夜から交代で。」
リエが提案する。
「おっ、俺リエちゃんと一緒に見張りしたい!」
ミッチが興奮して立ち上がる。
「バカやろう。見張るのは男だけに決まっとるだろうが。」
三隅がミッチの頭を小突いた。
結局見張りにはリエも参加することにした。リエはかすみの事務所を通じて連絡を取り、夜はフリーだった彼女を呼び出した。かすみはやや遅れてロータスで駆けつけた。ミッチが美女二人に囲まれて鼻の下を伸ばしている。
「何となく嫌な予感がするの。だからあなたを呼んだのよ、ごめんなさい。」
リエがかすみに小声で言った。
「あなたがアルバイトしてるなんて全然知らなかった。私よりアキヒコといる時間が長いかもね。」
かすみが嫉妬交じりに言う。
「そんなつもりじゃない。アキヒコさんにはあなたじゃなきゃだめよ。気を悪くしないで。」
「あなたはアキヒコと付き合ってたんでしょ?そしてまだアキヒコが好き。いえ、ユウサクさんと一緒にいる時も心にはアキヒコがいたでしょ。伊豆で初めて会ったとき、私への強い嫉妬を感じたもの。」
リエは肯定も否定もせず、黙っている。
「何故アキヒコから身を引いたの?好きなのに。」
リエがかすみの耳元に答える。
「あなたが現われたのが分かったから。」
「えっ?」
「あのー、お取り込み中悪いんだけど、あれ見て。」
ミッチがペガサスを指差す。時間は午前0時。ペガサスの脇に立つ人影、暗くて誰かは分からない。
「行ってみましょう。」
リエが近寄ろうとするのをかすみが止める。
「待って、もう少し様子を見たいわ。私の車に乗って。」
ペガサスに乗り込んだ人物はエンジンを始動する。手馴れた感じだ。辺りを震わすアイドリングを続けた後、ゆっくりと車道に繰り出す。慌てた感じは微塵もない。泥棒じゃなさそうだ。
かすみはリエを助手席に乗せて、ロータスで後を追った。浦安インターから首都高に入る。湾岸から深川線を通ってC1へ。ミッチの言った通り、ペガサスがC1に出没しているという噂は本当らしい。C1に入るとペガサスはいきなり派手なテールスライドを繰り返す。周りを走る車は思わず道を譲る。そんなに速くはない。アキヒコの走りとは全然違う。何処かで見たような派手なドリフト・・かすみは思わず声を上げた。
「ルシフェル!!」
ギアを落とすと猛然と加速してペガサスに近づく。まともなら敵う相手ではないが、今はかすみのペースのが速い。直後に近寄るとパッシングを浴びせる。ペガサスはハザードで応え、早速コーナーに向けて車を真横にする。ロータスのヘッドライトで映しだされた運転席のその顔に思わずかすみは目をそむける。アキヒコ・・
待避所に車を停めるとかすみは携帯で父慶三に電話をかけた。頭がぐるぐる回りどうしていいか分からない。
「お父様をお願い、急いで!」
電話口に出た母親房江はただならぬ様子に慶三を起こした。
「どうしたね、こんな時間に。」
時刻は午前1時を指そうとしている。電波に引き寄せられた白い浮遊物が幾つかまとわり付いてくる。かすみは目を瞑って嫌悪感を振り払う。
「ごめんなさい、でもどうしていいか分からなくて。彼の、アキヒコの中にもう一人いるの。何故こんなことに?どうしよう・・」
「落ち着きなさい。今何処だね?」
「首都高の上、彼を追い駆けていたの。いえ、まさか彼だと思わなかったけど、彼だったの。」
「彼は、高野君は危険な状況かね?」
「危険よ!あいつが中にいて操ってるのよ。どうしよう・・」
「いいかい、よく聞きなさい。二重人格は稀に見られることだ。私も過去に何人か見てきている。だけど心配はいらないよ。今は刺激せずに見送りなさい。数時間で元の彼に戻るはずだ。その後で私の元に連れて来なさい。いいね。」
「そんな・・もし元に戻らなかったらどうするの?」
「大丈夫。高野君はしっかりした青年だ。意思も強い。今本来の自我は睡眠状態にあるだけだ。朝になれば間違いなく目覚めるよ。」
かすみは半分泣きながら、ゆっくり頷いて電話を切った。リエがかすみの手を強く握る。ペガサスは遥か先、このまま待てば1周して戻って来るだろう。だけどどうすることも出来ない。かすみはリエの肩に顔を埋めて声を上げて泣くと、涙を拭って言った。
「戻るわね・・」
