ペガサスの翼
第三部
砂漠の果てで
陽炎が揺らめく地平線、果てしない薄茶色の世界。照りつける灼熱の太陽が容赦なく身を焦がす。仮設テントに詰め込まれた水と食料が命の糧だ。リクライニングのパイプチェアに寝そべり、透き通るような青い空を眺めていると、遠くで鳴る風の声以外は音もない静かな時間が心を癒してくれる。
「(行くよ、朱羽煌雀。)」
身を起こすと、そこには軍服の蒼鱗龍娯がいた。
「(今日からは模擬空戦に入るよ。時間が限られてるからさ。)」
「(ああ、頼む。)」
フランス空軍の外人部隊に紛れ込んで、ここ中東の砂漠に来てから2週間。毎日ミラージュのコクピットで大半を費やしている。
「(それにしてもあんたの飲み込みの速さには驚かされるね。たった2週間で、もうあたしと肩を並べるテクニックを身に付けちまうんだから。)」
「(そろそろ講師と生徒を代わろうか?)」
褐色の肌に茶色い長髪をなびかせた朱羽煌雀は、エメラルド・グリーンの瞳を細めて笑った。
蒼鱗龍娯が大きく手を回すと、ジェットエンジンの轟音が静けさを引き裂くように響き渡る。砂色にカモフラージュされた格納庫から、同じくサンディ・ブラウンに塗られた2機のミラージュが素早く引き出され、蒼鱗龍娯と朱羽煌雀がそれぞれのコクピットに滑り込む。衛星の監視は今から5分間死角となる。その間にテイクオフしなければ彼らがここに居ることが大国の諜報部に知れることになろう。
まったく何という2週間だろう。あれから全てが劇的に変わってしまった・・・。
戻らぬ意識
「どうなんじゃ様子は。」
宗陰がリエに尋ねた。病院に駆けつけたいが、忍びの旅では表に出るわけにはいかない。ドリーム・ラリー最終レグの行われたその日、モナコのホテルの1室に米倉や圭子、それに合流したフミカと堤が心配そうに集まっていた。
「非常に危ない状況だったそうですが、一命は取り止めました。」
「よかった。じゃあ、しばらく病院生活を送ればかすみさんは元通りなのね?」
圭子の顔に安堵の色が広がる。それを打ち消すようにリエは首を横に振った。
「・・命に別状はないそうです。でも・・意識は・・戻る見込みがないって・・」
リエの目に涙が溢れ、後は言葉にならない。
「えっ・・」
圭子が言葉を詰まらす。
「植物人間か・・」
米倉がポツリと呟いた。
「そんな、そんな突き放したような冷たい言い方しないでよ。私の娘よ。やっと会えたのに・・これから話したい事が山ほどあるのに。直るわよ。そう、日本に連れ帰って最高の医者に見せなくちゃ。お父さん、そうでしょ?」
「う・・む。」
圭子の気持ちは痛いほど分かるが、目の前に突き付けられた現実は厳しい。
「犯人は、フランス人のイェーベという男ですが、その場で取り押さえられました。共犯と思われるフィンランドの女も取り調べを受けていますが、ほとんど記憶がなくて、まともな会話にならないようです。」
米倉が現地の警察から仕入れた情報を報告した。仕入れたといっても聞き出したわけではない。例の読心術だ。
「アキヒコはどうしてる。」
「ショックで意識不明のようです。病院でマルコさんや三隅さんが付き添ってます。お母さん、いえ、高野良子さんもいました。かすみさんの方には長谷川さんが付いています。」
「お前さんも側にいたいだろう?リエ。病院に戻りなさい。」
宗陰に促されてリエは重い足取りで部屋を出ようとした。
「あの・・非常識のような気もしますけど、レースの結果はどうなったんですか?」
リエはかすみに連れ添って病院に行ったので、結果を知らなかった。
「あの事故で赤旗さ、レース中止。7割以上の周回をこなしていたのでその前の周まででレース成立だそうだ。優勝はアキヒコ。2位がミカエル・シュナイザー。素直に喜べないがな。」
堤が答えた。
「今夜表彰レセプションがあるらしい。アキヒコが出られるようなら伝えてくれ。」
朱羽煌雀の目覚め
アキヒコは静かに目を開けた。白い天井と壁、病室のベッドだ。永い眠りから覚めた気分で自分の両手をじっと見つめる。手を握ると意のままに動く。現実の体だ。満足そうにニヤリと笑う。
「まあ、アキちゃん。気が付いたのね。私よ、分かる?」
高野良子が心配そうな顔で様子を窺っている。
「アキヒコよ、無理するな。あんな事を目の当たりにしたんじゃ精神的ショックは相当なものだと医者も言ってたそうだ。まだ動かん方がいいんじゃないか?」
三隅が立ち上がってベッドに近寄る。
「鏡はないか?」
アキヒコの要望に良子がコンパクトを差し出した。
「ちょっと小さいけど我慢して。」
鏡の中には理知的な顔立ちの青年がいた。
「ちょっとイメージが弱いが、まあまあだな。」
再びニヤリと笑うと、突然凄まじいオーラを放った。髪の毛が逆立ち、一気に伸びる。
「この方が好みだ。」
周りを見ると3人は気を失っている。ちょっと刺激が強すぎたか。
「こんなに生命エネルギーを蓄えているとは思わなかった。加減しなくてはな。」
何かが変わったアキヒコが満足そうに笑う。
アキヒコの病室に入った瞬間、リエは何か違和感を覚えた。アキヒコは意識を取り戻し、ベッドに胡座をかいて座っている。だがいつもと漂う空気が違う。良く見ると髪の毛はいつの間にか伸び、背中の半分にまで達している。体も一回り大きくなった気がする。閉じた目を開けた瞬間、髪の毛が生き物のように逆立ち、揺らぐ。瞳の色が違う。深海のエメラルド・グリーン。
《ヤコ、白布衣夜子か・・》
頭に飛び込むテレパシー。
《あなたはアキヒコじゃないわね。誰?まさか・・》
《はは、まあそう構えるな。取って喰うわけじゃない。余の名は朱羽煌雀だ。》
リエの体に電流のように緊張が走る。ついに伝説の神の使いが目覚めたのだ。
《アキヒコは、アキヒコの意識はどうしたのです?》
《余程ショックを受けたのだろう。彼は自らを心の奥に封印した。これからは余がこの体の主だ。もっともこれが本来の姿だがな。》
マルコと三隅、そして良子の3人は椅子に座って眠っている。
《かすみさん、いえ、白布衣日子のことは御存知ですか?一命は取りとめましたが、意識が戻りません。あなたのお力で何とかならないのでしょうか。》
リエはすがるように哀願した。朱羽煌雀ならかすみを救える気がしたのだ。
《ああ、可哀想なことをした。だが余がこうして再び目覚めたからには、彼女は元に戻ることはない。全ては定めなのだ。そのうち分かろう。》
朱羽煌雀は微笑むだけだ。リエは冷たい寂しさを感じた。あの優しいアキヒコは何処かへ消えてしまった。そしてかすみも・・
《そなたも少し眠ることが必要だ。》
リエは瞼の重さに耐えられなくなる自分を感じ、ベッドに倒れこんだ。
タキシードに身を包んだ朱羽煌雀は、深い眠りについたかすみの手をそっと握った。生命維持装置に囲まれ、その顔に直接触れることはできない。病室にいた長谷川は心地良い眠りに誘ないだ。
「すまない。日子よ。可哀想だがそなたを救うことは出来ないのだ。そなたはアキヒコの思い出の中で永遠に生き続けよう。さらばだ・・そしてこれはアキヒコの気持ちだ。」
朱羽煌雀は、かすみの頭部を覆ったビニールの囲いを跳ね上げる。太いパイプの差し込まれた唇の端にそっと唇を重ねた。温かい。朱羽煌雀の目に知らず知らず涙が溢れる。アキヒコの流す涙が・・・。
ホテルの宗陰の部屋で、中央のソファに深々と腰を沈めた朱羽煌雀は周りをゆっくりと見回す。そのウェーブした髪は風もないのにたなびき、揺れている。
「ここにいるお主たちに、余が誰であるかを言う必要もないだろう。5000年の時を隔て、再びこの空間(レイヤー)に命を受けた。」
朱羽煌雀は一人一人見渡す。宗陰と米倉とフミカは静かに頷く。圭子と堤は良く事態を飲み込めないようだ。
「この先どのようなことになるかは余にも分からない。ただ言えるのは、進むべき道は草深く、乗り越えるべき山は剣の如き険しさを持つだろうということだ。フミカ・・記憶の伝承者よ、こちらにおいで。そして余の両の手を取り、額をつけるのだ。」
フミカは暗示にかかったように朱羽煌雀の下へ歩み寄り、言われるままに従った。二人を光が包み込み、まともに目を開けられなくなった。3分ほどで光は消え、後には気を失ったフミカが、自分の託した記憶と5000年の時の変化をインプットし、現代風になった朱羽煌雀に抱えられている。
「これで俺は完全だ。あとは・・・。」
白布衣日夜子
《リエさん、ねえリエさん。お願い、扉を開けてちょうだい。》
夢の中でかすみの声が響く。
《よかった、かすみさん。無事だったのね。》
リエは夢の中でかすみの叩く扉を開けて迎え入れた。
《ありがとう、入れてくれて。帰るところがなくてどうしようかと思ってたの。ここがあなたの世界なのね。とても優しさに溢れてる。そして、これからは二人の世界ね。》
夢のかすみは両手を広げてリエに微笑む。リエはその言葉に戸惑いを感じながらも、両手を広げて抱き合った・・・。
かすみの病室でうたた寝から目を覚ました長谷川は、人の気配を感じて振り向いた。
「リエさん?」
目を擦り、もう一度その女性を眺める。リエのようだが、何か違う。真直ぐな黒髪は栗色のウェーブとなり、憂いを湛えた瞳も深いグリーンだ。何だか、かすみのようにも見えてくる。
「さあ、行きましょう。みんな待ってるわ。」
長谷川は女神のような女性に手を取られ、部屋を出た。そこには三隅とマルコが黙って立っていた。
「来たか、日夜子。」
扉に向かって朱羽煌雀が言った。宗陰の部屋のドアが静かに開き、長谷川たちを連れた美しい女性が入ってくる。
「紹介しよう。白布衣日夜子(シラヌイノヒヤコ)、俺の側に仕えし巫女だ。」
朱羽煌雀の言葉に日夜子は軽く会釈する。
「リエさん?いえ、かすみさん?」
圭子が困惑した表情で訊ねる。宗陰から朱羽煌雀の伝説を聞かされたばかりで、頭は未だに混乱している。目の前のシーンが現実に思えなくなってくる。
「私はリエであり、かすみでもあります。もともと私はかつて一人の人格だった者。現世で二人に生まれましたが、こうなるのが自然だったのです。」
日夜子のその声は、聞く者に安らぎを与える柔らかい波長だ。
「我々の行く手には危険が待ち構えよう。だが行かねばならない。」
朱羽煌雀はスッと立ち上がった。
「日夜子、付いておいで。」
ドリーム・ラリー表彰式
「黒い影が混じっていますね。」
「ああ、ウィルスのように広がっているようだ。手筈は分かっているか?」
朱羽煌雀の問に日夜子は軽く頷いた。
「蒼鱗龍娯は太腿の内側、玄蘒武炫は鳩尾、白牙虎鉧は左の腋の下だ。難しいだろうが、お前にしかできないことだ。頼む。いや、待て。白牙は後だ。黒い影が付いている。」
「蒼鱗龍娯からいきます。お任せ下さい。」
日夜子は朱羽煌雀の下を離れ、人込みに紛れ込んだ。
「(皆様、お待たせしました。いよいよ主役の登場です。)」
アナウンスとともに重厚な音楽が流れる。
「(私共が企画し、実現に漕ぎ着けましたドリーム・ラリー。参加した108台のモンスターたちの頂点に君臨しますは、ペガサス・アウトモビリのアキヒコ・タカノ。フロム・ジャパン!)」
盛大な拍手とともに若者がステージに上がる。モーター・スピリットとタンデオンの代表が優勝トロフィーを手渡す。スピーチを求められ、マイクを握る。
「(・・この栄誉は私を支えた全てのスタッフと応援してくれた観衆のみなさんに、そして何より、悪夢の、本当に夢であって欲しい事件の犠牲となった我が最愛の眠り姫に捧げたいと思います。)」
会場が一瞬静まりかえり、喝采が湧き起こった。自分に押し寄せる賞賛のオーラの波を、朱羽煌雀は心地良く吸収する。アキヒコの感情は自分にはない。だがアキヒコの記憶は共有ファイルとして引出せた。いくらでもアキヒコを演じることは容易い。
アン・モンゴメリーが化粧室へ入ったを後から見届け、日夜子はそれに続いた。
「おや、あんたアキヒコの・・」
洗面台の隣に立った日夜子にアンは軽く手を上げる。
「大変だったよね、あんたのお仲間。何と言ったらいいか、まあ気を落とさずにさ。あれ、あんたちょっと印象変わったね。」
流暢な日本語で話しかけたアンは今までのリエではないことに気付いた。
「素敵なタイツね。ちょっと上まで見せて下さらない?」
変なところに注目する娘だなと思いながらもアンは片足を洗面台に乗せた。
「いいよ、ほら。良く見なよ。」
スカートの切れ目から太腿が覗く。日夜子はそっと手を伸ばし、そこに触れた。
「綺麗な足。素敵・・」
「何だよ、あんた。そっちの気があるのかい?」
顔を赤らめながら、アンは対処に困った。日夜子の指先が目的の物を探り当てると、アンの体に電流が走る。
「(な、何よこれ!・・)」
アンの太腿の内側にあった竜の髭の形をしたアザが、日夜子に触れられて強烈な光を放っている。
「ごめんなさい、すぐに済むわ。」
日夜子の言葉とともにアンは遠のく意識を感じた。
「(とりあえずおめでとうかな、アキヒコ。彼女のことは残念だが。)」
カクテルのグラスを、シュナイザーは近付いて来た朱羽煌雀に傾けた。
「(ああ、ありがとう。キミに勝てたことが何より誇らしい。)」
朱羽煌雀の後から2人の女がスッと現われ、シュナイザーの両脇を囲んだ。
「(何だい?突然。綺麗なご婦人に囲まれるのは悪い気分じゃないが。アン?それにミス・リエだったかな?)」
「(悪いが、キミの人生は私に預けてくれ。約束の物とともに・・)」
朱羽煌雀が2人に合図する。
「(あたしはもうアンじゃないの。蒼鱗龍娯よ。)」
褐色の肌の女神はシュナイザーの耳元で囁くと、後から腕を羽交い絞めにした。強烈な力だ。屈強なシュナイザーを持ってしても身動きが取れない。
「逞しい胸・・」
日夜子は頭をシュナイザーに擡げながら、ドレスシャツに手を滑り込ませて鳩尾を探る。シュナイザーは突然火のような熱さを感じた。
「(う・・お!)」
声にならない一瞬の呟きを残して、シュナイザーの意識は過去のものとなった。
タンデオンの古城
「(会長が是非お目にかかりたいと申しております。外にお車を用意してあります。)」
朱羽煌雀の前に黒尽くめの男が現われ、言った。
「(会長ってタンデオンのかい?)」
「(はい。)」
「(何故ここじゃないんだい?場所は遠いのかい?)」
「(会長は多忙な身でして、本日も大事な会食がございました。ここから車で1時間ほどですのでお手間は取らせません。)」
危険な匂いがプンプンする。
「(分かった。ただし自分の車で行かせてもらう。パートナーといっしょにね。君たちも行くだろ?)」
朱羽煌雀は蒼鱗龍娯と玄蘒武炫を誘う。二人は当然の如く頷いた。
「(よし、マユニネンにも声をかけよう。)」
アルプスを背にした湖のほとりにその城はあった。深い森の中を進む一本の道しか許されたルートはなさそうだ。塹壕と高い城壁に守られ、正面ゲートを閉ざすとまさに鉄壁の要塞だ。
リムジンの先導で、ペガサス・スクァーラルとモデナが続く。スクァーラルには朱羽煌雀と日夜子が、モデナには玄蘒武炫と蒼鱗龍娯が乗っていた。マユニネンはリムジンの中だ。城壁のゲートをくぐるとさらに道は遠方に続く。クネクネと曲がりながら斜面を登っていく。城は山の中腹にそびえていた。よくぞまあ、こんな場所に作ったものだ。車を中庭に止めると、黒尽くめの男は朱羽煌雀たちを城の中へ案内した。
天井の見えない吹き抜けの広間。城の中央部に近いのだろうか。大きな円形の大理石テーブルを囲むように、革張りの肘掛のついたソファーが10脚ほど置かれている。朱羽煌雀たちはそこに腰を下ろした。
2分ほど待つと、入ってきたのとは別の扉がギギッという音を立てて開いた。高さ10mはあろうかという両開きの扉の向うから、男女が談笑しながら入ってきた。女は黒豹を連れている。
「(お待たせしました。こんなところまでご足労願いまして、お礼を言います。大したおもてなしは出来ませんが、寛いでいって下さい。)」
女がパンッと手を叩くと、幾つもの皿が大理石のテーブルに運ばれた。豪華な料理やフルーツ類、そして年代物のワイン。パーティのオードブルなど目ではない。一行は思わず唾を飲み込む。
「(紹介が後になりましたわね。私はタンデオンの会長、ルリ・ルビンスキーです。こちらは紹介するまでもないでしょう。合衆国大統領です。サミットのついでに個人的相談にお見えになられました。あなた方の勇姿を御覧になりたいとおっしゃるので、お連れしました。)」
ロックダム大統領は満面の笑みを浮かべ、朱羽煌雀たち一人一人と握手を交わすと、肩を叩いて健闘を称えた。
朱羽煌雀はタンデオン会長の“ルリ”という名が頭から離れない。アキヒコの記憶にある名だ。そう・・彼を、自分を朱雀の祠から連れ去った実の母親・・・。
「(あなた方の磨き抜かれた技量と、決して諦めることのない精神力には心から感服しましたわ。そして、その頂点に立たれたミスター・タカノには最大級の賞賛を送ります。)」
ルリは側に伏せた黒豹の背を撫でながら朱羽煌雀に微笑みかける。年の頃は40半ば、自分の母親と同じ年代だろう。栗色の髪とエメラルド・グリーンの瞳だが、顔立ちはどこか東洋人に見えなくもない。
「(私の可愛い娘たちも、あなたの前では歯が立たなかったようです。)」
その言葉に合わせて再び大扉が開いた。そこには見慣れた双子の姉妹が立っていた。マーシャとサーシャ・ルビンスキー。2人の得体の知れない実体を垣間見た朱羽煌雀と日夜子に緊張が走る。
「(タカノさん。私はこの先のあなたのあらゆる活動をサポートする用意がありますわ。レース活動のみならず、あなたが望む行動全てに対して。その条件はただ一つ。私たちの一員となることです。悪くない話ではありませんか?)」
「(あなた方の何たるかも分からずにそういう話に頷くほど子供ではありませんよ。マダム。あなた方の本当の姿を確かめないことにはね。)」
朱羽煌雀の言葉に部屋の隅に控えたガードマンたちが身構える。
「(ホッホッホッ、素晴らしい度胸だわ。私にこれまでそのような言葉を投げかけて平穏な日々を送っている人は居ませんわよ。ましてやここは私の領地。私が上げた手を下ろした瞬間、あなたは永遠の眠りにつくこともあるということを考えた上での言葉かしら。)」
朱羽煌雀と日夜子は顔を見合わせる。マーシャとサーシャから立ち上る黒いオーラのたなびきは、細い糸のようになってヤン・マユニネンに繋がっている。やはり操られているのだ。
日夜子は視界の隅にう1本の黒い糸を見た気がした。目を細めて凝視すると、気のせいではない、黒い糸が見える。ルリと黒豹の間に。朱羽煌雀は気が付いているだろうか・・・。
「(かつて日本にあった特殊能力研究施設が壊滅した事件をご存知でしょう。あれを思い出した・・といったら?)」
「(シュバ・・ノコウシ?)」
朱羽煌雀はニヤリと笑って見せる。ルリは一瞬緊張の面持ちを見せたがすぐに笑みを湛えた表情に戻る。
「(そう、思い出していたの、自分の真の姿を。あなたが、アキヒコ・タカノ、コードNo.R017が朱羽煌雀であることは日本政府の友人から報告を受けていたわ。そして目覚めかけていることも。こちらの大統領もあなたには非常に興味をお持ちよ。人間兵器の可能性としてね。)」
ルリは手元のボタンを押した。朱羽煌雀の座ったソファーの足元から細い棒のようなものが伸びると高速で回転を始めた。朱羽煌雀は素早く自分の足を上げ、ソファーに胡座をかく。棒の先端から青白い光線が立ち上ると、ソファーごと朱羽煌雀を半球状に包み込んだ。
「(ホッホッ、電磁シールドよ。内側からは何も外へ出ることは出来ないわ。あなたのブラックホールもそのシールドの外へは出ない。つまりあなたはもう無力の状態ですわ。ホーホッホッ!)」
矛盾のベール
「(あなたはこれで囚われの身、ロックダム大統領にいいお土産を差し上げることが出来そうだわ。)」
日夜子、蒼鱗龍娯、そして玄蘒武炫の3人がソファーから離れようとしたが一瞬遅かった。包み込んだ電磁シールドの壁に跳ね返される。
「(どうやら歩が悪そうだな。悪あがきは無駄か・・。まあ、あなたの本当の正体を確かめるという意味では成功だったな。)」
朱羽煌雀が諦め顔で笑う。
「(一つ聞いてもいいかい?ブラッククロスのボスさん。あなたにはその双子以外に息子がいただろう。生まれて間もなくブラッククロスの実験体として捧げた男子が。里親に高野アキヒコと名付けられたそいつは成長して再び能力に目覚め、今本来の姿であなたの目の前に居る。あなたは俺の実の母親だね?)」
全員の目が朱羽煌雀に集まる。本当なら衝撃の事実だ。
「(知ってどうなるわけでもないでしょうけど、イエスよ。)」
ルリが微笑みながら答えた。
「何てこと・・煌雀様。」
日夜子に目に動揺が走る。宿敵ブラッククロスの中心人物が、絶対的な愛の相手、朱羽煌雀の母親だったなんて・・。
「抱き締めてあげてもいいのよ、あなたが私に全てを委ねるならね。いいわ、思い出話でもしてあげましょう。」
ルリは流暢な日本語で話し出した。
「朱雀の祠に生まれた私は、あの狭い空間にうんざりしていたの。長老を受け継いだ女は“種の保存の旅”が来るまで一歩もそこから出ることを許されない。20年待ち望んだその旅立ちは、私を日本から離れさせたわ。私は二度と帰るつもりはなかった。ヨーロッパを転々としていた時、あの人と出会った。最初は知らずに恋に落ちたわ、彼、米倉忠男がブラッククロスのメンバーだったなんてね。」
朱羽煌雀と日夜子は脳天に冷や水を浴びた気がした。米倉がブラッククロスのメンバー?まさか。
「彼との子供が出来た時、彼は初めて私をブラッククロスの集まりに連れて行った。崩れかけた教会の地下室に作られた魔方陣の中央に寝かされた私は、心の底から恐怖を感じたのを今でも覚えているわ。もっとも今ならそれは何事にも勝る喜びよ。当時の私は必死に逃げ出し、二度と帰らないつもりだった日本へ舞い戻った。そして結局頼るべきところは朱雀の祠だったのよ。私は朱羽煌雀、あなたをそこで生んだわ。それが古い私との決別の時であり、新しい私の誕生の時であった。」
「あなたは薬を飲んだんだね?俺を生む時に。東京の産婦人科で渡された薬を。それがブラッククロスの生み出した魔の薬だとは知らずに。」
「そうね。脳内シナプス増幅剤シナキストロン。当時はまだ名前さえ知らなかったけど・・。そう、彼らは、ブラッククロスは私を泳がせただけだった。私の後をつけ、監視し、医者を買収して私に薬を飲むように仕向けさせた。でもね、薬は単にきっかけを作るに過ぎないのよ。シナプスを異常に増加させて眠れる脳を活性化させる。その間人は脳の奥深く封印された潜在能力を発揮すると同時に軽い錯乱状態となる。すなわち暗示にかかりやすくなるのよ。」
「そこに誰かが強い思念波を送って暗示にかけたんだな。米倉か・・」
朱羽煌雀は米倉に強い不信感を抱いた。
「いいえ、あなたよ朱羽煌雀。私は生まれて間もないあなたの命令を受けて、あなたともう一人の女の赤ん坊を祠から連れ出した。私は既に私であって私でなかったわ。あなたの意のままに体が動き、私自身ではどうすることも出来なかった。・・あなたの本性は恐ろしい人なのよ。」
ルリは意地悪な視線を朱羽煌雀に送る。いかにも自分たちは同類だと言わんばかりの視線を。
朱羽煌雀はじっとしているのが苦痛になってきた。何とかこの電磁シールドを破れないものか・・
『!』
ある考えが閃き、朱羽煌雀はオーラを凝集させる。ソファーが浮き上がりゆらゆらと動き出す。電磁シールドはソファーの動きに連れて移動する。朱羽煌雀は日夜子のシールドに向けてソファーを加速させた。電磁シールド同士が触れ合い、火花を散らす。ソファーがぶつかり合い、投げ出された朱羽煌雀はシールドの壁に跳ね返される。肩口にビリビリと痺れが走った。シールドは壊れるどころか合体して一回り大きな固まりとなってそこにあった。朱羽煌雀と日夜子が同じシールドに入ったことを除けば状況に変化はない。
「ホホホ、そのシールドを壊すことは不可能よ。無駄なことはお止めなさい。」
朱羽煌雀は再び腕組みをして座り込んだ。
「研究施設に陣取ったあなたは自らの意識をコンピューターに繋げ、幼女ヒコの意識と接触した。それが能力の目覚めのスイッチだったのね。あなたはたちまち凄まじいオーラを操り私たちを恐れさせたわ。そして私から記憶の伝承を受けようとした。でも何かが足りなかったのね。あなたの脳に情報が伝わることはなかったようよ。一年後私はタンデオン会長のルビンスキーの女となり、再び身篭った。そのお腹の子供にあなたは恐ろしいことをしたわ。例のブラックホールから何かのエネルギーを引き出すと、私の子宮へ送り込んだ。生まれた双子は冷酷で残忍な姉妹だったわ。まるであの頃のあなたのように。」
ルリはサーシャとマーシャを見る。二人は談笑しながら懐から鋭いナイフを取り出すと、日夜子めがけて投げつけた。ナイフはシールドをスルリと抜けると日夜子の頬をかすめてソファーに突き刺さった。
「まあ、悪戯好きね。御覧の通りシールドは外から入るものに一切干渉しないのよ。変な真似をすれば銃弾の雨があなた方を包むことになるわ。」
朱羽煌雀は再びソファーを浮遊させると蒼鱗龍娯めがけて移動する。シールドは合体し、3人が一箇所に集まった。続けて玄蘒武炫も同じシールドに取り込む。
「フフフ、見張りの手間を省いてくれるのね。ボディーガードはこれで一箇所に注意を払えばよくなったわ。さて、あなたはサーシャとマーシャに飽き足らず、数年後もう一人の妊婦を研究施設に招きいれた。タンデオン日本支社長、北山元の妻を。ブロンドの美しい婦人にあなたは私にしたのと同じように、ブラックホールから引き出したエネルギーを吸収させた。そして生まれた子供は確か・・ルシフェルと名付けられたわ。」
ルシフェル・・哀れな子供。病弱な体は成長の過程で心臓の鼓動を止めてしまった。その無邪気な精神は人を渡り歩き、朱羽煌雀の何かに触れて悪しきものに変化した。
朱羽煌雀はニヤリと笑った。
「どう、思い出した?自分に住む悪の心を。」
ルリは朱羽煌雀の表情の変化を見て問いかけた。
「悪い人ね。」
「ほんと、悪人め。」
日夜子と蒼鱗龍娯が朱羽煌雀を笑いながら責め立てる。
「ああ、反省してるよ。」
朱羽煌雀もニヤニヤ笑いながら答えた。
「あ、あなたたち、私の言うことを信じないの?」
「信じるわ。でも、それは私の知ってる煌雀様じゃない。あなたと同類の別の何かよ。」
日夜子が朱羽煌雀の肩に手を置いて答える。日夜子にとって朱羽煌雀はこの世の全て。もはや動揺は消え、全幅の信頼が蘇る。
「あなたの話では俺は相当な悪の親玉らしい。だったらこのシールドを解いたらどうだい?」
朱羽煌雀はルリに鎌をかける。ルリは首を横に振る。
「その子の言う通りよ。あなたは北山夫人と接してから変わってしまったわ。あの本当の天使のような女の心に触れて、折角米倉が魔方陣で呼び込んだ紗端の呪縛が解けてしまったのよ。朱羽煌雀が目覚めてはこの先厄介になるだけだったから、私たちは即座にあなたの処刑を決めたわ。朱羽煌雀の記憶を引き出せなかったのは残念だったけど。ところがあなたの力は予想を遥かに上回るものだった。研究施設と引き換えにあなたの記憶を破壊するのが精一杯だったわ。」
「煌雀様・・」
日夜子が小声で囁く。
「白牙虎鉧とあの双子を結ぶ黒い紐は見えますか?」
「ああ、おそらくあれで白牙虎鉧は操られているのだろう。」
「このシールドに白牙虎鉧を取り込めばあの紐は切れるのでは・・」
朱羽煌雀はニコッと笑って日夜子の背を軽く叩いた。
朱羽煌雀はシールドの中の4つのソファーと自分を含めた4人を静かに浮かせる。さすがに重さを感じる。オーラの集中が切れたらバランスを崩して落としそうだ。タイミングを計ると一気にマユニネンめがけて移動させた。マユニネンがシールドに取り込まれるが、黒いオーラの紐は繋がったままだ。
「切れるか?」
朱羽煌雀が日夜子に目配せする。日夜子は頷いて髪の毛を紐状のオーラに巻きつかせる。キュッと絞るとオーラの紐は切れた。蒼鱗龍娯がマユニネンを押さえつけると、玄蘒武炫が上着を引き千切る。バンザイの姿勢をさせたマユニネンの左腋に日夜子が素早く手を当てた。
日夜子の賭け
「(おやおや、油断しましたわ。仲間を取り戻したようね。でもどうなるわけでもないわ。所詮あなたたちはそのシールドを破ることが出来ないのだから。)」
確かにシールドには歯が立たない。どの能力もシールドの外へはコントロールできないのだ。
「(さあロックダム大統領、お待たせしましたわ。この者たち引き渡しましょう。)」
「(まって、大統領閣下。私の話を聞いて下さい。)」
日夜子がたどたどしい英語でロックダムの気を引いた。
「(何だね、お嬢さん。私が聞くに値する話しかね。)」
「(あの忌まわしい同時多発テロを忘れてはいませんよね。)」
ロックダムの頬がピクリと引き攣る。
「(あなた方は犯人を特定して追い詰めようとしているようですけど、本当にイスラム過激派の犯行だという自信はありますか?)」
日夜子の額に緊張の汗が滲む。自分の勘が当たっているといいが。そして大統領が上手く話に乗ってくれればいいが。
「(我々は確固たる信念の下に行動を起こしている。我々の判断に間違いはない。)」
「(いいえ、大統領閣下。本当の犯人はあなたの目の前に居るその女性ですわ。)」
日夜子は真直ぐにルリを指差した。
「(ホーホッホ、何を言い出すのかしら、この娘は。追い詰められて頭がおかしくなったの?)」
ルリは全く相手にしない。
「(私はいたって正気ですわ。あの時、テレビの映像を通してもはっきりと異常なエネルギーが感じられました。そう、あの時は何かよく分からなかったけど、今なら分かります。あれはあなたに通じる邪悪で巨大なオーラ。そしてブラックホールの隙間から注ぎ込む黒い影。あなたたちは何かを使って煌雀様と同じようにブラックホールを呼び出したのよ。そしてあなたたちの崇拝する紗端への生贄として多くの人を犠牲にしたのだわ。)」
日夜子はリエが長い間抱いていたもやもやを開放する。
「(何処が正気よ。何の根拠も証拠もなく、自分の空想物語を語っているだけじゃないの。大統領、そろそろお時間では。)」
ルリはロックダムを促す。
「(母は、圭子さんは強力な磁場がブラックホールを作り出すのだろうと言っていました。通常では考えられないほどの磁場を作り出す何かがあれば・・)」
「(コンピューターよ。ツインタワーはコンピューターの巣窟、ペンタゴンも同じだわ。ハッキングして一斉にフル稼働させれば想像を絶する磁場が出来るんじゃない?)」
蒼鱗龍娯が後押しをする。
「(きっとこの城にあるタンデオンの、いいえ、ブラッククロスのコンピューターの記録を詳細に調べれば、ツインタワーやペンタゴンにハッキングした痕跡が残っているはずよ。)」
ロックダムの顔色が変わる。部屋の隅に控えるガードマンに向かって怒鳴る。
「(お前たち、至急CIAを呼べ。この娘たちの言うことは信じ難いが、聞き逃すわけにはいかない。ルビンスキー会長、宜しいな?身の潔白を証明させてくれ。)」
「(それには及びませんわ。)」
あっという間の出来事だった。ルリが静かに答えると、瞬きする間もなく黒豹がロックダムに跳びついた。ロックダムの咽が噛み切られ、血が噴出す。ガードマンたちが慌てて懐の銃に手を当てた時、既に彼らの体にはブラッククロスの銃弾が撃ち込まれていた。優雅な晩餐の雰囲気だった大広間はたちまち地獄の状況と化した。
「何てこと・・」
日夜子が両手で顔を覆う。
「あなたがいけないのよ。余計な口出しさえしなければこんな事にはならなかったのに。私たちの計画は変更しなければならないわ。まあ、結果に大きな影響はありませんけどね。どっちみち世界の指導者たちにはいずれ消えてもらうつもりですから。」
ルリは冷ややかに言った。
「朱羽煌雀・・あなたの利用価値は薄れたわ。もう一度聞くけど、私たちの仲間に戻る気はないのね。」
「俺は俺、一度たりとも仲間であった覚えはない。あんたたちから世界を守るのが役目さ。」
「そう、仕方ないわ。あなたの頭脳に収められた魔法の翼は惜しいけど、私たちは計画を遂行する新たな方法を発見したわ。最早あなたは邪魔な存在。この惨劇の罪を被って消えなさい。」
ルリは手を振り下ろした。黒尽くめの男たちの銃口が火を吹く。朱羽煌雀たちを閉じ込めたシールドが音と煙に包まれた。
煙が薄らぐのを待って、男たちは朱羽煌雀の亡骸を確認しようと近付いた。だが、そこには腕組みした朱羽煌雀たちが立っている。男は慌てて朱羽煌雀に向けて弾丸を発射した。弾は朱羽煌雀の前で小さな黒球に包まれて消え去る。男がたじろいだ。
「残念だね。このシールドの中なら能力が発揮できるようだ。」
朱羽煌雀は自分をオーラの磁場で包み、周りの時間を止めると、飛び交う銃弾を小さなブラックホールで消滅させたのだ。
「やはり一筋縄ではいかないわね。でも結果は変わらないのよ。」
ルリは手元のスイッチを押した。朱羽煌雀たちを包む電磁シールドがゆっくりとその大きさを縮め始めた。朱羽煌雀、日夜子、玄蘒武炫、蒼鱗龍娯そして白牙虎鉧の5人は互いに背中を付け、両手で電磁シールドを押し戻そうとする。バチバチと青い火花が飛び散り、5人に苦悶の表情が走る。だが、体に伝わる痺れとは裏腹に、シールドは虚しく中心に向けて萎んでいく。
「(どうしよう!だめだよこれ!)」
「(クソ!歯が立ちやしない。)」
蒼鱗龍娯と白牙虎鉧がシールドの内壁をドンドンと叩く。
「(ごめんなさい。私の賭けが裏目に出て・・)」
日夜子が泣きそうな顔をしている。
「(いや、元はと言えば俺のせいだ。すまない、みんな。俺一人がこうなれば済むことだったのに。)」
朱羽煌雀が謝る。ここに来たのは間違いだったかもしれない。謎の組織ブラッククロスの尻尾は掴んだ。だが、それは蜥蜴の尻尾のように簡単に切り離されようとしている。
「(関係ないね。あんたに付いて来たのは俺たちの意思。それにあんたに預けた命だ。)」
玄蘒武炫がニコリと笑った。他の4人も頷く。
ソファーがベキベキと音を立てて壊れ、小さな機械が姿を見せた。5人は身動きも取れない状態となり、互いに手を繋いだ。肺が押され、息が強制的に絞り出される。肋骨が軋み、目の前に暗がりが訪れた・・・。
ルシフェルの侵入
バチッという音と共に全ての電気が切れた。朱羽煌雀たちを押し潰そうとした電磁シールドも消滅する。すぐに補助電源が作動し、部屋に光が戻った時には、朱羽煌雀はうつむいてルリの前に立ちはだかっていた。
「どうやら天は俺の帰還を拒んだようだ。」
指先を揃え、ブラックホールを呼び寄せる。
「正直、気は進まないが、あなたを消さなくてはならない。会えただけでも良かったよ。さようなら我が母よ・・」
朱羽煌雀の目に涙が光る。
「待って!待ってください、煌雀様。」
日夜子が咳き込みながら朱羽煌雀の袖を引っ張った。
「その人は悪くない。その人を殺めたらあなたは唯の人殺しになってしまいます。あの幼き時の事件でも、あなたは誰も傷つけませんでした。消し去ったのは施設の設備だけ。研究所の人々は散り散りになって逃げ去さりました。」
日夜子の中に息づくかすみの記憶だ。
「こいつは別だ、危険すぎる。さっき目の前で起きたことを忘れたのか?しかも俺たち全員を葬り去ろうとした張本人だぞ。」
「いいえ、その人ではありません。その黒豹が操っているのです!私には見えるわ、細い糸のような繋がりが。」
《面白そうな話をしてるじゃない、こんなところで再会できるなんて光栄だよ。》
何処からともなく聞き覚えのある声が直接頭に響く。
「ルシフェル!!」
朱羽煌雀と日夜子の声が思わずハモる。壁に設置されたモニターにぼんやりと人の顔が浮かぶ。
「あなた、いったいどうやってここに侵入したの?ここは外部からは蟻一匹入れない鉄壁のガードを誇るのよ。コンピューターへのハッキングもあり得ない・・」
ルリが愕然としている。
《僕は今ここのネットワークの中にいる。僕がこんな姿になったのはそこにいる2人のお陰さ。感謝してるよ、全く。世界中のありとあらゆる情報を自在に覗く事が出来るんだから。ここのコンピューターを除いてはね。》
「そうよ、情報を一度完全にバラバラにしてチェックしてから通すシステムよ。あなたがどういう移動手段を取るのか知らないけど、巨大な電気信号の束がそのまま通過することは不可能だわ。」
《うん、随分迷ったよ。ここのゲートでね。でも中に魅力的な何かがあることは確かだったから、思い切って突っ込んだんだ。その前後はよく覚えていない。僕はミンチのようにバラバラにされ、再び意識を持った時には無事ここに居たってわけさ。》
「そうか、さっきの停電はお前の引き起こしたものか。この城の全てを担うシステムが巨大なウィルスの侵入に耐えかねてダウンしたんだな。お陰で助かったぜ、礼を言う。」
朱羽煌雀が軽く頭を下げる。
「だけど、あなたあれほど強かった邪気が消えているわ。どういうことかしら・・」
日夜子が不思議そうに訊ねる。
《自分でも不思議さ。本来別のものだったのがバラバラにされた時、再結合を拒んだんじゃないかな。ウン、でもあの邪気の独特の臭いはよーく覚えているよ。あなたが言う通り、その黒豹からプンプン臭う。》
14才の少年に戻ったルシフェルがそこに居た。黒豹がモニターに跳びつき、鋭い爪で画面を壊す。
《ハハハ、そんなもの壊したって無駄だよ、メフィストさん。僕は手の届かないところに居るんだから。あんたがこの城の、ブラッククロスの実質的な支配者なんだろ?ここのシステムのあちこちにその名前があるよ。》
《おのれ小僧、余計な真似しおって。小娘も黙っておればよいものを。》
黒豹から強烈なテレパシーが発せられた。
《早く朱羽煌雀さん!そいつをやっつけて!》
消えた日夜子
朱羽煌雀が黒豹の真上にブラックホールを作るより速く、黒豹に操られたルリが胸元から手榴弾のようなものを取り出し、スイッチをいれると日夜子に投げつけた。手榴弾は日夜子の頭上で光を発し、電磁シールドの檻を作る。日夜子は再びシールドに閉じ込められてしまった。ブラックホールに吸い込まれかけた黒豹が日夜子を包んだ電磁シールドを手繰り寄せ、その中に飛び込んだ。
「あっ!」
一瞬の出来事に朱羽煌雀は成す術がなかった。黒豹と日夜子が闇の向うに消える。いや、朱羽煌雀は黒豹が黒猫に姿を変えていたのをチラリと見た。見覚えのある黒猫、そうだ、あの山奥の研究所で見た黒猫だ。5才の自分の中にいた何かは北山の妻カレンの聖なる心に触れ、自分を飛び出してあの黒猫に棲みついたのだ。その邪気に黒猫は黒豹に姿を変え・・
城の大広間を突風が吹き荒れる。黒い霧の突風は吹き抜けの天井を高々と舞い上がると大きな顔の形になった。頭からツノを生やし、口は大きく裂けている。
《フハハハ、小娘は憐れ迷宮の世界へ旅立った。お前のその手によってな。朱羽煌雀よどうする?かつてのように、この紗端様を自分の体に取り込んで自ら時空の向うに飛び込むか?小娘の魂は永遠に時空を彷徨うぞ。そして俺様は一部を欠くだけだ。巨大な実体の一部をな。ルシフェルとやら、お前は結果的に良いことをした。俺様の分身がこの建物にいるのを感じるぞ。いよいよ復活の時だ、もう誰も俺様を止められない。》
紗端は部屋を1周飛び回ると、再び止まった。
《朱羽煌雀よ、小娘を包んだシールドは3ヶ月で消滅する。お前も知る通り、時空の向こうでは物質はそのままの形では存在できない。小娘をくるむ磁気のカーテンが消えた瞬間、小娘の体は霧のように跡形もなくなるだろうよ。せいぜい冥福を祈ることだな。》
紗端は突風のように部屋の外へ飛び出し、後には異常事態を告げる警報が鳴り響く。サーシャとマーシャもいつの間にか部屋から消えていた。
「(朱羽、早くここを脱出しないと。無駄な犠牲を増やすことになるわ。)」
蒼鱗龍娯が促す。
「(日夜子は無事さ。救い出す手をじっくり考えればいいさ。)」
玄蘒武炫がなだめる。
「(僕はなんか責任を感じるよ。あの娘のお陰でこうなれたのに・・絶対に救い出す。)」
白牙虎鉧が自分に誓う。
「母さん、しっかりしてくれ!」
朱羽煌雀はルリを抱え上げる。
「私はもうダメです。紗端の長い支配が体細胞の老化を異常に速めてしまったようです。」
ルリは朱羽煌雀の手を握る。その手は見る見る皺だらけになり、萎んでいく。頭は真っ白になり、顔も老婆のようだ。
「最後に自分に戻れて良かった。煌雀、私の子・・」
ルリの頬にひと筋の涙が伝う。それが最後だった。
朱羽煌雀は亡骸を強く抱き締めると、そっと床に横たえた。
「ルシフェル!お前自分でここを出られるか?」
こぼれそうになる涙を抑え、朱羽煌雀は天井を向いて大声で呼びかける。
《ダメみたい・・紗端の一部が待ち構えている気配がするよ。》
朱羽煌雀の問いかけにルシフェルが悲しげに答えた。
「(僕が体を貸そう。)」
白牙虎鉧はルリの操作していた制御端末を叩き割ると、マザーボードのコードを引き抜いて頭に当てた。
「(さあ、来い!)」
青い火花が飛び散り、白牙虎鉧がよろける。
「(よし、これでOKさ。行こう!)」
脱出
「(どうする?車はおそらく見張られてるぞ。)」
廊下を注意深く進みながら玄蘒武炫が小声で言った。
「(ここに入る時、城の上にチラリと軍用ヘリが見えたわ。あれを戴きましょう。)」
「(戴きましょうって、そんなもの動かせるのかよ?)」
白牙虎鉧の怪訝そうな顔に、蒼鱗龍娯はちょっとムッとした。
「(あたしを誰だと思ってるのさ。現役のフランス空軍少尉だよ。)」
「(よし、上へ出る手段を探そう。)」
朱羽煌雀は3人に散らばるよう合図する。
白牙虎鉧は廊下の端で頭をそっと出して折れ曲がった向こう側の様子を探った。中央にエレベーターが見える。ちょうどドアが開き、マシンガンを手にした3人の軍服を着た男たちが現われた。
「(こっちだ。)」
白牙虎鉧は朱羽煌雀たちをに手招きしながら、例の特殊能力で壁の電燈から電気を引き出すと男たちの背中に稲妻を浴びせた。突然の電撃をくらった男たちは銃を放り出して気を失う。背中から白い煙が立ち昇っていた。
「(殺したの?)」
エレベーターに乗り込みながら蒼鱗龍娯が聞いた。
「(僕はそんな冷酷な男じゃない。氷の国に生まれはしたがね。)」
白牙虎鉧が2丁のマシンガンを拾い上げて答えた。
「(行こう、屋上へ直行だ。)」
朱羽煌雀がエレベーターのボタンを押した。廊下の向こう側から銃声が響いた。別方向から駆けつけた城の警備兵だろう。発見されたからにはグズグズ出来ない。
屋上には蒼鱗龍娯の見た軍用ヘリが1機、ローターを垂らしていた。見張りの兵士たちがエレベーターに向けて一斉に銃を構える。その数5名。白牙虎鉧がマシンガンの引き金に指を当てる。
「(まって、相手が多すぎる。それにヘリに当たるわ。)」
朱羽煌雀たちは手を上げて降参のポーズを取った。白牙虎鉧もマシンガンを放り投げる。蒼鱗龍娯は屋上の片隅に見つけた給水タンクに意識を集中させた。給水タンクの蓋が弾け、水が吹き上がる。兵士たちが給水タンクを向いた時には竜巻が襲い掛かっていた。一瞬にして5人が空中に巻き上げられ、屋上に叩きつけられた。
「(ヒュー、恐いお人だね。)」
玄蘒武炫が片手で大袈裟なポーズをした。
小型の軍用ジェットヘリは2人乗りだった。
「(どうする?全員は無理ね。)」
「(白牙、蒼鱗の隣に乗ってくれ。俺たちは自分たちの車で脱出する。蒼鱗、モナコのホテルに広沢宗陰という老人がいる。先に着いたら連絡を取って何処か安全な場所に避難させてくれ。今夜中にだ。)」
「(あなたとは何処で落ち合うの?)」
「(アルプスを越える。キミの母国フランスに入ろう。)」
「(分かったわ。アルプスを下ったところに3つの風車を持つ村落があるの。ル・プリーヌという酒場で待ってて、必ず行くから。空軍の荒くれ将校が多いけど我慢してね。)」
蒼鱗龍娯はヘリのエンジンをスタートさせた。プロペラが回りだし、まともに立っていられないほどの風圧を受ける。
「(じゃあ頼んだぞ、蒼鱗。)」
「(朱羽・・気を付けて。)」
「(そっちもな。)」
蒼鱗龍娯はジェットヘリを離陸させた。ヘリは前部を下げ気味にして軽く旋回すると、真っ暗な夜空へ遠ざかって行った。音を聞きつけた兵士たちが次々と屋上へ押し寄せる。
「(手を高く上げろ!動けば撃つ!)」
朱羽煌雀と玄蘒武炫を屋上の際に追い詰め、指揮官らしき銀色の長髪を靡かせた長身の男が言った。
「(もう逃げ場はないぞ!おとなしく諦めれば命は助けてやろう。)」
朱羽煌雀は屋上から真下をそっと覗く。合図を受けた兵士やガードマンが全員屋上に向かって動き出した。朱羽煌雀は玄蘒武炫に目配せすると、そっくり返るように身を投げ出した。
「(クソッ、自害したか!)」
銀色の髪の男が屋上の縁に駆け寄った。下を見ると落ちたはずの2人が眩しい光に包まれて浮いていた。見る間に2人は誰も居なくなったスクァーラルとモデナに素早く乗り込み、エンジンをかけた。
「(しまった!城を閉鎖しろ!鼠一匹表へ出すな!)」
急な下りの山道をスクァーラルとモデナは凄まじい勢いで飛ばした。世界最速のドライバーたち。誰一人追いつく者はいないだろう。そう思った時、前方からヘッドライトが迫って来た。無線で連絡を受けた門の警備兵だろう。バックミラーにははるか上の方で無数のヘッドライトがせわしなく動き出すのも見えた。このままでは挟み撃ちだ。
「(朱羽、ちょっと車を停めてくれ。)」
玄蘒武炫が無線で交信してきた。スクァーラルとモデナが並んで道の中央に停車した。玄蘒武炫は精神を集中すると地中深く眠るマグマを探る。岩盤の亀裂を通して、マグマのエネルギーを地表に呼び起こす。2人の周りを除いて、地面が激しく揺れだした。前方のヘッドライトが転覆し、城を囲む城壁ががガラガラ崩れる。
「(よし、グリーンフラッグ、レース再開だ。)」
2台は再び全速で走り出した。道には木が倒れ、所々亀裂が入り、新たな障害物が増えた。が、そんなことに苦情をいうわけにもいかない。
城壁は崩れたが、瓦礫の山と深い塹壕が行く手を遮っていた。朱羽煌雀は大き目のブラックホールを呼び出すと、瓦礫を地面の一部ごと消し去った。後には浅いクレーターのような凹みが出来た。
「(玄蘒、ジャンピングスポットだ。)」
朱羽煌雀は先頭でスクァーラルをクレーターに突っ込む。軽いジャンプでクレーターの底に着地すると、上り斜面を全速で駆け上がる。ジャンプ台から飛び出すように、スクァーラルは塹壕の上を飛び越えた。フロントエンジンの車だったら前のめりに地面に突っ込んでしまっただろう。だが車体の真中に重量物を積むスクァーラルはバランスを取りながら見事に着地を決めた。モデナも見事に後に続く。2台は甲高いエグゾーストノートを響かせて、ブラッククロスの城を立ち去った。