催眠療法

 

翌日かすみは全ての仕事をキャンセルした。事務所のベンツを自ら運転し、リエを乗せて朝7時にアキヒコのアパートの前で待ち受ける。ドアをノックするのはためらった。アキヒコの顔をした他人が出てくる恐怖。

8時前にアキヒコは出て来た。二人は車を降り、恐る恐る近寄る。アキヒコは二人に気が付き、声をかけて来た。

「やあ、おはよう。どうしたんだい?こんな時間に二人揃って。朝の寝起きを襲ったってやましい事なんかないぜ。」

「アキヒコよね・・」

かすみが上目遣いに言う。

「何言ってるんだよ、この顔を見忘れたわけじゃないだろ?この前会ってから何日も経ってないぜ。」

アキヒコが白い歯を見せて笑う。本人に間違いなさそうだ。

「何も聞かずに一緒に来て。一生のお願い。」

かすみのただならぬ気配にアキヒコの顔が曇る。

「何があった?誰かに不幸でも・・」

かすみはアキヒコの腕を引っ張り、ベンツの後に乗せる。リエを助手席に乗せると無言で車を発進させた。

 

2時間後、多摩の大学病院に着くと、かすみは受付で慶三を呼んでもらった。アキヒコは理由が分からず、怪訝な顔だ。受付嬢はやや緊張した面持ちで慶三の研究室の場所を手元の案内図で指し示し、直接行くように告げた。生の芸能人を目にする機会などそうあるものでもない。通りすがりの外来患者も徐々にかすみに気付き、人だかりが出来始める。

「急ぎましょう。身動き取れなくなったら大変よ。」

かすみは半分顔を隠しながら二人を連れて人込みを掻き分け、エレベーターで慶三の研究室に向かった。

 

木暮教授は部屋で待っていた。先日取ったアキヒコの脳波をプリントアウトして見つめている。ノックの音に、どうぞとかすみたちを引き入れる。

「本人に話したのかね?」

慶三がかすみに聞いた。

「一応伝えてはあるわ。でも昨夜のことは全然。」

慶三は頷くとアキヒコに向かってゆっくりと言った。

「高野さん、かすみには前もって話しておいたのですが、落ち着いて聞いて欲しいことがあります。ここにある、あなたの脳波をよく見て下さい。分かり難いと思いますが、右脳のベースラインに異なる周期の波形が見えます。コンピューターで周波数解析するともっとはっきりする。どうです、分かりますか?」

パソコンの画面にはアキヒコの右脳の脳波と、それを周波数分析した波形が出ている。周波数分析の方には小さいが確かにもう一つのピークが見える。

「これは二重人格の症状を持つ患者に稀に見られる兆候です。」

「俺が二重人格だと言うのですか?」

アキヒコはこの自分の何処が二重人格なんだと言わんばかりに教授を真直ぐに見つめる。振り返ると、かすみとリエの不安そうな顔があった。

「この前話した通り、少し前にお父様から知らせはあったの。でもそんな馬鹿なことって相手にしなかったわ。それが昨夜・・」

かすみは込み上げる涙を抑えて昨夜の出来事を詳細に説明した。アキヒコの顔色が変わる。

 

「・・ルシフェル・・何故俺に・・そうか!あの時、伊豆であいつが眠りにつく直前に肩を揺すって起こした時だ。あいつは触れたものに入り込めると言っていた。まさか俺に入ったなんて・・」

「お父様、これは普通に言う二重人格じゃないの。信じないでしょうけど別の人間が、いえもうこの世にはいない幽霊のようなものが彼の中に入り込んだのよ。どうしよう、放っとけないわ。」

かすみがうろたえる。木暮教授がその肩を摩りながら言った。

「高野さん、あなたさえ承諾すれば催眠療法を試みたい。強制的にもう一人の人格を呼び覚ますのです。そしてその人格が幻である事を理解させる。少し時間がかかるかもしれないがそれしかないと思います。」

その勧めにアキヒコはゆっくりと頷いた。

 

電極の付いたヘルメットを被り、座り心地のよい椅子にアキヒコは腰を降ろした。部屋の照明が落とされ、脳に微弱で周期的なパルス信号が送られ始める。5分も立つと自然に意識が遠のき、眠りに入った。隣で脳波を見ていた木暮教授が言った。

「波形が変わった。もう一人の人格が活動を始めたようです。」

スピーカーのスイッチを入れると話しかける。

「聞こえるかね、私は木暮慶三、医者の端くれだ。キミは誰だね。」

「俺はルシフェル。眠りを覚ますのは誰だ。」

アキヒコがゆっくりと目を開けて答える。その目は真っ赤に充血し、尋常な様子ではない。

「ルシフェル、聞こえる?何でアキヒコの中に居るの。パパの中に居なさいよ。」

かすみが命令口調で話しかける。本心は恐ろしくて震えている。

「その声は、こいつの女、かすみか。言っただろ、あいつはもう長くないって。こいつが運良く触ってくれて良かったぜ、おかげでうまく乗り換えることが出来た。あいつは今頃もう、くたばってるかもな。」

伊豆で話をした時とは全く口調もトーンも違う。凶暴さを隠そうとしない。

「とにかくそこから出て頂戴。入るのなら私の中に入ればいいじゃない。」

「馬鹿め。こんな居心地のいい体を易々と手放してたまるか。俺は女は嫌いだ。感情に押し流される生き物だからな。」

「ちょっと待って。」

二人のやりとりにリエが口を挟む。

「ルシフェルはアキヒコさんの潜在意識の持つエネルギーを吸収して急成長しているのだわ。あのやつれ方は普通じゃない。あなたにもあの異常なオーラが見えるでしょ。このままではアキヒコさんが危険だわ。巨大な意識に膨れ上がったルシフェルに生気を全て取られるか、朱羽煌雀が目覚めて抵抗するか、何れにしても生身の体が耐え得るものではないと思う。」

「どうすればいいの・・私には分からない。リエさん、悔しいけどあなたが頼りだわ。何とかならない?」

かすみが涙を浮かべてリエの手を握る。普段の強気の彼女はそこにはいない。

「一つだけ思いついたことがあるわ。とても危険な賭けだけど、ぐずぐずしている時間はなさそう。とにかくルシフェルは眠らせておいたほうがいいわ。」

リエはそう言うと木暮教授に頼んだ。

「今すぐ催眠療法を中止してアキヒコさんを目覚めさせて下さい。出来ますよね。」

「やってみましょう。」

教授は電極から送りつづけるパルス信号を止めると、スピーカーから曲を流し始める。かすみのミッドナイト・パラダイス。アキヒコの脳波にアルファー波が増え、ルシフェルの周波数が徐々に弱まる。

 

 

電波の誘い

 

その夜、かすみとリエは再びオートサービス・アペックスの物陰に停めたロータス・エスプリの中に身を隠していた。アキヒコを、いやアキヒコの体を操ったルシフェルが現われるのを息をひそめて待つ。1時間、2時間、緊張の時が過ぎてゆく。今夜はもう現われないかもしれないと思ったその時、ペガサスに乗り込む人影が見えた。時計の針は午前0時を回ろうとしている。辺りの静寂を破り、ペガサスの轟音が響き渡る。

首都高に繰り出すルシフェルをかすみは追った。見失わないギリギリの線で気付かれないように距離を置きながら。なるべくルシフェルには警戒させないようにしたい。チャンスは1度だけだと二人は覚悟していた。上手くいくことを祈るしかない。

C1の周回に入るとルシフェルのペースが上がる。派手に車を横に向け、交通量の減った都会のサーキットを楽しみ始める。かすみは必死にロータスを操るが、徐々にペガサスが遠ざかって行く。ルシフェルは完全にドライブというゲームに熱中しだした。

かすみは路肩に車を停めると、携帯を取り出してメモリーを呼び出す。リエに目配せを送ると、通話ボタンを押した。呼び出し音が鳴る。

『出て、お願い、出て。』

かすみの必死の願いに、呼び出し音が途切れた。やった、電話に興味を示したらしい。

「・・ルシフェル?」

かすみは念のため確認した。昼間アキヒコの携帯をそっと自分のバッグに入れ、夜、三隅に借りた合鍵でペガサスの助手席に電源を入れて置いておいたのだ。

「その声は、かすみだな。」

電話の向こうから声が聞こえる。アキヒコの声なのでまだルシフェルかどうかの確証はとれない。心地良い電波に引き寄せられて、かすみの周りに白い霊体がまとわり始める。

「気持ちいい電波でしょ、ルシフェル。」

再度かすみが呼びかける。

「ああ・・」

否定しない。やはり間違いなくルシフェルだ。かすみはリエを見てOKのサインを送った。

二人の女性は目を瞑ると意思を合わせ、アキヒコに意識を飛ばす。C1の上空から・・いた、ペガサス。

《煌雀様、朱羽煌雀様、目覚めて下さい!今を逃さずに。煌雀様!!》

二人分の強いテレパシーがアキヒコの頭を揺さぶる。真っ暗な意識に光る点が現われ、細い線となり、太さを増すと眩い光のカーテンとなる。アキヒコは一気にそのカーテンを開ける。

「ガガッ、止めろ、俺を追い出すな、こいつ・・」

言葉が消え入り、アキヒコの口から白いプラズマが弾け出る。プラズマは携帯に引き寄せられた他の霊体と絡み合い、電波の周りを漂い出した。心地良い電波がルシフェルの気を緩めた隙をついた一瞬の出来事。

様子を窺っていたかすみは携帯に向かって大声で叫ぶ。

「おいで!彷徨える者たちよ!」

アキヒコの携帯にまとわりついていた霊体たちはルシフェルのプラズマを絡ませたまま強い電波に乗って空高く舞い上がっていく。

「確かにいくつかの霊体が飛び込んだわね。」

「ええ、見えたわ。」

リエの同意にかすみは携帯の電源を切ると、用意したビニール袋に入れて口を縛った。

 

アキヒコは突然目覚めた。一瞬自分の置かれた状況が理解できずに戸惑う。車のコクピット、迫り来る壁。危険を感じて回避しようとするが手足が硬直して動かない。

『だめだ!ペガサスお前を救えない・・』

その時、何かがペガサスのステアリングを動かしたように見えた。ペガサスはテールを振り、横向きで壁に向かう。アキヒコは本能的に体を丸めた。体から光が発し、アキヒコを包み込む。200km/h近い速度で壁に当たる瞬間、アキヒコはペガサスの声を聞いたような気がした。

《私の役目は終わった。私に命の火をありがとう・・》

 

 

リエの本心

 

深い静かな森の奥、高い梢から見下ろす景色は時間がゆっくりと流れている。うねるように漂う羽衣は人の姿になってにこやかに微笑むと紫に煙る巨大な山の頂に上っていく。

《ごきげんよう朱羽煌雀様、またお会いできる時を楽しみに・・》

樹齢千年を超える古木がその生涯を閉じ、精が故郷に帰って行く。神と呼ばれる存在がまだ自然界にその身を置いた平穏な時代。信仰深い民は森の頂に住まう自分を崇め、朝の祈りを捧げている。朱羽煌雀、時の守り神朱雀の寵児。この良き時代の終わりは近い。民は自らを支配者とし、自然を牛耳っていく。

心地良い温もりに包まれたピンクの世界に眩い光の点が見える。次の瞬間新しい生命として誕生し、祝福を受ける。5000年の時を経て、この空間に再び降臨した。産声とともに薄れゆく記憶・・

 

目を開けるとそこは病院のベッドだった。口に呼吸器を当てられ、右手に点滴を受けている。アキヒコは左手で呼吸器を外すと起き上がろうとした。

「あっ、無理しちゃダメよ、アキヒコ。」

ベッドの脇の椅子に座ったかすみが慌てて制する。

「ここは・・どうして俺はこんなところにいるんだ?」

アキヒコは再びベッドに横たわると状況を思い出そうとした。

「あの事故でかすり傷一つないなんて奇跡的だってお医者さんが言ってたわ。私もそう思う。ペガサスは火に包まれて酷い状況だったもの。」

ペガサス・・そうだ気が付いたら首都高の上、何が何だか分からないうちに壁が迫り・・。

「安心して、ルシフェルはもうあなたから去ったわ。とても危険な賭けだったけど、私たちは勝ったの。」

リエの声だ。かすみとともにアキヒコに一晩付き添っていたのだ。

「霊体は何故か携帯電話の電波を好むの。私が携帯を好かない理由もそこにあるのだけれど。あなたに入り込んだルシフェルはあなたの生気を吸収し急成長していたわ。多分あと1週間もすれば取り返しのつかない状態になっていたと思う。ルシフェルをあなたから強制的に引き離すには、ルシフェルが何かに夢中になっている時に心地良い携帯の電波を与え、気を取られた瞬間にもう一人のあなたを呼び覚ますしかないと思ったの。かすみさんと相談して実行することにしたわ。チャンスは1度切り、あなたに教えるわけにはいかなかった。ルシフェルを閉じ込めた携帯は今、海の底よ。」

“もう一人のあなた”の意味がアキヒコにはぼんやりと分かった。

「ペガサスも壊れて、キミの昔の願いも叶ったね。」

アキヒコはちらりとかすみを見て、遠まわしに言った。今となっては関係無いが、リエはあの頃自分がペガサスに夢中になることを良く思っていなかった。アキヒコの言葉にリエは首を横に振る。

「ペガサスはあなたを育てた大事な車。出来れば元の姿に戻って欲しいわ。あなたが1日でも早く世界に羽ばたけるように。」

リエの意外な返答にアキヒコはかすみがいることも忘れて聞き返す。

「あの時と言ってることが全然違うじゃないか。俺がどれだけ悩んだか分かるかい?キミとペガサスを秤にかけてキミを選ぼうとした俺の気持ちが。忘れたわけじゃないだろ?」

かすみが席を外そうとするのをリエが止めた。

「かすみさんも聞いて。アキヒコさんにペガサスが運命的な車であることは私にはすぐに分かったわ。でもまだ何の力も目覚めないあなたに、あの赤い車はまだ早いと思ったの。偶然にあなたを見つけた私の気持ちは言葉では言い表わせない。種族がもう諦めかけたあなたが、生きていることを知った感動。天が引き合わせてくれたあなたを、危険な目に合わせるわけにはいかなかった。でもすぐにペガサスがあなたを運命的な人に出会わせたのを感じたわ。かすみさん、白布衣日子、あなたとね。アキヒコさんのその力を目覚めさせるのは残念ながら私ではなかった。私は身を引くしかなかったの。」

 

 

テスト・ドライブ

 

イタリアに向かう飛行機の中でアキヒコはリエの言葉を思い出していた。

『“結界に大きな乱れが生じる時、朱き羽根の印を持つ気高き者生を受ける。その者金色の気を持ち、悪しき紗端を封じるであろう。”これが我が種族の古き言い伝えです。結界とは時空の壁。時を司る我が守り神朱雀は時空の乱される時、自らの使いをよこすと教えられました。あなたのその背にある紅い羽根の形をしたアザこそ気高き使い、朱羽煌雀の印です。』

朱羽煌雀。それはアキヒコの意識の奥深いところに封じ込められた記憶。今かすかにその記憶が蘇りつつある。

『世界の頂点を極めて下さい。そこから全ては始まります。』

自分の本当の正体が何を意味するのかは分からない。だが、やがては自分が重要な役目を負っている予感はある。今はリエの言葉に従い、専念しよう。世界の頂点に・・。

 

ミラノに着いたアキヒコと長谷川をマルコが出迎えた。アキヒコはマルコにがっしりと握手をする。マルコは数ヶ月振りに見るアキヒコの雰囲気の変化に驚いた。

「(もうボーイと呼べる雰囲気じゃないな、アキヒコ。アキでいいかい?)」

「(歓迎さ、マルコ。)」

あたかも修羅場を潜り抜けたようなアキヒコの鋭い眼光にマルコは以前とは比べ物にならない信頼感を覚えた。この男は何処まで成長していくのか。

「(ペガサスの調子はどうだい?)」

アキヒコはマルコの問いかけに表情を曇らせた。

「(工場の片隅に横たわっているよ。俺がスクラップにしてしまったんだ。ゴメンネ。)」

「(そうか、形あるものはいつか壊れるさ。アキが回避出来なかったんじゃよっぽどのことだ。ペガサスもアキに乗られて幸せだったことだろうよ。俺たちは作り上げてしまったものには実はあまり興味はない。これでまた新しいチャレンジができそうで嬉しいよ。長旅で疲れたろう。積もる話は後にして今日はゆっくりと休むといいさ。ホテルに送ろう。)」

タクシーに手を上げながらマルコが言った。アキヒコはマルコの言葉に胸の重石がとれた気がした。

「(俺たちをここに呼んで何をさせようと言うんだい?マルコ。)」

長谷川の問にマルコはウインクで答える。

「(それは明日のお楽しみとしようぜ、トオル。)」

 

翌日、アキヒコはマラネロの中心部に位置するイモラサーキットにいた。1994年F1の貴公子と呼ばれたアイルトン・セナがその生涯を閉じた地である。感慨に耽りながらピット前をゆっくりと歩く。

ピットには1台のマシンが用意されていた。今日ここをテスト走行に借りたビオンディのF1マシンだ。マルコがロベルト・ビオンディとしきりに何か話をしている。

「(何だって?F1はおろかフォーミュラーに乗るのが今日初めてだと?)」

「(正確に言えばレーシング・カーに乗ったことも、サーキットを走ったこともないだろうよ、彼は。)」

ロベルトの半分怒りの混じった問を、マルコは軽くあしらう。

「(俺はお前を信じて今日こんな大掛かりな場を用意したんだぞ。それが何だと?素人を連れて来ただあ?ふざけるなよ。)」

「(まあ、怒るのは彼の走りを見た後でもいいだろ?ロベルト。)」

マルコはそう言うとピット前でたたずむアキヒコに声をかけた。

「(ヘイ、アキ。レーシング・スーツに着替えてくれ。サイズは合うと思うから。)」

アキヒコは頷くとピットの奥に向かった。

黒いレーシング・スーツを纏い、ヘルメットを小脇に抱えたアキヒコに長谷川が小声で聞いた。

「今更聞くことじゃないけど、乗れるようになったのかい?車には。」

「ええ、多分ね。」

アキヒコは笑って答えた。目の前にあるのはただの車ではない。長谷川の聞き方が妙に可笑しかった。

 

凄まじい轟音がピットに響き渡る。V型10気筒3リッター、おおよそ地上を走る中で最速の車、F1マシンの心臓部に今火が入ったのだ。腹を揺さぶるサウンドと独特のオイルの臭いに興奮が高まる。

アキヒコはヘルメットを被ると極度に狭いそのコクピットに潜り込んだ。予め体格が似通ったマルコに合わせたため、ペダルやステアリングの位置はピッタリだ。軽くアクセルを煽るとエンジン回転が即座に跳ね上がる。フオーン、フオーン・・耳をつんざく高音のサウンドが奏でられた。耳栓がなければ鼓膜が破れそうだ。

アキヒコを乗せたビオンディF1マシンはメカニックたちに押されてゆっくりとピットから出される。徐々に高まる興奮。体中の血が沸騰してくるようだ。

『大丈夫、いける。』

目を閉じた脳裏にもうルーフの舞う光景は浮かばない。ユウサクの優しげな顔と、ペガサスが空高く羽ばたいていく姿が幾すじもの光に照らし出されている。

『兄さん、ペガサス、俺に力を・・』

アキヒコは自分の中で何かが変わり、自信が満ち溢れてくるのを感じた。目を開けるとステアリングを握り、パドルシフトを操作してギアを1速に入れる。メカニックが離れたのを見計らってアクセルを踏み込んだ。煙とブラックマークを残しながらピットロードを加速していくマシン。ゴムの焦げた臭いとオイルの焼けた臭いが得も知れぬ陶酔感を醸し出す。

 

その加速感はペガサスの比ではない。瞬きする間にタコメーターの針はレッドゾーンに飛び込もうとする。パドルシフトで変速操作をしながら更にアクセルを踏み込む。胸がシートに押付けられ、呼吸をするのも難しい。コーナーに向けてブレーキを踏むと即座にスピードが落ちる。コーナーに向けてステアリングを切り込む。素晴らしいレスポンスだ。未知の速度でコーナーに飛び込む横Gに首が軋む。タイヤのグリップ限界ははるか上のようだ。怪物マシンに手を焼きながら、アキヒコは込み上げる嬉しさに笑いを浮かべていた。

 

「(おい、マルコ、何だこのタイムはよ。うちのメカニックが転がした方がよっぽどましでい。)」

ストップ・ウォッチを手にしたロベルト・ビオンディが叫ぶ。チームのエース・ドライバー、クニレボヤン・ルベンソがここでマークしているタイムより5秒も遅い。

「(気が付かないか?ロベルト。ここ3周のタイムをよく見てみろよ。)」

マルコに言われてロベルトは前の2周のタイムを見た。この周回よりさらに遅い。1秒、その前は2秒。アッとロベルトは声を上げた。秒の右3桁には1/1000秒単位まで同じ数字が並んでいる。きっちり1秒ずつタイムアップしているのだ。

「(あいつは遊んでいるんだよ。驚いたろ?)」

次の周回、アキヒコはまたきっちり1秒タイムアップした。もはや偶然とは言い難い。

「(ヘイ、アキ。遊びはその辺でいいだろ?そろそろ本気を出したらどうだ。)」

マルコの無線にアキヒコはおどけて答えた。

「(OK、マルコ。眠気は覚めた。行ってみるよ。)」

既に5周を終え、アキヒコはマシンをすっかり自分の手の内にしていた。シケインを抜け、全開でホームストレートを駆け抜ける。前の周回からまたきっちり1秒上げた。1コーナーに向けギリギリまでブレーキを我慢する。走りに集中しだした頭には例の光のラインが描かれている。シフトダウンしながらステアリングを切り込むが、理想とするラインを数センチ外側に外す。アクセルを踏み込むタイミングが0.1秒遅れる。短い直線を終えるとまたシケインだ。タンブレロに向けかつては直線だったここは、セナのあの事故以来改修されてシケインが設けられている。タンブレロの高速コーナーを抜けながらアキヒコは気流の乱れを感じていた。フロント・ウイングの後、サスペンション・アームの辺りで乱流の渦を感じる。それがマシンのアンダーステアを強くしているようだ。リアの喰い付きも完全ではない。パワーロスにつながる空転を感じる。

 

ストップ・ウォッチを押したロベルトの顔色が変わる。

「(本当かよおい。クーニーより0.5秒速いぜ。)」

チームのエース・ドライバーのベストタイムを軽々と破ったアキヒコをマルコが呼び戻す。

ピットに戻ったアキヒコにマルコが聞いた。

「(マシンの調子はどうだい?アキ。)」

「(あまりいいとは言えないね。フロント・サスの辺りに乱流が出来てる。それとリアの喰い付きが甘い。)」

アキヒコの答えに長谷川がサスペンション・アームを指差して聞いた。

「この辺りかい?」

「いいえ、もう3cm後。そう、そこ。」

普通の人間にはとても見えない空気の流れをアキヒコは見ることが出来るようになっていた。長谷川がピットにあったノートパソコンにマシンの図を出して、アキヒコが指摘した辺りに×印を打ち、流速を入力して計算させる。マルコが予めCADと流体の簡易計算が出来るFEMのソフトを組み込んであった。ポケットからマジックを取り出すと、マシンのフロント・ウイングに×印を付ける。

「(何か薄い板はないかな。ああそのプラ板でいいや。誰か巾5cm、長さ15cmに2枚切って、この×印のところにガムテープででも付けてみてくれないか?)」

長谷川の注文にメカニックは難色を示す。それはそうだ。彼らが苦労して作り上げたマシンを素人の言いなりにいじるわけにはいかない。

「(いいから、この人の言う通りにしてみろ。)」

ロベルトの指示にメカニックは糸鋸とヤスリを持ち出して加工を始めた。長谷川はプラ板を貼り付けたウイングを上から横から見て、微調整を行う。マルコは本領を発揮しだした長谷川をニヤニヤ見ながら、手早くリア・サスペンションをいじる。

「3周ぐらいはこれで持つと思う。1周のタイム・アタックは可能だろう。」

15分後、長谷川のその言葉を後にアキヒコは再びコースインした。

 

1周のウォーミング・ラップの後、アキヒコは全開走行に入った。第1コーナーに向けてブレーキング。ステアリングを切り込む。今度はきっちり光のラインに乗せた。絶妙のタイミングでアクセルを開けるとマシンは縁石にタイヤを乗せて矢のように加速していった・・

「(いいぞ!)」

マルコがホームストレートを駆け抜けるアキヒコに親指を立てる。明らかに今までよりスピードの乗りがいい。

「(冗談だろ?俺っちのマシンはこんなに速いわけないぜ。)」

アキヒコのタイムを計ったロベルトが叫ぶ。

「(クーニーを2秒も突き放しやがった。皇帝シュナイザーのポール・タイムと0.2秒しか違わないなんてよ、俺は夢でも見てるんじゃねえのか!)」

後を振り向くとメカニックに大声で指示する。

「(おい、クリビアーノ!契約書を用意しろ。2通、いや3通だ。こいつらを逃がすんじゃねえぞ!)」

「(はっはっ、すっかり気に入ったようだな、ロベルト。俺との約束を忘れずに頼むぜ。)」

マルコの声にロベルトは興奮して答えた。

「(おお、ドリーム・ラリーか。お前らとならいい仕事が出来そうでい。F1マシンでも何でも持ってけい。いくらでも手を貸しちゃろう。その代わりあいつと契約を結ばせてくれ。今日付けでうちのテスト・ドライバー扱いでいいだろう?レースライセンスも取らせて、すぐにでもデビューさせよう。おお、燃えてきたぜい。フェラーリに一泡吹かせちゃる。)」

 

 

不吉な兆候

 

「信じられない程の時空の乱れ・・」

テレビのニュースに映し出されるビルの黒煙を見ながらリエが呟いた。昨夜突如起きた航空機テロは常軌を逸する光景だった。

「アメリカの象徴が一夜にして無くなっちまうとはな。ワシはいまだに夢でも見とる気がするよ。」

三隅が隣で溜息をついた。

「見えないエネルギーの束に引っ張られているわ。でも何処から、どうやって・・」

リエは込み上げる不安感に無性にアキヒコの顔を見たくなった。だがアキヒコは今遠い異国の地だ。

「これはまだまだ前触れに過ぎないかもしれない。早く準備を整えないと・・」

 

世界中がニューヨーク貿易センタービル倒壊事件にざわめき立つ中、首都高の一角で奇妙な壁損傷事件の検証が行われていた。車線規制された現場に到着した黒塗りのセドリックから降りたのは例の主任研究員と広沢女史だ。

「これは、これは。わざわざご足労願いまして、竹村博士。まあ見てやってください、我々じゃどう報告書を書いていいやら困ってまして。」

背広姿の屈強な男が初老の主任研究員に向かって言った。男は隣の広沢女史に軽く会釈をする。

「久しぶりですな、古廣谷捜査官、おっと今は捜査3課長でしたな。あの事件以来15年ぶりになりますか、お互い年を取ったものだ。」

竹村主任研究員が挨拶を返した。

「マドンナといわれた広沢女史もすっかり大人の風格が出てきたようですな。まだ独身で?」

古廣谷課長が広沢女史に尋ねる。

「毎日研究室の穴ぐらにいたんじゃ中々相手もいませんので。」

広沢女史はちょっとむくれて答えた。

「アメリカは大騒動ですな。あんな派手なことやらかす奴の顔を見てみたいものだ。まあ、何れ捕まるでしょうが。それより私にとってはこいつの方が重要だ。まずはこちらへ。」

古廣谷は竹村と広沢を青いカバーで覆った壁に案内する。見張りの制服警官は古廣谷に緊張しながら敬礼する。

「今朝、公団のパトロール車がこいつを見つけたのです。そして我々が引っ張り出された。」

古廣谷はそう説明しながらカバーをめくった。そこには直径30cmほどの丸い窪みがあった。幾何学的な真円、まるでレーザーメスで切り取ったような滑らかな切り口。

「これだけの窪みが出来ながら、この場所で事故の通報などない。それに凹んだと言うよりは削り取られたように見える。しかし欠片が全く見当たらない。誰かがきれいに持ち去ったように。私の頭には例の山中の研究施設が思い浮かびましたよ。それで博士に連絡をと思ったのです。」

広沢女史がルーペで壁の切り口を観察する。拡大しても凹凸など見えはしない。広沢は竹村に頷いて合図する。

「ふむ。どうやらあなたの思う通り、15年前の事件と関連がありそうですな。特能研には連絡を?」

竹村が古廣谷に聞く。

「特能研?特殊能力研究機構をこんなところに呼んだって何にもできないでしょう。」

「それを言うなら我々原子物理研究所にしたって同じ事。15年前のあの5才の子供を覚えていませんか?私には彼が関与しているように思えてならないのです。特能研なら彼についての情報を持っているでしょう。特別予算で養育費を捻出したくらいだから。」

「分かりました。博士がそう言うなら連絡を取りましょう。」

古廣谷は渋々承諾した。彼にしてみれば報告書をややこしくされるだけの気がしてしょうがない。

「何か目撃情報は?」

「数日前この100m手前で単独の事故がありまして、車が大破しました。乗っていた若者は意識不明で病院に運ばれましたが怪我はなし、その後管轄で軽い調書を取って終わっています。単独で人身も物損もなかったので。しかも離れた場所ですから関係あるとは思えないし・・」

竹村の質問に古廣谷は考え込みながら答えた。

「その若者の名前は?」

「えーと、タカノ、タカノアキヒコですな。」

 

 

ハッカーと凶悪犯罪

 

アメリカ国防省、ペンタゴンでは突然のテロによる破壊の復旧作業の傍ら、コンピューターへのハッカーの痕跡に頭を悩ませていた。

「(どうして2度もセキュリティーが破られたんだ?1度目、テロの直前は全くの不意打ち、予期せぬ出来事だった。しかし、パスワードを全て変え、身分照会の出来ない訪問者は絶対に入れないシステムに何故2度目の侵入の痕跡があるのだ?それも目的が分からない。1度目は建物内のありとあらゆるCPUをフル稼働にされた。一時的なリソース不足を引き起こした以外はデータの盗難や破壊の形跡はなかったが。そしてハッカーの退去と引き換えのように空からの贈り物だ。レーダーが異常を捉えながらもリソース不足が警報を遅らせた。してやられたぜ。しかし2度目は分からない。侵入して千分の1秒間コンピューターを占拠しただけだ。何の被害も出なかった。普通ハッカーは自分が難解なパスワードを潜り抜けた征服の証として何かの記念碑を残すものだ。だが今回の奴はそんなことにも全く興味がないようだ。ただ気軽に散歩したってところか。自分は何時でも侵入できるってことを示したいのかもしれない。)」

「(ああ、1度目は明らかにテロの一環だ。長い期間かけて侵入パスワードを作り上げたようだ。だが2度目は別の奴の気がする。侵入の仕方が違うのさ。まるで煙のように微細な穴を潜り抜けたとしか思えない。パケット単位でチェックがかかるというのに全くその網に掛からないんだから。それにしてもどうしてこうもやっかいなことが重なるかな。外から、中から、丸見えじゃペンタゴンはまるでガラス張りのショールーム状態だぜ。)」

 

テロ後の謎のハッカーはペンタゴンだけでなく、世界中のありとあらゆるコンピューターにその痕跡を残していた。各国の政府機関はもとより、有名企業、公共団体、さらには銀行のATMにも入り込んでいた。厳戒な電子セキュリティーも全く役に立たない。次から次へ駆け回るように侵入を繰り返す。入り込まれたこと自体気付かない企業もあった。何の被害もなく、表立った足跡もないのだから無理もない話だ。

 

アメリカの田舎町では突然パソコンマニアの少年が銃を乱射する事件があった。17名の死傷者を出し、警官に取り押さえられた時、真っ赤な目の充血が潮を引くように取れるとともに犯行の記憶も消え去っていた。

東京の池袋では包丁を振りかざした若い男が通行人を数人斬りつけて逮捕された。男には記憶がなかった。デパートのパソコン売り場でインターネットを悪戯していたと思ったら次に気が付いた時には留置場の中だった。

 

謎のハッカーと凶悪事件。何のつながりもなさそうなこの二つには誰も気が付かない共通点があった。“占拠する”行為だ。コンピューターを、そしてコンピューターに接触した人間を。

 

 

デビュー

 

イタリア、モンツァ・サーキット。開催の危ぶまれたグランプリは何とか通常のカレンダーで行われることになった。F1のトレーラー・ハウスが林立する中、ビオンディのレーシング・スーツに身を包むアキヒコがいた。異例のスポット参戦。セカンド・ドライバー、ミルフェインの怪我を理由に、ビオンディは新人テスト・ドライバーのアキヒコ・タカノにセカンド・シートを与えると発表した。全く実績のないアキヒコにオーガナイザーがF1出場に必要なスーパーライセンスを発給するはずもなく、ロベルトは自国GPのスポット枠を使い、1戦限りの出場を強引に押し通した。主催者側はロベルトのごり押しに予選までの参戦を許可し、予選において資格審査を行うとした。決勝出場条件は予選10位以内の確保。予選最後尾が定位置となりつつあったビオンディにとっては、まず飛び越えることの出来ない高いハードルである。だが、ロベルトは薄ら笑いを浮かべながら、一言の文句もなしに、すんなり条件を飲んだ。

金曜日フリー走行。アキヒコ専属のメカニックとしてピットに入ったマルコにロベルトが話しかけた。

「(その気になってくれて良かったぜい、マルコ。ようやく俺っちの誘いを受けてくれたな。本当はもっと早くお前と手を組みたかったがよ、この際贅沢は言いっこなしでい。)」

「(勘違いするなよ、ロベルト。俺はアキのメカとしてチームに加わるんだ。派遣社員ってとこかな、所属はまだEMSだしな。)」

マルコが笑って答える。

「(何だと?お前、まだあのパソコン集団を辞めてなかったのけい。いくら貧乏チームとはいえ俺っちの方がパソコン屋より給料払えるぜい?)」

ロベルトは半ば呆れ顔だ。

「(まあ、そう言うなよ、ロベルト。ドリーム・ラリーの車作りにはEMSの力が必要なのさ。便利だぜ、あのCADとモデリング・システムは。あいつを見れば分かるだろ?)」

マルコはそう言ってピットの奥の長谷川を指差す。長谷川はノートパソコンと睨めっこで幾つかの空力セッティングをシミュレートしている。集約電子回路の進歩は凄まじい。一昔前なら一部屋を占拠したメインフレームに匹敵する性能を、この小さな折り畳みパソコンが持つ時代なのだ。長谷川はさらにサーバークラスのミドルタワーをTCP/IPケーブルで繋げ、グラフィックス処理用のサブCPUとして使うことで、パソコン内に仮想風洞を作り上げていた。ここモンツァは長短4本のストレートをコーナーとシケインで結んだ高速サーキット。ストップ・アンド・ゴーの繰り返しはエンジンパワーがものを言う。トップチームに比べてやや見劣りする非力なビオンディのV10エンジンを補う秘策を長谷川はパソコン上で煮詰めていた。

 

「(おい、坊や。ビビッて小便ちびってんじゃないのかい。)」

クニレボヤン・ルベンソがコクピットに収まったアキヒコに冷たい視線を送る。3年前、30才近くでやっとF1のシートを手にした苦労人の彼にしてみれば、20才でいきなり自分と同じステージに上ってきた異国の若者を面白く思わないのも当然だ。

「(俺の足を引っ張ったら承知しないぞ。)」

アキヒコは突き刺さるルベンソの視線を笑顔でやり過ごす。能力に目覚めかけたアキヒコの目に映るルベンソのオーラは綺麗なブルー。悪意は感じられない。怒りや憎悪の邪念を孕んだオーラは赤く光るものだ。ペガサスに初めて乗ってから7ヶ月。そう、たったの7ヶ月なのだ。自分がこんなところにいるなんて知ったら日本のみんなはどんな顔するだろう。1週間前にイタリアに来て、トントン拍子に話が決まり、目まぐるしい日々が続いた。かすみに連絡を取る暇もなく、ロベルトの大きな掌で背中を突き飛ばされたらいきなりシートに座っていた気分だ。

周りの様々なものをスポンジのように吸収し、アキヒコのドライビング・テクニックは放物線を描くように上昇して来た。だがこの最高峰の舞台では怪物マシンをオモチャのように扱う腕は当たり前のこと。アキヒコレベルのテクニックなど最低限必要なものに過ぎない。約300kmのスプリントレースを戦う、選び抜かれた20数人の勝負は、気力と体力、そして何よりもマシンだ。90年代中盤からのF1はハイテクの極みを尽くし、相当の腕の差をもってしてもマシンの性能差を埋めることは難しくなった。

アキヒコの気力は充実の極みにあった。ユウサクの死を乗り越え再びステアリングを握る今、目の前に立ちはだかるものは何もない。今後自分がどうなっていくのか分からない不安が逆に緊張感をもたらし、目の前の一分一秒を大切にしようと集中力を高めていた。体力は未知である。ここ1週間意欲的に食べてトレーニングに励んだとはいえ所詮付け焼刃。ユウサクの死後数週間にわたる鬱状態とルシフェルの憑依で落ちた体力は完全に癒えてはいない。だがアキヒコにはそれを差し引いても余りあるプラスアルファーの力があった。研ぎ澄まされた感覚、頭に浮かぶ光の道だ。

 

金曜のプラクティスの間、アキヒコはウイングを極端に寝かせたセッティングにトライした。安定感に欠けるマシンは針に糸を通す正確なライン取りを要求し、少しでもはずすと独楽のように回りだす。非力なエンジンで最高速を稼ぐにはこれしかない。

「(ヘイ、アキ、どんな具合だい?)」

ピットに戻ったアキヒコにマルコが尋ねる。

「(うん。フロントがナーバス過ぎるかな。流石にダウンフォースが足りない。縁石で跳ねても何処かに飛ばされそうだよ。)」

「(OK、やはりな。明日のクォリファイはもう少しダウンフォースを付けて望もう。フロント・サスももう少し粘るセッティングにしよう。)」

マルコは嬉しそうだ。再びアキヒコの側でセッティングに没頭できることがこれほど楽しいとは。もちろんF1独特の雰囲気に否が応にも昂ぶる気持ちのせいもあろうが。

「(明日は秘密兵器もあるよ。ようやく良さそうなセットが出来たさ。早速工場に発注した。)」

長谷川が話に加わる。

「フロント・サスの乱流は出なくなったろう?」

「うん、その点はバッチリだね。」

アキヒコは長谷川に対して敬語を使うのを止めた。その方が意思の疎通がスムーズに感じるからだ。

「全ては明日。予選15位に食い込まなきゃ終わりだ。マルコと最高のセッティングを用意するよ。」

長谷川は今最高の気分だった。生きる喜びに溢れ、充実感が漂う。自分の夢を託して、不可能を可能にしそうな不思議な若者アキヒコの手を強く握り締めた。

 

 

 

 

[第二部③へ続く]