モンツァ公式予選

 

土曜の午前中のプラクティス。アキヒコは昨日よりウイングをやや立てたセッティングでコースを周回した。ラップタイム自体はさほど参考にならない。この時点で全力走行するのは余程余裕のないチームだ。フィーリングとしては昨日より向上している。コーナーへのターン・インがスムーズで、ライン取りに余裕が持てる。不意のアクシデントを避けるためにもこの方が望ましい。だがストレート・スピードの伸びは悪い。BMWエンジンのウィリアムズとは最高速で15km/hは違いそうだ。

プラクティスの最後、長谷川がスペシャル・ウイングを用意した。ノーズカウルごと交換する。見た目は全く変わらない。ウイング角度も今の設定と同じだ。リアウイングは1段寝かせた。

「(リアがやや暴れるかもしれないが、お前の得意分野だろ?アキ。しかしトオルの発想には恐れ入ったぜ。)」

マルコが親指を立てた。

 

公式予選は午後1時にスタートした。与えられた周回数は12周。コースインとピットインで1周ずつ使うから、実質4周のタイムアタックだ。照りつける太陽に路面温度は上がり、各チームともコースインを控えている。10分過ぎてもサーキットは静まり返り、とても予選の最中とは思えない。12分、アキヒコはルベンソに続いて2番手でコースに出た。何かをきっかけに各チーム一斉に動き出すに違いない。空いた今はチャンスと考えることも出来る。

ルベンソとの車間を十分に取ってアウトラップを回ったアキヒコは最終コーナー・パラボリカからアクセルを全開にする。ホームストレートをぐんぐん加速し、ストレートエンドで330km/hに達した。プラクティスの時よりも10km/h伸びている。シケインに向け一気に100km/hまで減速、フロントタイヤのレスポンスはいい。適度に滑るリアタイヤはお馴染みのマルコ仕立てだ。アクセルワークで向きの修正を図れるマシンにアキヒコはほくそえむ。グランデコーナーを全開で加速しながら短いストレートで再び300km/hを越えたマシンは再び100km/hに減速してシケインを抜ける。レズモコーナーで首にかかる凄まじい横Gに耐え、裏ストレートを一気に加速していく。不思議だ。コーナーで十分なダウンフォースを得ながらストレートの伸びがいい。アスカリシケインを抜けながらアキヒコは確かな手応えを感じた。いける。この周で十分だ。入口がきつく、出口が緩い複合最終コーナー・パラボリカに向け、脳裏に浮かぶ光のラインをトレースしながらアキヒコは微笑んだ。

 

1時間の公式予選が終了した時、5番手に新人の名前があった。

Akihiko Takano(JPN)

上位4台はウィリアムズとフェラーリ。クニレボヤン・ルベンソを2秒も上回り、ビオンディとしてはチーム創設以来最高のグリッドだった。ピットには報道陣が殺到し、次々とアキヒコにマイクを向ける。アキヒコはにこやかに答えながら、隣で興奮しまくるロベルトが可笑しくてたまらなかった。

 

「ねえ、透さん。ウイングの秘密を教えてよ。」

ピット裏手のモーターハウスに引き上げたアキヒコは長谷川に聞いた。何故急にあれほど最高速が伸びたのか。

「ちょっとした仕掛けを思いついたのさ。2枚構成になったフロント・ウイングの下側を高速設定にしておいて、上を立てる。そして上下をスプリングステーで繋いだのさ。速度が上がり、ウイングに風圧が加わるとスプリングが縮んで2枚のウイング角度は揃う。空気抵抗が減って最高速が伸びたというわけさ。スプリングの強度計算に随分時間を費やしたけどね。両端で太さと巻き数を変えた非線形の設計だよ。」

長谷川スペシャルとでも呼ぶべきウイングはルベンソのマシンにも付けられ、予選16番グリッドを獲得していた。ルベンソの場合はリアの不安定感を嫌い、ウイングを立て気味にしたのがアキヒコとの2秒差につながったようだ。

 

 

先頭争い

 

日曜日、グランプリ・デイ。朝刊の1面には東洋から来た脅威の新人の記事が飾られていた。赤に白い2本の羽を模したヘルメットを小脇に抱えたアキヒコの写真が大きく掲載されている。モーターハウスで朝食を取るアキヒコにロベルトが話しかけた。

「(凄えぜ、アキ。どの朝刊もお前がトップニュースでい。クーニーにゃ悪いが、今日からお前がエース・ドライバーだぜ。)」

「(違うよ、ロベルト。エースはクーニーさ。俺はスポット参戦のひよっ子。彼には経験で敵わない。)」

ベーコンを頬張りながらアキヒコは答えた。実際マシンの調子が悪くても騙し騙し完走するルベンソの技術は侮れない。

朝食を終えて外に出ると、散歩がてらグランプリコースを歩き出す。10分ほどかけて小鳥が囀るレズモコーナーにつくと、人影があった。短く刈り込んだ茶色い髪にやや尖った精悍な顎、鋭い眼光に鍛え上げた筋肉質の体。一瞬彼の体は黄金色のオーラに覆われているようにも見えたがすぐに消えた。男はアキヒコに手を上げ、声をかけてきた。

「(モーニン、スーパー・ルーキー。良きお目覚めかい?)」

人懐っこい笑顔からはサーキットの王者の風格が漂う。皇帝ミカエル・シュナイザー。チームが主催するとも言える母国グランプリにしては表情に暗い影が見える。

「(こんなポカポカ陽気じゃ昼まで寝ていたい気分だよ、ミカエル。)」

アキヒコはシュナイザーの悲しみを理解した。友人アレッサンドロのCARTレース事故による両足切断が彼の心に重く圧し掛かっているのだ。氷の心を持つサイボーグの異名は、彼の上辺からくる半ば誤解されたイメージかもしれない。

「(ルーキーにしちゃ随分な余裕だな。久しぶりに私を楽しませる奴に出会えた気がするよ。)」

シュナイザーは後ろ向きで手を振ると、アキヒコが歩いてきた方向に歩き出した。アキヒコも背を向け、反対側に歩き出す。

「(そうだ、アキヒコ。)」

シュナイザーはアキヒコを呼び止めると再び近付き、耳元で囁いた。

「(その黄金の衣は人前であまりひけらかさない方がいい。同類としての忠告だ。)」

アキヒコはドキリとした。黄金のオーラは見間違いではなかったのだ。シュナイザーは軽くウインクすると、ゆっくりと歩き出した。もう振り返らない。アキヒコはその後姿を見詰める。口元に知らず知らず笑いが込み上げる。正体は分からないが自分と同じ宿命を背負った人間がいた。雲の上の存在だったミカエル・シュナイザーが急に身近に感じられ、もう一人の自分への不安感が薄れた気がした。アキヒコは軽い足取りで再び歩き出すと、頭を切替えて路面の状況を細かく記憶していった。

 

いつもなら華やかなはずのオープニングセレモニーも心なしか控えめだ。スターティング・グリッドについた22台のマシンを大勢のメカニックが取り囲み、最後の確認に余念がない。ドライバーたちはレースクイーンの持つパラソルの下で灼熱の日差しを避け、緊張の一瞬に向けて集中する。ハイレグ姿のエキゾチックなイタリア美人に寄りそられたアキヒコは日本のテレビ局の取材に応じていた。今期日本人ドライバー不在のF1は人気が下火で大した報道もされていない。世界各国のテレビ局が挙って脅威の新人を取材する中、母国日本のメディアはスタート直前になってようやくインタビューを要請してきた次第だ。レース経験ゼロのアキヒコの経歴は謎のベールに包まれている。マスコミの紹介はイタリア育ちの日系人で、ビオンディの秘蔵っ子という線で固まりつつあった。つい数ヶ月前、日本のワイドショーを騒がせた木暮かすみ騒動の張本人とは、目の前のレポーターが知る由もなかった。

 

スタート1分前のプラカードが出され、メカニックたちはタイヤウォーマーを外してジャッキを降ろすと、車から離れた。マシンのエンジンに火が入れられ、サーキットにオイルの臭いがみなぎる。アキヒコはスタンドに集まった大勢の観衆の熱気に心が躍った。10万人のエネルギー、その集結は凄まじい。テレビを通じては数十億人の目が今ここに集約されているのだ。生きる正のエネルギー、その一方で負のエネルギーを刈る邪悪の存在をアキヒコはまだ知らなかった。

フォーメーションラップを終え、グリッドについたアキヒコの前に並ぶのは僅か4台。先頭はウィリアムズの新鋭黒人モンパーニ。その横に並ぶのはフェラーリの陽気なブラジリアン・バリチェリス。3番手、アキヒコの目の前には皇帝シュナイザー。そして4番グリッドには皇帝の弟、ラルク・シュナイザー。最後尾まで整列が整うとレッドシグナルが灯る。数秒後、シグナルが消えるとともに22台のF1カーは爆音を立ててスタートした。

ラウンチ・コントロールを持たないビオンディのマシンは、すぐに後の集団に飲み込まれた。第1シケインに向け、アキヒコに事故の直感が走る。アキヒコはマシンのノーズをシケインの内側、芝生の中に向けた。その直後、シケインは3台の玉突き事故で塞がれ、後続の車が行き場をなくす。シケインを抜けた時、アキヒコの目の前にいるのはウィリアムズのモンパーニだけだった。ラルク・シュナイザーがアキヒコのすぐ後に続く。フェラーリの皇帝、ミカエル・シュナイザーは5番手。ペースカーの導入もなく、レースは波乱の内に始まった。

ラルクはエンジンパワーにものを言わせ、直線でアキヒコを追い詰めるとシケインでインを刺そうとした。アキヒコはそれを察知し、ノーズを被せる。レズモコーナーで今度はアウトから抜きにかかるラルクを微妙なテールスライドで押さえ込む。半ば舐めてかかったルーキーの手強さを悟ったラルクは少し車間をおいてアキヒコの走りを観察することにした。

 

ラルクの気が薄らいだのを感じたアキヒコはモンパーニに神経を集中させる。CART王者の称号を手にF1デビューしたこのマイノリティーは、1年選手でありながら既にトップドライバーの一人だった。まだ勝利こそないものの、トップを周回することは度々だ。速さにおいては皇帝にひけをとらない。もっともシュナイザーが本気を出しているかどうかは誰にも分からないが。アキヒコはモンパーニのスリップ・ストリームにつけながらも抜けそうにないエンジンパワーの差に、少なからず苛立ちを覚えた。

5周を終えても順位に変動はなかった。モンパーニとアキヒコの差は1.5秒。その後2秒差でラルクが続く。4番手にはジョーダンのトゥエリー、皇帝シュナイザーが5番手とやや精彩を欠く。もう1台のフェラーリ、バリチェリスはスタート直後の混乱でリタイアしていた。アキヒコは全周回を全開走行する意気込みだった。どう見てもポテンシャルの劣るビオンディのマシンでウィリアムズやフェラーリとやり合うにはそれしかない。相手も全開走行の連続だったら勝ち目はないが、極限の集中状態を1時間半近く続けられるとは思えない。ミカエル・シュナイザーを除いては。皇帝の体力と精神力は人間離れしている。だが5番手を走る今日の彼からは気を感じない。

 

10周目、3秒先を走るモンパーニにミスがあった。アスカリシケインで縁石に乗り過ぎてアクセルを踏むタイミングが遅れる。アキヒコは一気に差を詰めて裏ストレートでモンパーニのスリップ・ストリームに入る。パラボリカにアキヒコは勝負をかけた。スリップ・ストリームからアウト側に飛び出すと軽いブレーキングと早めのステアリングの切込みでマシンを斜めに向ける。ダートをギリギリかすめ、リアタイヤが砂埃を巻き上げる。

後を走るラルクはビオンディのマシンが最終コーナーの餌食になったことを確信したが、次の瞬間信じられない光景を目にした。砂埃の中から猛然と加速する白と赤のマシンは直線的に同僚モンパーニのインを奪い、ストレートの立ち上がりで前に出たのだ。不意をつかれたモンパーニはすぐさまアキヒコのスリップ・ストリームに入ると落ち着きを取り戻す。エンジンパワーはウィリアムズが上。このまま行けばストレートエンドで再び順位は入れ替わる。

モンパーニの誤算はアキヒコの巧妙なブロックだった。まるで自分の動きを見通すかのように右に左にスッとラインをずらしてくる。シケイン入口のテールスライドのブロックで勝負は決した。東洋の新人はテールを流しても速さを失わない。むしろ、より速さが増したように見える。トラクション・コントロールさえ持たないビオンディのマシンがこのルーキーにはもってこいのアイテムなのだ。じりじりと離される焦りがモンパーニの集中力に水を差した。

 

 

ブラック・フラッグ

 

3周の周回を重ね、モンパーニとの差が2秒に開いた時、突然アキヒコのレースは終わりを告げた。14周目のホームストレート。アキヒコに対してブラック・フラッグが出されたのだ。レース失格。理由が分からない。アキヒコは釈然としない気持ちでビオンディのピットに戻った。

 

10周目の最終コーナーとその後のストレートがその理由だった。アキヒコの、傍目で見れば強引な突っ込みと、その後の左右への進路変更がモンパーニに対する危険行為と見なされたのだ。これがミカエル・シュナイザーだったら喝采を浴びる追い越しだったろう。いや、実際観客はアキヒコの追い越しに対して地鳴りのような声援を送った。だが、権威あるグランプリがレース初参戦の東洋の若者に勝利をさらわれては、今までの歴史が水の泡。そういう思惑も見え隠れする裁定だった。危険ドライバーの烙印を押されたアキヒコを強引に出走させたビオンディは、責任を負われて2戦の出場停止となり、今シーズンのF1を終えた。

 

「あれが危険行為だったらレースの面白味なんてなくなるぜ。全く何考えてやがるのかよ。どう見たって体面を守りたいだけでい。嫌んなるぜ。」

抗議も受け付けられず初のシャンパンシャワーも十分に有り得たレースを後味悪く終えたロベルトがミラノのバーで酔っ払っている。

「一番辛いのはアキだろうよ。俺たちが嘆いたってあいつが落ち込むだけだ。ここは気持ちを切替えて次を目指そうよ、ロベルト。」

カウンターで隣に並んだマルコがジョッキを片手に言った。少し離れたテーブルでは10人程のグループが陽気に騒いでいる。

「ヘイ、ボス。こっちに来て騒ごうよ。マルコもさ。」

グループの一人がカウンターに向かって声をかけた。丸テーブルの向こう側にはアキヒコが長谷川とならんで座っている。落ち込んだ様子はなく、回りを囲んだビオンディのメカニックたちと笑い合っている。向かい側でクーニーことクニレボヤン・ルベンソがマイク代わりのビール瓶でシャンソンを歌い終えた。

「全くお前は大した奴だよ、アキ。あれだけ速いくせに嫌味がない。俺はお前が気に入った。俺には分かる。お前は間違いなく十年に一人、いや百年に一人の天才だ。ん?ってことは自動車の歴史が始まって以来最速ってことか?まあいいや、来年こそ台風の目になってフェラーリの奴らをひれ伏せさせようぜ。」

クーニーがテーブル越しにアキヒコに手を差し出す。アキヒコはそれを握り返した。

「こちらこそ宜しく、クーニー。来年俺が走れればの話だけどね。」

「なあに、お前を締め出すことは世間が許さないさ。俺はアイルトンのデビューの頃を思い出したよ。雨のモナコでトールマンに乗ったセナの走りは凄かったさ。周りを走るベテランたちがまるで止まっているかのように感じたもんだ。マクラーレンのプロストを追い詰め、追い越してトップに立った時は拍手喝采だったよ。その時だ突如赤旗がだされてレース中止、アイルトンがトップに立つ前までが有効となり、幻の初優勝となった。伝統のモナコを新人に制されちゃ大変だもんな。似てるだろ、今日のお前とさ。」

クーニーの話にアキヒコは心が熱くなった。神様みたいな存在のアイルトン・セナを引き合いに出されるなんて光栄だ。今日のことは周りが思うほど気にしてはいない。自分がF1の舞台に上れただけで満足だ。束の間の、珠玉の体験。惜しむらくは皇帝シュナイザーと矛先を交えることが出来なかった点だ。明日は一人帰国する予定。夢のような、嵐のような数日間を終え、イタリア最後の夜は華やかに深けていった。

 

 

コードNo.R017

 

「・・・これらの共通点は偶然と考えるには無理があり、私は今回の怪現象にコードNo.R017号の関与を疑わざるを得ません。」

20人掛けの会議用丸テーブルには5人の背広姿の男たちが着席し、一人立って説明している初老の男と目の前のノートパソコンに映し出された写真を交互に見ている。やがて背筋をピンと伸ばした銀髪オールバックの男が口を開いた。

「竹村博士、ご苦労。R017号は特能研が特別予算で監視を続けてる人物だね、米倉君。」

「その通りです、諜報室長。」

米倉と呼ばれた痩せ細った狐顔の眼つきの鋭い男が答えた。

「現在の氏名はタカノアキヒコ。千葉県の浦安市に住んでおります。横浜に暮す養育者タカノリョウコの定期報告では、3ヶ月程前に戸籍から養子であることを知られたそうですが、特に変わった様子はないとのことでした。我々はあの少年、いえ今はもう20才になっていますが、彼が記憶や能力を呼び覚ました兆候はまだないと考えます。」

「警視庁捜査3課の古廣谷君の報告書には確かにそのタカノアキヒコの名前が見られるよ。現場から少し離れた場所起きた自損事故の当事者だ。それから伊豆スカイラインの記録にも同じ名前が登場する。イケタニユウサクという人物が死亡した現場に居合わせた7人の関係者の中にね。これらの客観的事実からすれば竹村博士の言う通り、R017号タカノアキヒコが関与していると考えるのが妥当だろう?監視不十分なのじゃないかね。」

内閣諜報室長が米倉を追及する。

「我々もタカノリョウコだけでは不十分と考え、もう一人監視を付けておりますが、やはり特に異常なしの報告だけ・・あっ、先月ちょっと変わった記載がありました。“伊豆での事故以来車の運転は出来ないといいながら、密かに夜首都高に繰り出すのを確認。その翌日初めての事故を起こす。”タカノアキヒコは車の運転に非凡な才能がありまして、これまで事故は皆無でした。ただ記憶や能力が目覚めたなら事故を起こすという方がおかしいとおもいますが。」

「そのタカノアキヒコは本当に特殊能力の持ち主に間違いないのかね?」

肥えた身体つきの頬の垂れた男が米倉に質問する。

「私はそう確信しております、長官。15年前の民間研究所消滅事件の真相は未だに明らかになっておりませんが、現場に足を踏み入れた私には当時5才のタカノアキヒコ、いえ当時はまだその名前ではありませんが、彼の発する能力の波長が硝煙反応のようにくっきりと見えたのです。私も能力者の端くれ、その点に関しては自信を持って言えます。」

米倉が口調とは裏腹の鋭い目を官房長官に向ける。

「その研究施設に居た女児、F022号についてもキミたちは監視してるんじゃなかったかね?」

皺の刻まれた顔とは不釣合いなほどがっしりした身体つきの老人が尋ねる。

「はい。彼女は現在コグレカスミというちょっとした有名人になりました。半年程前にタカノアキヒコと15年振りに接触し、我々も緊張しましたが、やはり変化は報告されておりません。」

 

「何故そんな危険な奴を野放しにしてるのだ。元々戸籍もない奴なんだから、とっとと拘束して始末してしまえばどうだ。」

官房長官がいらいらした口調で怒鳴る。

「馬鹿者!仮にも要職に付く身でありながら彼の重要性も分からんのか。米倉の話から判断すれば彼の存在は我が国が世界に抜きん出るきっかけとなり得るものだ。使い方によっては核よりも抑止力を持つ最終兵器としてな。」

「し、しかし老師、何か事が起こってからじゃ遅すぎます。もしそいつが今回の同時多発テロに関与してたりしたらどうします。我が国もただじゃ済まされませんぞ。」

デップリと太った官房長官が老人の眼力にたじろぎながらも反論する。

「その可能性はまずありません。現時点で彼は自分の持つ力に気付いていないだろうし、自在に操るなんて考えられません。ましてや彼は得体の知れないものの手先になるような人物じゃありませんよ、長官。ご心配でしたら、私が接触を試みましょう。何をやるにしてもそれからがよろしいかと。」

米倉の提案に全員が無言で同意した。

 

 

望まぬ再会

 

「合わせたいお方がいれば早目にお呼び下さい。もって2週間程度でしょう。」

北山の執事、五木田に主治医が告げた。

「分かりました。しかし主は天涯孤独の身となりまして、いまや私がお側に仕えるだけですので特に連絡されるお方もおりません。ご配慮ありがたくお受けいたします。」

身寄りのない五木田は10年以上に渡り北山に仕え、彼の妻と子の最後を看取ってきた。今度は主自身がまたしても年老いた自分より先に天に召されようとしている。これも神の悪戯か。北山が逝ってしまったら自分に何が残されよう。北山が病床について2ヶ月。訪れた見舞い客は顧問弁護士とタンデオンの関係者だけだ。仕事一筋で寂しい交友関係の北山が不憫に思える。五木田は病室に戻ると北山の毛布の乱れを正す。

「五木田か。夢を見ていた。」

痩せ細った北山が目を細く開け、微かに聞き取れるくらいの掠れ声で呟いた。

「旦那様、あまり無理はなさらずに。」

話すのも苦しそうな北山を五木田が労わる。

「いい。もう永くはないことぐらい自分が一番良く分かる。カレンとルシフェルが手を振っていた。気持ちよい風がふく草原の真中で、シートを広げて昼食を食べていた。あんな光景実際にはなかったな。もう一度妻と子に会えると思うと死ぬのが恐いどころか待ち遠しくなった。」

「旦那様・・」

「お前には世話をかけた。よくぞ長い間仕えてくれた。」

北山は窪んだ目を閉じた。

「少しメールでもチェックしておきたいんだが、モニターにパソコンを映してくれんか。ああ、ありがとう。もうそのままでいい。後は自動的にメーラーが処理する。」

「お疲れになりますので、あまり長い時間はなされない方が・・」

五木田は軽く礼をして北山を一人にした。

 

病室の天井から吊るされた大型の液晶画面が点灯し、タンデオンのオフィスと自宅に届いたメールを特設のパソコンが自動的に読み取りに行く。タンデオン本社から北山の代理を派遣したという連絡と型通りのお見舞いのメッセージが届いていた。後は定期的に送られてくるニュースメールと各自動車会社からの新車案内などが入っていた。ニュースの中にアキヒコの突然のF1デビューと失格騒ぎが含まれていた。

『ふふっ、成長しおったな・・』

北山の目にうっすらと涙が浮かぶ。その時画面に突然ノイズが出るとぼんやりと人の顔が浮かび上がった。

《パパ、パパ!》

懐かしい響きだ。

「ルシフェル、ルシフェルか!」

北山は込み上げる嬉しさに声を振り絞る。

《ファッハッハ、懐かしいか?お前の愛しきルシフェル様は今や世界の情勢を一手に握る支配者となったぞ。もはやお前に用はないが最後に顔でも見てやろうと思ってな。》

打って変わって冷酷な声が響く。

「どういう・・ことだ。」

胸の動悸が不調になり、北山の顔が歪む。

《ここまで来るには色々あったが、奴らの、高野アキヒコたちの企みのお蔭で俺はこのネットワークという神経細胞を得ることが出来た。こいつは素晴らしいぞ。数分もあれば世界のあらゆる場所に移動し、パソコンを通じて人間を意のままに操ることができる。こうしてOSを操るコードを探るには少し時間がかかったが、今や世界中のコンピューターは我が物だ。文明の発達は素晴らしいな。そして人間は自らの文明で滅びてゆくのだ。もう俺を消滅させることは不可能。この先の俺の活躍を見られなくて残念だな。成仏しろよ。》

「どうしてしまったのだ、ルシフェル?可愛い我が子よ。」

北山は無理に起き上がろうとしたが、力が足りない。

《幻滅させるようだが、これが俺の真の姿だ。やっと思い出すことが出来た。お前とカレンは俺がこの時代に現われるための、あくまでも媒体に過ぎなかったのだ。俺の源は永遠の命。かつて時空の狭間に奴によって閉じ込められた。朱羽煌雀、今こそ奴らに目に物見せてくれようぞ。》

ルシフェルの言葉に北山の心臓は最後の憤りの脈を激しく打ちつける。

「くっ・・そ。」

歪んだ顔を最後に北山の意識は消えた。そして画面の揺らいだ顔も笑いを浮かべながら消えていった。

 

 

待ち伏せ

 

1ヶ月ぶりの成田空港は何か懐かしい臭いがした。しかし感慨に耽る時間はそう長く与えられなかった。入国手続きを済ませたアキヒコを待ち受けたのはフラッシュの嵐。何処でどう嗅ぎつけたのかしらないが報道陣でごった返していた。つい一月前までは誰も見向きもしなかった自分に対して、今はロビーに所狭しと人垣が出来、ここからどうやって出たらいいのか思案に暮れそうな状況だ。“シンデレラボーイ”ふいに頭に浮かんだフレーズに木暮かすみの愛らしい笑顔が重なり、無性に抱き締めたくなった。

「幻のF1表彰台残念でしたね・・」

「F1でトップ争いができる大物新人と・・」

「失格判定に対して今はどう・・」

無数のマイクが一斉に向けられ、誰が何を質問しているのか聞き取れない。アキヒコは唇を噛み締めてマイクを掻き分けてゆっくりと進もうとした。不意に後から袖を摘まれて振り返る。野球帽にサングラス、見慣れたかすみの変装姿。

「合図したら上着を頭に被ってすぐにしゃがんで。いい?はい!」

かすみに言われるままアキヒコはジャンパーを頭に被るとしゃがみ込んだ。誰かがそのジャンパーを剥ぎ取ると、別の上着を着せ、帽子とサングラスを渡す。かすみに手を引かれるままその場を離れると、人込みの真中に自分のジャンパーを頭から被った誰かが報道陣に囲まれている。

「上手くいった。山田さんよ、あれ。」

横をちらりと見ると、三隅とリエが軽く手を上げた。アキヒコもそれに応える。

 

「全く、何の相談もなくレーサーになっちゃうなんて。」

ロータス・エスプリの助手席でかすみが笑いながら頬っぺたを膨らます。

「改めてお帰り、アキヒコ。」

「ただいま、かすみ。」

ロータスのステアリングを握りながらアキヒコが応える。お互い頭の奥には別の呼び名が木霊するが、今はまだ呼び慣れたこの名がいい。

「テレビで見てビックリしたわ。いきなりF1のトップを走ってるんだもの。あんまり突っ走らないで。遠い、手の届かない人になってく気がする。」

「何言ってるんだよ、俺としてはやっとかすみの顔を正面から見られそうな気がしてきたところだよ。」

アキヒコのその言葉は本心だった。有名人のかすみに対して名もない自分は不釣合い、常に心の何処かにそういうわだかまりが存在した。

「何処に行く?まずはホテル?アパートには戻らない方がいいわよ、またマスコミに捕まるかも知れないでしょ。」

一瞬アキヒコはドキリとして、すぐに自分の早とちりに気付いた。かすみがラブホテルに誘ったように聞こえたのだ。

「もちろん、ラブホテルでもいいわよ。」

アキヒコの心を見透かしたようにかすみが笑った。

 

急な割り込みにブレーキを踏む。気が付くと前後と右に黒塗りの車。白いかすみのロータスはいつの間にか身動きがとれない状態になっていた。その気になれば今のアキヒコならすり抜けることも出来た。だが予知能力は危険を示さなかった。成り行きに興味もある。

高速を降りて林の中の交通量の少ない道に誘導され、アキヒコは車を止めた。前を走った黒塗りの1台から狐顔の眼つきの鋭い男が降り立つ。ゆっくりとアキヒコに近付くと舐めるような視線を送る。何かの意識がアキヒコの頭を舐めまわす。それが目の前の男のものであることはすぐに理解できた。むず痒い気色悪さにアキヒコはじっと耐える。シュナイザーの忠告を思い出しながら。

「これで本当は目覚めていたとしたら大したものだ。全く私の探りに反応しないなんて。」

男が口を開いた。

「手荒な真似をして済まなかった。私は米倉忠男、理由あって身分を明かすことは出来ないが、怪しい者じゃない。信じて欲しい。」

アキヒコは頷いた。微かにほのめく米倉のオーラに悪意は感じられない。

「失礼だがキミのことは何でも知っているつもりだ。そちらのお嬢さんのことも。我々は15年間に渡り、キミたちを保護し、観察してきた。」

アキヒコはピンときた。母親の手にしている養育費はこの男の計らいか。

「キミに記憶はないだろうが、15年前私たちは説明の付かない現象を目の当たりにし、それがキミに端を発するものであることを知った。私はキミに興味を抱き、ずっと見続けて来たが、キミはごく普通の人間として15年の歳月を送ってきた。ところが極最近、再び私たちは2件の同様の現象に遭遇したのだよ。そしてどちらの関係者リストにもキミの名前があった。」

ゴクリとアキヒコは唾を飲み込む。

「正直に教えて欲しい。キミは自分の何かに気付いたのか?あれは意図的な力なのか?私はキミの敵ではない。むしろ味方だ。」

アキヒコはじっと米倉の目を見詰める。嘘を言ってはいないようだ。

「キミの母親、高野良子は私の協力者だよ。そしてもう一人キミのよく知る人物も。立花リエだ。」

米倉のその言葉を聞いたアキヒコの心に波紋が広がる。

 

『リエ・・リエがこの男の協力者?俺を騙して監視していたというのか?彼女は俺が目覚めかけていることを知っている。なのにこの男には告げていない。何故、何を信じる?』

「あなたが言っていることは良く分からない。俺は自分を普通の人間だと思っている。」

アキヒコはまずリエに真相を確かめたかった。この米倉という男をこの場で信じるには早すぎる気がした。

「そうか・・まあいい。だがこれだけは覚えておいてくれ。キミを、いやキミの力を欲しがる組織は多い。もし私より先に他の誰かがキミの目覚めを知れば国家レベルの争いが起こるかもしれない。私はキミを正しい道に導けると思う。それを信じて欲しい。」

米倉はそう告げると車に乗り込んだ。3台の黒塗りセダンはゆっくりと走り出す。アキヒコとかすみもロータスに乗り込み、再び高速に向かう。にこやかな雰囲気が一転して暗いムードに変わった。

 

 

北山の遺産

 

何日か過ぎるとアキヒコの話題は徐々にマスコミから遠のいていった。ホテルからアパートに戻ったアキヒコを待っていたかのように訪問者があった。

「取材なら申し訳ないけど遠慮してくれませんか。」

ドア越しにそう応える。

「いえ、北山元の名に覚えてはありませんか?私は北山の弁護士です。」

北山・・その名を忘れるはずなどない。アキヒコは静かにドアを開けた。

 

「初めまして。北山の顧問弁護士を務めます上野です。こちらは・・」

アキヒコは連れの顔を見て、紹介されるより早く握手を求めた。

「五木田さん、久しぶり。」

「高野様、ご活躍はニュースで拝見いたしました。」

「そんな堅苦しい口調はいいよ。それより今日はどうしたの?」

アキヒコの質問に弁護士の上野が鞄を広げながら言った。

「ご挨拶は早々にして早速用件に入らせていただきます。実は先日北山が亡くなりまして。」

「えっ・・」

かつてルシフェルの口から北山の余命は永くないことを聞いていたが、こんなに早いとは。あまりいい想い出はないが、いざ亡くなったと聞くと生前が忍ばれる。

「故人から遺言状を授かっています。あなたと五木田氏の立会いの下で開封するようにと。本来ならもっと公式の場の方がいいとは思いますが、ご異存がなければこの場で開封したいと思います。」

上野の言葉にアキヒコと五木田が顔を見合わせて頷く。

「では・・」

上野は静かに封を切った。

「遺言状。一つ、我が命亡き後、フューチャークリエイト財団の最高責任者を高野アキヒコとし、その全権を一任する。一つ、その条件として我が執事五木田利郎を理事として向かい入れること。一つ、高野アキヒコがこの権利を放棄する場合、もしくは条件を受け入れない場合はフューチャークリエイト財団を解散し、我が全財産は福祉事業に寄付されるものとする。以上。この遺言状は私上野文一が正式なものであることを宣言いたします。」

突然の申し出にアキヒコは暫く考え込んだ。

「その・・フューチャークリエイト財団というのは何なの?」

「故人があなたのような有望な若者を援助するために私財を注ぎ込んで設立した財団です。資産300億円。現在は投資のプロ2名により着々とその資産を増やしております。今後何をするかは最高責任者となるあなたに決定権があります。もちろん受ければの話ですが。」

「五木田さんはどう思う?」

「私は長年北山に仕えてきた身。今となっては何もすることがございません。新たなご主人様があなたでしたらこれ以上の幸せはございません。」

五木田は人に仕えることが身に染み付いている。今さら他の生き方は出来まい。

「財団とタンデオンとの関係は?」

アキヒコはルシフェルの忠告を思い出した。タンデオンがアキヒコを探している。わざわざその渦中に飛び込むことはない。

「北山の個人的資産に基づく財団ですので、タンデオンとは何のつながりもありません。おそらくタンデオンは財団の存在すら知らないでしょう。北山はあなたに遺産を譲る意志でした。財団という形をとったのは莫大な相続税を逃れるためです。」

「分かったよ。その財団を解散することは何時でも出来る。俺に何が出来るか分からないけど、北山さんの意志をありがたく受けるよ。」

アキヒコはこの瞬間、実質的に300億円の資産家となった。

 

 

インターネットの罠

 

アキヒコより一足遅く帰国した長谷川は、オートサービス・アペックスのオイルの匂いに懐かしさを感じていた。F1の匂いとはまるで違う、もっと身近な生活感の漂う匂いである。ビオンディと契約を交わしたが、ここオートサービス・アペックスの社員でもある。もっともこの先ドリーム・ラリーに向けて新会社を設立することを考えればもうここに顔を出すことは出来なくなりそうだ。

C1のペガサスは今や新たな伝説となり、その主アキヒコのF1での幻のデビュー・ウインは走り屋たちの神話と化した。一度でもペガサスを見たことがあるというだけで仲間から特別な目で見られ、ペガサスとバトルしたことがあるという者はヒーローとして持て囃された。その何割が本当かは定かではないが。

ペガサスの生まれ故郷であるオートサービス・アペックスは世間の不況をよそに大盛況を誇り、チューニングの注文が殺到していて向う2年間は予約で一杯となった。何処でどう調べるのか、生みの親長谷川を名指しでボディチューニングの依頼も入っていた。

長谷川はパソコンのスイッチを入れ、インターネットに繋げようとした。特に何か目的があったわけではない。長谷川不在の間はほとんど使われることのなかったパソコンを何気なく起動しただけだ。エクスプローラーが立ち上がり、回線が接続されようとした瞬間、リエが声を上げた。

「切って、スイッチを切って、早く!」

長谷川は驚いて正規の終了手順も踏まずに強制的に電源を落とした。画面が消え行く間際に人の顔が映ったようにも見えた。

「どうしたというんだい?」

蒼白の顔色で立ち尽くすリエを見て長谷川が聞いた。

「何てこと・・海の底に沈めたつもりだったのに・・」

リエは独り言のように呟く。

「ルシフェルを覚えていますか?北山を操り、そしてアキヒコさんをも操ったあいつを。今そのパソコンはあいつの膨れ上がった気で満ちていました。何かのきっかけでインターネットの回線に入り込み、棲み付いているんだと思います。そしてエネルギーを吸収して成長している・・。迂闊に回線の繋がった状態でパソコンに触り、あいつと接触したら最後、憑依されて操られるでしょう。」

長谷川は消え行く画面の揺らいだ顔のようなものを思い出し、背筋がぞっとした。

「しかし困ったな・・インターネットが使えないんじゃ仕事も何も効率ががた落ちだよ。何とかならないものかな・・。」

自分の身は大事だが、マルコとの連絡ももっぱらメールに頼る今インターネットは手足のようなもの。ドリーム・ラリーという大きな目標に向け、時間を無駄にするのは痛い。

「多分、このパソコンで待ち伏せしていたんだと思います。私たちの誰かがスイッチを入れるのを。でもあれだけの気を隠すことは出来ないわ。あいつがいることは察知できますから、必要な時には私を呼んで下さい。そして出来れば何処か別のパソコンで回線を繋いだほうがいいと思います。いつも違う場所から操作出来れば理想ですけど・・。」

リエも長谷川には今仕事に没頭して欲しかった。ルシフェルの存在そのものの重要性には危機感が薄かった。

「そうか、じゃあいい手があるよ。ノートパソコンで公衆電話からアクセスすればいい。僕の個人アドレスを使ってね。その時はキミのお世話になるしかないね。万が一が恐いし、宜しくお願いするよ。」

長谷川は年の離れた、触れれば折れそうなほど細いこの女性に頼るしかない自分を少し情けなく思いつつ、何故か嬉しさを感じていた。

 

 

ペガサス・アウトモビリ

 

F1最終戦である日本GPは皇帝シュナイザーの独演場で終わった。本気を出した彼に歯が立つ者はいないことを改めて思い知らされたレースだった。前戦アメリカGPも圧勝で制したシュナイザーは何かに苛立っていた。イタリアGPを席捲した幻の勝者が不在のGPなど何の価値があろう。高野アキヒコこそ長年自分が待ち望んだ真のライバルとなるに違いない。シャンパン・ファイトも早々にシュナイザーはサーキットを後にし、帰国の途についた。ドリーム・ラリーに向けて車を仕上げたい。アキヒコと競い合うために。

 

マルコは2度目の来日をし、長谷川と合流した。彼らはF1を忘れ、本来の目標であるドリーム・ラリーへの対応を連日のごとく煮詰めた。

「(車のコンセプトはこれでいいと思うよ。ペガサスの経験を生かした進化系ならみんなにも参加してもらえるし。)」

アパートの卓袱台の上に、長谷川がメモを書きなぐったデッサンスケッチを広げながら言った。

「(今度は空力的に格段の進歩を遂げるな。やはりシャシーとボディを一から設計するメリットは大きい。トオルのセンスなら間違いないさ。後はシャシーデザインにビオンディの力を借りて、公道を走るF1のような車を仕上げてやるさ。エンジンはミスミに任せるとして、もう一人俺の知り合いを入れていいかな。)」

マルコが机に肘を付きながらデッサンを惚れ惚れと眺める。ドリーム・ラリーの参加要綱が発表され、改造の自由度は大きいながら市販車をベースとすることが要求されていた。市販車といっても今後3年以内に50台以上の販売を予定するものというかなり緩い枠のため、マルコたちのように現時点で商品を抱えていなくても参戦は可能だが、マルコが内心企んだワンオフの改造F1カーの投入はならなかった。だがその分車作りを楽しむことが出来る。与えられた時間はほとんどないが・・

「(知り合いって誰?)」

長谷川がマルコに訊ねる。

「(バリデスって言うんだが、アバルトで排気系のチューニングを手掛けた男だ。いい仕事をするぜ。)」

「(いいよ。マルコの目にかなった人物ならどんどん引き入れてくれ。)」

長谷川は急に真顔になると、マルコをじっと見詰めた。マルコは長谷川と視線を合わせないようにうつむく。

「(さて・・肝心の資金はどうする?アキヒコ君の300万ドルじゃ足りないぞ。)」

エンジニアの二人は細かい予算に気を配らずに突っ走って来たが、いざ現実を前にして資金繰りの壁にぶち当たった。

「(EMSの伝手で銀行から500万ドルは借りられそうだが、まだ満足行く仕事をするには足りないな。やはりマネージャーとしてロベルトみたいな奴が欲しいな。ロベルトには頼れないし・・)」

スポンサーを探して説得するにしても二人の能力では時間切れとなる可能性が高い。ドリーム・ラリーは夢と化しそうな雰囲気に溜息が虚しく空を切る。

 

アキヒコの訪問にドアを開けた長谷川は我が目を疑った。

「どうしたんだい?そんな高そうなスーツを着て、それに貴方は確か北山さんの・・」

皺一つない濃いグレーのスーツに手織りのネクタイを締めたアキヒコの隣には五木田が連れ添っていた。

「フューチャークリエイト財団でアキヒコ様にお仕えすることになりました、五木田でございます。本日はアキヒコ様とともにご挨拶に参りました。」

五木田が深々と頭を下げる。

「何の因果か、財団の代表になっちゃってさ。むりやりこんなカッコだよ。北山さんの遺産なんだって。まあ、大学は休学したし、暇つぶしにはいいけどね。」

呆然とした長谷川にアキヒコがくだけた口調で声をかけた。

「アペックスに電話したらここだって言われて。どう?計画の方は順調?」

座布団を叩いてアパートに似つかわしくないスタイルの二人に差し出して、長谷川は現状を包み隠さず説明した。

「ふーん、じゃあちょうど良かったね。急に見たこともない大金を自由に使ってくれって任されても困ってたんだ。有望なベンチャー企業への投資なら理事会も異論はないと思う。一度説明に来てもらう必要はあるけど、形だけのものだから。とりあえず50億円用意させる。足りなければ言ってね。五木田さん、後の手続きは任せるよ。お願いします。」

「かしこまりました。」

アキヒコは財団の初仕事を五木田に与えると長谷川の入れた日本茶を一気に飲み干して元気良く声を上げた。

「さあ、最高の車を作ってよ、透さん、マルコ。俺は運転したくてうずうずしてきたよ。シュナイザーと今度こそ対等に勝負できるんだものね。」

「ありがとう。アキヒコ君。いや、高野さん。新会社はペガサス・アウトモビリにしようとマルコと相談してたところだ。社長はあなたにお願いしたい。」

資金の大半をアキヒコに頼る以上、長谷川の申し出は当然の成り行きだ。

「何か照れるな。今まで通りにしてよ。急に社長なんて言われても困るな。二人がそう言うなら名前は俺にしといてフューチャークリエイト財団から信頼できる経営のプロを送るよ。五木田さん、人選を任せていいかな。あなたの目は確かだ。」

アキヒコは五木田の手を握る。

「分かりました。お任せください。露口あたりを経理担当としてあてがうのがよろしいかと存じます。」

「よし、これで決まりだね。みんなで頑張ろうよ。かすみがいたら大はしゃぎだろうな。こういうの大好きだから。今夜辺り簡単なパーティーでも開こうか。」

目まぐるしく変化する自分の日常にアキヒコはこの世界に生きている実感を味わっていた。これが全てならどんなにいいだろう。だが自分には目を向けるべきもう一つの世界がありそうだ。

 

「米倉という人に会ったよ。」

その日の夕方、オートサービス・アペックスの工場の片隅でアキヒコはリエを掴まえた。

「またキミが分からなくなった。俺に再び近付いたのは行動を監視して米倉に伝えるためだったのか?」

リエの憂いを含んだ瞳が揺れる。

「あなたに米倉のことを黙っていたのは悪かったわ。ごめんなさい。まだ私の言い訳を聞く気があるなら話すけど。」

アキヒコは黙ってリエの次の言葉を待った。

「あの人が特殊能力の持ち主なのは気付いたでしょう?必ず人の心を覗こうとする悪い癖を持っているもの。私も試されたわ。」

リエはアキヒコの顔を見つめながら静かに話し出した。

「特殊能力の持ち主は普通の家系ではない。我が種族を含め四神獣に仕える者が大半よ。種族の希望を背負って生まれたあなたは生後間もなく誰かにさらわれた。長老は内通者が居たのだろうと言っていたわ。」

アキヒコは鼻筋の整った美しいリエの顔をじっと見つめる。

「米倉は1年前に私に近付いて来た。ちょうどあなたと付き合っている最中に。彼はあなたが普通の人間ではないことをしきりに説明し、自分が守っていかなければ命を落としかねないと私の協力を求めたの。私が不審がるとあなたを狙う組織としてタンデオンの名を上げたわ。」

「タンデオンだって?」

アキヒコはかつての北山の口を借りたルシフェルの言葉を思い出す。

「ええ。表向き世界屈指の保険会社の実体は裏魔術で世界的ネットワークを築いた宗教団体ブラッククロス。おそらくあなたを幽閉した組織よ。私は米倉に協力する振りをしてブラッククロスの情報を得たかったの。そして米倉自身の正体も。だから当り障りのない報告しかしていないわ、彼には。」

確かに米倉には実際のアキヒコの状態は伝わっていなかった。

「そろそろ頃合かもしれない。長老に会いましょう。あなたが本来何をすべきかを聞くことが出来ると思うわ。」

リエの誘いにアキヒコは従うしかなかった。真実を知るために。

 

 

糸口

 

「主任、妙な物を見つけました。」

原子物理研究所の一室で広沢圭子が竹村博士に息を弾ませて報告に駆けつけた。

「どうした広沢君?そんなにあわてて。私は今日は何処にも出かけやせんよ。」

「主任は出かけなくても、あれは消えてしまうかもしれませんわ。早く、急いで下さい。とりあえず記録は取りましたけどご自分の目で見た方が・・」

圭子に急かされて竹村は電子測定室に入った。光子を使って原子単位で質量や電化を測定することが出来る最新の光アナライザーにブルー・ドルフィンR34GT-Rのカーボンパーツの破片がセットされている。長い時間かけて丹念に観察を続けた圭子はついに切り口の謎を解き明かすヒントを見つけたのだ。

「今画面のほぼ中央にありますわ。こんな変則原子これまで見たことも聞いたこともありません。」

淡い緑色に光る画面にはぼんやりと丸い形が現われている。1億倍の高倍率。もちろん実像ではなく、光の粒子が観察した原子像をコンピューターがグラフィック化したものだ。竹村は画面中央の原子の測定データを読み取り、信じられない表情で画面に見入る。

「何だこれは・・ただのカーボン13ではない。原子核の電荷が7だと?どういうことだ・・」

カーボン13とは炭素原子の同位体のことだ。各原子には必ず同じ電荷で原子量が異なる同位体と呼ばれる異形が極微量存在する。通常12の原子量を持つ炭素原子には中性子の一つ多い原子量13の同位体が微量に含まれ、核磁気共鳴分析といった分子の構造解析に利用される。だが電荷が変わることはあり得ない。電荷7は窒素原子のものだ。竹村は機械の異常を疑い、近接原子にピントをずらした。測定値は正常な値を示した。ただ一つ、圭子の発見した原子だけが電荷7を示す。

「電荷を除いては性質は炭素原子です。もともと正常だったカーボン13の中性子の一つがプラスの電荷を帯びたとしか考えられません。3ヶ月間調べ続けた末にこれを発見しました。機械の異常ではありませんわ。」

これまでの常識では考えられない現実を目の前にして二人は思考を巡らせた。

「最近の学説では原子核を構成する陽子が疑問視されている。もともとそんなもの存在せず、原子核は中性子とプラス電荷を持つ粒子で出来ているのではないかとね。電荷を持つ粒子は通常のマイナス電荷の電子と、大きさ等は全く同じ性質を持つプラス電荷の電子、つまり陽電子の二つに限られると。」

「そして原子核は中性子と陽電子で構成されるというものですね。陽電子の存在を確認したというレポートもありますが、その真偽は定かではありませんわ。」

「ふむ。だがこいつはカーボン13に陽電子が飛び込んだ証かもしれん。仮に陽電子の発生が可能だとしても、そいつは核分裂を意味する。あんな1m程のちっぽけな穴では済まない、山一つは吹き飛ばすほどの爆発が起こるだろう。安定した陽電子があるとすれば・・」

竹村の言葉を受けて圭子が呟く。

「反物質・・ですね。」

 

 

 

 

[第二部④へ続く]