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 遊トピアランドが共同経営に参加したことでノスタルジックサーキットの知名度は大幅にアップした。3軒空いていたガレージには新しくレストアショップが入り、やはり共同経営に参加した。それらはヒストリックカークラブのメンバーである柿岡と桜井(彼らで国産から輸入車まで幅広く手掛ける)、360ccの初期の軽自動車専門の「36仲間」、クラシックロータスを手掛ける「蓮花」だ。新メンバーたちはサーキットを走った上で、集会を要求した。

 遊トピアランドから一条自らが東京から駆けつけた。例によってランボルギーニ・ガヤルド、助手席には川井文佳が乗っている。彼女は一条に秘書として見初められ、念願叶って東京に出ることができたのだ。まさに現代版シンデレラである。

 「まずは私からひと言」

 一条が切り出す。村には常駐の担当者がいるが、一条はサーキットにことのほか熱心で、何かあれば時間を割いて顔を出す。担当者はいつもたじたじだ。

 「どう?東京は」

 壁際に控える文佳に、小声でカヨが話し掛ける。

 「カヨさん!もう毎日覚えることばかりで大変ですよ。会社のことだけじゃなくて、言葉使いとか日頃の振る舞いとか。東京を楽しむどころじゃないです」

 カヨはフッと笑った。そう、それが東京。でもこの子はまだ東京の怖さを知らない。

 「ま、頑張りなよ」

 

 「私はサーキットの安全対策を進めた方がいいと思います。特に最終の複合コーナー、あそこは逆バンクでアウト側に膨らみやすいが、コースを逸れれば崖を転落だ。せめてガードレールの設置は必要でしょう。出来れば4コーナーのヘアピンもね」

 「いや、一条さん、ここはそういうスリルがコースの魅力でもある。転落といっても数メートルの話で、まあ車は潰れても死ぬようなことはない。逆にスリルが無茶な運転を抑制するから、過去に事故など起きていない。ガードレールを付けたら余計無茶するドライバーが出るのではないか」

 サンドロが反論した。

 「これまでは限られた利用者がリピーターとして使っていたから、そんな屁理屈まがいが通用したかもしれませんが、これからはもっと幅広い客がやってくるでしょう。安全対策は絶対に必要です」

 一条は譲らない。一見口論のように見えるが、コータは二人の仲の良さを知っている。この活気がいいなと思う。

 「資金はどうするね?最近収益が上がってきたとはいっても、これまでの赤字を埋めるにはまだまだほど遠い。余裕なんてないよ」

 「何のためのサポートだと思ってるんですか。そのくらい我が社が出す」

 一条は微笑んだ。

 「分かった、分かった。だがガードレールは景観を損ねるようで賛成しかねるな。資金を出してくれるのはありがたいが、丸太切り出して手作りでもいいかい?」

 という訳で、一条とサンドロは合意した。

 「えー、他のみなさんも何かあるんだよな?」

 ジョージが話を振ると、蓮花の林崎が手を挙げた。

 「最終コーナーの安全対策はやはり必要だと思います。あと、うちのお客さんからコースに平坦部分があればさらに攻略性が上がるのではないかという声が出ています。難しいのは承知の上で、何かの参考になればと思いまして」

 確かに平坦部分はホームストレート後半から1コーナーにかけてくらいだ。

 「うーむ、レイアウトの変更となると大変な話だな」

 サンドロが考えこむ。

 「確かに上り下りは馬力や車重といった車の特性が効いてくるが、平坦路ならドライバーの技量が試されてくる。ふと思ったのですが、我が社にはレジャー施設でジェットコースターなどの建設実績とノウハウがある。それを活かして鉄橋の高架コースを追加することが出来るかもしれません」

 一条が提案する。

 「いや、それはガードレールなんかと比べて膨大な費用が掛かるだろう。いくらなんでも…」

 サンドロがたじろぐと、一条が力強く補足する。

 「経営では守りと攻めが必要です。このサーキットをただ維持していくのは守り、積極的に集客を図り、収益を上げていくのが攻めです。桃田さんたちは長年守りだけでやってきて、存続の危機にまで追い込まれた。そこに伊村さんが攻めの要素を持ち込み、今はどうです?これだけ持ち直したじゃないですか。私としてはさらにインパクトある特色を追加すれば、大人のアトラクションとして魅力を上げられると思いますよ」

 「それは凄い!何だかわくわくしてきますな」

 林崎が目を輝かせた。その後、追加のレイアウトについて案を出し合い、一条が持ち帰って担当部署と協議することになった。

 

 

2

 改修工事はサーキットを営業しながら行われた。最終コーナーの落下防止柵は先にショップの面々の協力のもと、手作りで設置された。そんなある日、サーキットに二人組が現れた。R32型スカイラインGT-Rと三菱ランサーエボリューション。30分ほどフリー走行すると、サンドロのところにやってきた。

 「ねえ、ここのコースレコードってあるよね?俺たちがチャレンジして更新したら公式サイトにでも載せてくれるかい?」

 ランエボの若者が挑戦的な態度で挑んでくる。

 「まあいいが、そう簡単に破れるもんじゃないぞ」

 「ふん、やってみなきゃ分かんねえだろ」

 と二人はタイム計測を求めた。

 「3周のチャレンジでいいか?1周目は馴らしラップだから、実質2周だが」

 「1周あれば十分だ。ちなみにレコード持ってる車はなんだい?」

 「あれだ」

 とサンドロはアバルト850レーサーを指さした。

 「古くて小せえな。何馬力だい?」

 「850ccで64馬力だ」

 「けっ、ふざけてんのか?」

 

 スカイラインGT-Rが先に計測に入り3周した。十分な手応えがあったようだ。だがサンドロはバツの合図を出す。

 「は?あれで駄目だって?」

 「ああ、コンマ3秒ほど足りん」

 サンドロがニヤニヤ笑う。ランエボの若者は蒼ざめた。彼らは昔の道場破りよろしく地方のサーキットを回ってはコースレコードを破って自慢している。地方の小さなサーキットなら本格的な公式レースが行われることもなく、プロレーサーが走ることもまずない。彼らに取っては絶好の仕事場なのだ。今日もSNSで軽口叩いてやってきた。このまま手ぶらで帰ったら、いい笑い者だ。

 「どこかミスったか?」

 GT-Rに確認したが、首を横に振る。

 「強いて言えば、最終コーナーが逆バンクのせいで踏めない」

 

 ランエボは苛立ちながらコースインした。彼らの車はどちらもターボで280馬力を誇る四輪駆動車だ。路面に効率良くパワーを伝えるが、アンダーステアが出やすくて曲がり難い。ストップ・アンド・ゴーで加速を活かす走りが身上だ。

 2周目を全力で走ってサンドロを見やるがバツを出している。

 「くそ、どうなってやがる。最終コーナーか!」

 ランエボはラストラップの最終コーナーで、破れ被れでアクセルを開ける。車はどんどんアウトに膨らんでいく。普通ならアクセルを緩めて諦めるが、後のないランエボはそのままコースアウトへ突き進んだ。新設の防護柵がランエボの左フロントを容赦なく潰す。だがその反動でランエボは向きを変えた。四輪駆動はタイヤをひとつ失ってても加速は可能だ。ふらつきながらランエボはゴールラインを通過した。

 「クソ!こんな馬鹿な走りがあるか!」

 ランエボは車を代償にコースレコードを破ったのだ。

 
 
3
 「まったく、あんなことになるなんて、安全対策が裏目に出ちまったな」
 もともと柵の設置に消極的だったサンドロは複雑な思いだ。約束通りサーキットのコースレコード保持者としてランエボの若者を載せた。
 今日は事故の反省と対策の小ミーティングを開いている。話し合いの結果、最終コーナーには防護柵の他にグラベルのエスケープゾーンを設けようとなった。それならばタイムアップに利用されることもない。

 

 エスケープゾーンの設置はほどなく終わり、追加コースの工事も順調に仕上げに入っていた。

 「いよいよ楽しみですね」

 コータが手を休めて言った。最近は「かる路」の作業よりもサーキットのスタッフ的な仕事が多く、物作りの充実感から少し遠ざかっている。今日はしばらくぶりにサンドロの手伝いをしている。

 「ああ、だがコースが変わったら、今のコースレコードは永久に残ることになるな」

 サンドロは車を壊してまで刻んだタイムをどうしても素直に認められない。かと言ってそう簡単に破れるものではないことは分かっている。

 「俺が書き換えましょうか?」

 ショップを覗いた純が話に加わる。

 「今度の安全対策で、俺としてはちょっと攻めやすくなったんですよ。技術的というより心理的にね」

 グラベルエスケープゾーンのことだ。図示すれば次のようになる。

 

最初の安全対策

 
新しい安全対策
 
 純はスリック仕様のランダーr6に乗り込むと、みんなの見守る中タイムアタックに臨んだ。2周目、限界ギリギリに攻めてタイムを削ると最終コーナーへいつもよりステアリングを切り込む。コータに教えた魔法の20センチライン。エスケープゾーンができたおかげで失敗しても転落することはなくなったから、安心して挑んでいける。純は難易度の高いコーナーリングを決めると、あっさりとコースレコードを更新して見せた。
 「何だかえげつないが、スッキリしたな」
 サンドロが微笑んで、純に拍手を送った。
 
 
4
 蓮花の林崎が自分の客を連れて挨拶回りにきた。
 「アンドリュー並木です。どうぞよろしく」
 長髪に端正な顔つき、どこにいても目立つようなオーラを感じる。
 「アメリカで映画に出ていました」
 うわ!ハリウッドスターかとコータはちょっとたじろいだ。日系二世のアンドリューはSFアクション映画で準主役に抜擢され、その後も脇役として何本もの映画に出演した。アメリカでは空手や忍者やサムライ役で日本人が出ると喜ばれる。だがマンネリ化した役柄と、主役は取れそうにない自分の才能に見切を付け、アンドリューは母の故郷である日本に新しい自分を求めてやって来たのだ。
 「アレッサンドロ桃田だ」
 サンドロが握手を求めた。
 「オゥ、アレックスね」
 「いや、サンドロと呼ばれてますよ」
 コータが口をはさむ。
 「サンドロ?ファニーな呼び方ね」
 アンドリューは笑った。
 「ま、好きに呼んでくれ。しかしサンドロって呼び始めたのは誰だ?」
 サンドロがみんなを見回す。
 「どうせカヨあたりでしょ」
 「何言ってんだい、アタシはジジイとしか呼ばないよ」
 あ、自分かとコータは軽く頭を掻いた。
 
 アンドリューはアメリカで購入したというレーシングスポーツカーを蓮花に持ち込んできた。それを見てコータは声を上げた。
 「ロータス11!」
 「へえ、良く知ってるね」
 ロータス11は、かつてコータが身震いするほどの衝撃を受けた車だ。地を這うような低さと運転席がほぼ後輪にあるような超ロングノーズ、何よりこれ以上ないほどのコンパクトさ。
 鬼才コーリン・チャップマンの最初の成功作であるロータス11は、ロータスにルマン初タイトルをもたらした。チャップマンのルマン24時間レースへの挑戦は、1955年にロータスMk9で始まった。しかしリバースギアを使ったことで失格。1956年は改良型のロータス11(このクルマから「Mk」がなくなる)で参戦する。ロータス11の最大の特徴は軽量化だ。
一部アルミパネルが補強部材の効果を兼ねたスペースフレームには細いパイプを使用し、総重量450kgという軽さを実現した。フロントに搭載されるのは当時のこのクラスの主力エンジンであるコベントリー・クライマックスの直列4気筒で、 1098ccのFWAが75ps/6250rpm、1460ccのFWBが100ps/6200rpmを発生した。
1956年のルマンでは1098ccエンジンの1台が1100ccクラス優勝の総合7位、1957年のルマンでは1100ccクラス連覇の総合9位。また744ccエンジンを積んだマシンが総合14位で性能指数1位を獲った。 
 ロータス11は4輪にガーリング社製インボード・ディスクブレーキ、さらにリアにはド・ディオンというアクスルが採用された。フロントのサスペンションは一般的に使われていたスイングアクスルだったが、回転剛性を抑え、アンダーステアになるのを防ぐため、重心が低く抑えられていた。

 ロータス11のハンドクラフトボディはフロント部分とリア部分がヒンジ留めされている。流線型のボンネット、空気抵抗を最小化したノーズ部分のデザインによりオーバーヒートを防ぎ、より効果的な冷却システムを実現した。スペアタイヤとバッテリーは重量バランスを取る目的でリアに搭載された。ステアリングシステムはラックアンドピニオン方式を採用、ロックトゥロックを1.75回転とした。最高速度はこの年代のこのクラスとしては驚異的な230km/hに達した。それ故にある車の登場まではレース界を席巻したのである。


 「こいつは15万ドルの手頃な価格で手に入れたんだ。しばらくの間この村でお世話になるからよろしくね」

 15万ドルが手頃と聞いて、ハリウッドスターはさすがに金銭感覚が違うとコータは笑った。

 

 

 5

 新コースが完成し、関係者で祝賀会を開いた。遊トピアランドの一条、工事関係者たち、サーキットショップガレージの面々だ。場所はもちろんスミヨの居酒屋、社長秘書として文佳も同席した。

 「元気にしてる?」

 カヨが声を掛ける。

 「なによ、全然飲んでないじゃない」

 文佳はウーロン茶で我慢している。

 「仕事中なのでアルコールを飲む訳にはいかないのです」

 話し方もどこかよそよそしい。

 「うーん、アンタ結構やられてるね。ちょっと一緒にきな」

 カヨは文佳をトイレに連れ出した。

 「さて、ここなら大丈夫だから、バカヤロウって言ってみな」

 「え?」

 文佳が戸惑う。 

 「いいからほら」

 「ば、バカヤロウ…」

 文佳は小声で呟く。

 「もっと大きな声で!」

 「バカヤロウ!」

 文佳はそう叫ぶと両目から涙をぽろぽろ流した。

 「あれ?なんで」

 「自分を抑えて、いい子ぶってるからだよ。アンタこのままじゃ潰れるよ」

 カヨは強く言った。

 「東京は華やかに見えるけど、自由を謳歌出来るのはほんの一握りの勝ち組って奴らだけさ。あとは朝から晩まで奴隷のように働く。みんなストレスの塊だから、自分より弱そうな奴にぶつける。自分を押し殺して心に蓋して、気が付きゃ惰性で生きてるのさ」

 「そんな…」

 「アタシはジジイのおかげで奴隷から自由になれた。コータもそう。だから今度はアタシが文佳を救ってあげなきゃと思ってさ」

 「私は自分が凄い幸運を手にしたことを分かってます。それに対して不満を抱いたり逃げ出したりなど罰が当たりますよ」

 文佳はそう言って涙を拭う。

 「カヨさんは先に戻ってください。私はお化粧直してから戻ります」

 

 祝賀会ではサーキットの運営について議論が始まっていた。

 「クラシックカーと今のスーパースポーツカーが混走したりするのはやはり危ないでしょう。日を分けるとか、時間帯を分けるとか、あるいは思いきってノスタルジックに値する車だけに来場者を限定するか、そういったことは必要でしょう」

 アンドリューが一条を横目で見ながら力説する。意味有り気に薄ら笑いを浮かべていた。

 「客を限定するというのはどうですかな。君は経営に関わっていないからそんなことが言える」

 一条が反論する。

 「私はあらゆる車が混走して構わないと思います。あくまでも自己責任で、安全第一で楽しんでもらえばいいのではないかな。誰もが限界に挑む訳ではないでしょう。特に古い車は労りながら走りを味わいたいはずだ。速く走りたい者には道を譲ればいいし、競争したいのならコース主催でレースイベントを設ければいい」

 拍手が起こる。

 「イベント開催はいいな。俺たちも盛り上がる」

 サンドロが強調した。面目を潰されたようでアンドリューは苦虫をかみつぶしたような顔をしている。

 「レースイベントをやるとしたら、何らかの形でライセンス制にした方がいいでしょうね。公認レースなら国内のA級ライセンスになるでしょうが、そこまでは必要ないでしょう。ノスタルジック専用のライセンスを作ったらどうでしょう」

 蓮花の林崎が提案する。

 「それと、クラス分けとかした方がいいのでは?」

 再びアンドリューが口を挟んだが、とりあえずオープンクラス(どの車両でも参加可能)でいこうと却下された。

 「彼は自分のロータスでも勝つチャンスがあるようにクラス分けを提案したんだろうな」

 純が小声でコータに話しかけた。

 「君たちは勘違いしている」

 いつの間にか背後にいたアンドリューが笑いながら言った。

 「僕は君たちにも勝つチャンスがあるようにクラス分けを勧めたのさ」

 

 かる路とクーパー倶楽部の週末対抗戦もしばらくやっていない。まずはショップ対抗戦でも開こうと話がまとまった。

 

 

6

 週末の夕刻、新コースで久しぶりの対抗戦にみんなが盛り上がる。各ショップから最大2台の参加とした。

 

新コース

 

旧コース

 

 ヒストリックカークラブからは例によって日下部のナローポルシェ911と尾形のフェアレディ240ZGが、クーパー倶楽部は純のランダーr6、そしてかる路からはコータのアバルト850レーサーが参加した。36仲間は見学に回った。

 蓮花からはアンドリューがロータス11で、そして林崎もロータスヨーロッパで参加となった。ロータス11はノーマルタイヤ、1970年にF1で使われ出したスリックタイヤはグリップが強すぎてシャシーに限界以上の捻りストレスを与えかねない。それはサンドロもジョージも分かっているから、ランダーとアバルトもノーマルタイヤに戻した。林崎のヨーロッパは初期のs2をベースに1.6リッターのロータスツインカムを積んでいる。126馬力で車重710kgというかなりの仕様だ。余談になるが、日本でヨーロッパと呼ばれるこの車、評論家たちも地名を冠した車などと解説しているが、とんだ間違いである。ロータスは市販車にエリーゼやエリート、エランといったエ(E)で始まる人名や人にまつわる名前を使い出した。ヨーロッパの後に出したエスプリもそうである。では何故ヨーロッパだけ違うのか?実はそうではなく、ヨーロッパはエウロペという女神の名前なのだ。ちゃんと見れば綴りが違う。英語ではEuropaとEurope。LotusEuropaはロータス・エウロペが正しいのだ。最初に紹介した誰かが勘違いし、それが今だに正しいとされている。恥をかいてもいけないので、ここでは正式名称のロータス・エウロペとしよう。


 スターティンググリッドは今回はクジ引きとし、フェアレディZの尾形が1番グリッドとなった。続いてポルシェの日下部、ロータスエウロペの林崎、ランダーの純、アバルトのコータ、最後尾はロータス11のアンドリューの順である。各車グリッドに並ぶとグリーンフラッグを合図にスタートを切った。

 日下部のポルシェが加速良く尾形の前に出て第1コーナーを制する。林崎、純と続き、アンドリューがコータをかわして前に出た。複合の右2コーナーから緩い左3コーナーで下り坂に入り、直線から右ヘアピン4コーナー、急坂を上って左ヘアピン5コーナー、ここまでは以前のままだ。
 そこから新設の高架コースに入る。5コーナーから平坦な直線で展望のいい右ヘアピンの第6コーナー。僅かにバンクが付けられ、落下防止柵に守られた安心感で曲がりやすい。そして折り返す形で直線から左第7ヘアピンを回ると旧第6の下り高速右コーナーに繋がる。ここからはコーナー番号は変わるがコースは以前のままだ。ただし最終9、10複合コーナーにはエスケープゾーンと落下防止柵が追加された。第8高速コーナーまでは順位は変わらず、林崎がフェアレディZの真後ろに入ったぐらいだ。最終コーナー、ポルシェとフェアレディZは減速してインベタで回ろうとするが、やや重い車重の慣性で逆バンクをアウトに流される。空いたインにロータスエウロペが飛び込んで2台を一気に抜き去って先頭に立った。純のランダーr6はホームストレートでフェアレディZに並び、第1コーナーの飛び込みで抜いた。コータのお家芸をマスターしている。驚いたのはロータス11の走りだ。最終コーナーをアウトから入り、クリッピングポイントへ切り込む。さらにそのまま一度惰性でアウトに膨らませた後、第10コーナーのクリッピングポイントをクリアした。インベタで回るよりもコーナーの回転半径が大きい分スピードが違う。アンドリューはあっという間にフェアレディZを捉えると、純に続いて2コーナーでインを刺して抜いた。コータは呆然とするばかりだ。ロータス11は魔法のように自在なラインでコーナーを回り、矢のように加速していく。離される訳にはいかない。コータは下り直線でフェアレディZのスリップストリームに入ると第4ヘアピンで勝負に出て抜いた。純とアンドリューは既にポルシェもパスしている。順位は先頭がロータスエウロペ、やや離れてランダーとロータス11、そしてポルシェとアバルト、フェアレディZは最後尾に落ちた。
 2周目の最終コーナー、ロータスエウロペとランダーはインベタで同速度で回っていく。アンドリューは第9コーナーの立ち入りでランダーをアウトから被せると、第10コーナーで純を抜き去った。純は初めて味わう屈辱だ。コータは最終コーナーでポルシェのインに入り、抜いた。例の秘密の20センチを駆使している。
 2台のロータスのペースは速く、純をジリジリと置き去りにする。3周目の最終コーナーでアンドリューが林崎も抜いて、トップでチェッカーを受けた。2位はロータスエウロペ、3位に純が入り、あとはコータ、ポルシェの日下部、フェアレディZの尾形の順となった。
 
 
7
 「言ったろ?僕が走ったら誰も勝てない」
 悔しいが、純もコータもうつむくしかなかった。
 「君らも分かっているはずだ。結局このサーキットは最終コーナーが全てで、そこをいかに速く回るかだ。そのためにはタイヤのグリップを上げるか、飾りでないウイングを付けてダウンフォースを高めるといった対策があるが、何よりも車重の軽さには敵わない。遠心力でもっていかれないから、逆バンクを普通に回れるのさ」
 アンドリューは満足顔だ。
 
 車重を整理してみると、
 ロータス11 450kg・75馬力
 ランダーr6 490kg・75馬力
 アバルト850 570kg・64馬力
 エウロペ 710kg・126馬力
とロータス11が断然軽い。ちなみに
 フェアレディZ 1010kg・150馬力 
 ポルシェ901 1095kg・190馬力
である。
 
 車の性能指標としてよく用いられるパワーウェイトレシオ(小さいほど良い)では、
 ロータスエウロペ 5.6
 ポルシェ901 5.8
 ロータス11 6.0
 ランダーr6 6.5
 フェアレディ240ZG 6.7
 アバルト850レーサー 8.9
となる。こうしてみるとコータは非力な車でよく頑張っている。
 

  それからしばらくの間、週末のショップ対抗戦は蓮花の独壇場だった。アンドリューのロータス11は常に圧倒的に速く、連勝を続けた。2位も林崎のロータスエウロペの指定席で、蓮花がワンツーを譲らない。さすがに他のショップメンバーは戦意喪失といったところだ。厳密に言えばアンドリューは蓮花の単なる顧客であるから、ショップ対抗戦から締め出すこともできる。しかしそれを言ったら、日下部や尾形もヒストリックカークラブの整備ショップの直接の関係者ではない。まあもともと親睦を深める目的の遊びレースだから目くじらを立てるものでもないのだ。しかし、

 「ああ、どうもむしゃくしゃする」

 と愚痴るサンドロが、みんなの気持ちを代弁していた。

 

 それでいてアンドリューは開かれ出したサーキットの会員向けオープンレースには参加しなかった。誰にでも勝つチャンスがありそうなこのイベントは、常連客を確実に増やしていた。

 

 「そうか、話をまとめてもらえたか」

 一条はアメリカ支店のバイヤーを労った。用件は会社の業務計画に関わることではなく、完全に私用だ。バイヤーの業務実績に加わる訳にはいかないから、個人的に何らかの形で対価を払うつもりだ。

 「できるだけ早く日本に輸送出来るように手はずを整えてくれたまえ」

 職権乱用と言われようがいい。こんなに熱い気持ちになったのは生まれてこの方初めてだ。

 

 

8

 ノスタルジック・サーキットにノスタルジックな車が乗り付けた。スバルR2、360ccリアエンジンの初代タイプだ。助手席から一条が降りてきた。運転しているのは文佳だ。

 「きゃあ、可愛い!文佳、アンタの車?」

 カヨがはしゃいで話しかけた。

 「いえ、社用車です。社長から、この車でもっと運転に慣れるように言われてます」

 こんな社用車があるかと思いながら、カヨは文佳が少し元気を取り戻したようで安心した。

 一条は36仲間の店長、津野田にスバルR2を預けた。

 「帰るまでに簡単に整備お願いします。それから…」

 「はい、分かってます。空いてるスペースは自由に使ってください」

 と津野田は笑顔で答えた。

 「今日はランボルギーニじゃないのかい」

 サンドロが一条に話かける。

 「あれは私個人の車で、社用に乗り回すには問題があるようで、新たに社用車を用意したんですよ」

 とスバルR2を指した。

 「社用車ねえ、ベンツやレクサスなら分かるけどねえ」

 「人員削減で秘書に運転を任せようと思いましてね。彼女の意見を聞いて選びました。これからは古いものを大切にするエコの時代ですよ」

 明らかに詭弁だが、ものは言いようだ。

 

「さて、もう到着してもいい頃だが」

 一条の言葉に応えるように車載車がやってきた。荷台にはカバーが被せられたコンパクトな車が積まれている。トラックの助手席から大柄の西洋人が降りて一条に一礼すると、カバーを剥いで車を降ろしだした。

 「彼はアメリカで雇用した元整備士のカールで、ここの駐在員をやってもらいます」

 一条の説明をさえぎるように、コータが目を丸くして叫んだ。

 「ロータス11!」

 「はっは、よく似ているというか、ほとんど瓜二つだけど、 これはロータス11ではない。ロータス11の黄金時代を終わらせたローラmk1という車ですよ」

 一条が嬉しそうに説明する。

 

 エリック・ブロードレイ率いるローラといえば、1957年の創業以来現在までレースカーコンストラクターの第一線にその名を連ねている名門である。ローラmk1はローラの最初の市販車で、軽量のマルチチューブラースペースフレームのフロントにコベントリークライマックス製FWA1.1リッターSOHCエンジンを搭載している。この小さなレーシングスポーツカーは、当時クラス最強の一台とされていたロータス11を強く意識した設計がなされていた。
 ロータスにとって最初の成功作でもあった11の数少ない欠点、それは450kgを超えていた車重にあった。ブロードレイはこの11の弱点をしっかりと見据え、まずは27kgという超軽量のスペースフレームを開発、その他のコンポーネンツもグラム単位での軽量化を実施することで、400kgを大きく下回る375kgの車両重量を実現したのである。このスペックは同じエンジンを搭載していたロータス11ユーザーを驚かせるに十分だった。大人一人分以上の重量差は加速、ブレーキ、ハンドリングのいずれにおいてもそのパフォーマンスを大きく向上させる上で大きな助けとなった。そしてここから「ローラ」の躍進が始まることとなったのである。
 ローラmk1は一躍サーキットの有力マシンとなった。ロータス11ユーザーの中からは遅ればせながら軽量化のためのモディファイに着手する例も見受けられたが、自ずとその結果には限界があった。この思いがけない伏兵の登場にロータスは新たに一層の軽量化を推し進めた新型の「17」を1959年に投入することとなった。その車重はローラmk1を十分に意識した340kgというもの。しかしこの軽量化には無理があった。17はデビュー直後からマイナートラブルに終始つきまとわれ、結局失敗作の烙印と共にサーキットを後にせざるを得なかったのである。
 この一件以降、1リッタークラスのレーシングスポーツカーはローラmk1の独壇場となった。
 
 「私はここに来て以来、サーキットに似合った車が欲しくなってね。しかし何がいいのか決めかねていた。そこへ彼アンドリュー君がロータス11を持ち込んできて、鮮烈な走りを披露してくれた。それでピンときたね、無敵のイレブンを超えたローラmk1という存在が」
 一条は続けた。
 「日本ではローラなど入手困難だ。私はアメリカのバイヤーに探すように頼み、彼は現オーナーたちを調べ上げてひとりひとり丹念に交渉してくれた。そしてこの1台を手元に迎えることができたのですよ」
 
 津野田がスバルR2の点検整備を終えたと伝えにきた。
 「いいコンディションです。どこも問題ありませんよ」
 一条は文佳を呼んだ。
 「川井君、しばらくこの車でサーキットを周回してきなさい。私を乗せて走るのだから、危険回避を身に付けてもらわないと困る。全力でアタックするのだよ」
 とスバルR2のキーを渡す。
 「そうだ伊村さん、同乗して彼女に運転をアドバイスしてくれませんか?」
 コータは応じた。
 文佳の運転は女性らしく優しくて丁寧だ。だが速く走ろうと思ったら自分の壁を破る必要がある。
 「文佳さんさあ、普段随分我慢してるでしょ。ここでは我慢は要らないから、もっと思い切っていきなよ。社長こん畜生みたいにさ」
 文佳はニコリと笑い、コンチキショウと叫びながら最終コーナーでアクセルを踏み込んだ。スバルR2は堪らずにスピンし、エスケープゾーンで止まる。
 「うん、それだよそれ。限界を超えないとどこが限界か分からない。まず限界を知って、限界ギリギリを刻んでいくのさ」
 文佳はうなずいた。心なしか表情が晴れやかになったように見えた。
 
 
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 「ローラmk1とロータス11は外観的にほとんど見分けがつかないが、フロントの造形とフロントフェンダーが異なる。ロータスはノーズが少し引っ込んでいて、 フェンダーはタイヤを包むようにふっくらとしている。速い車はそれだけで美しく見えるから、私はローラmk1に心を奪われてしまった。一目で見分けがつくよ」

  一条が楽しそうに語る。

 「それは仕上がりが楽しみですね」

 コータは自分も楽しくなってくる。一条が連れてきたカールは長年アメリカでヒストリックカーレースのサポートをしてきて、欧州ビンテージカーの整備には定評があった。バイヤーからその存在を知り、一条はカールをスカウトしてきたのだ。カールは宝石のようなコベントリークライマックスを分解し、磨いて組み直していた。

 ロータス11とローラmk1に積まれたコベントリークライマックスは、1950年代の最高の市販レーシングエンジンである。1950年にジャガーのエンジニアであったウォルター・ハッサンが、消防用ポンプのメーカーであったコヴェントリー・クライマックス社に入社し、まずFW(Feather Weight,羽のように軽いの意味)と言うコードネームを持つ、直列4気筒で1020ccの排気量を持ち3500回転で39馬力を発生する消火ポンプエンジンを作成した。 そしてこのエンジンが1953年のアールス・コート・モーターショーに出展されると、それまでフォードやMGの市販車エンジンをチューニングしてレースに臨んでいたクーパーやロータスなどのコンストラクターが、是非スポーツカー・レース用にこのエンジンをベースとした高性能エンジンを使いたいとクライマックス社へ要望した。

彼らの要望に応える形で、クライマックス社はFWエンジンを改造したFWA(Aはオートモビル・1100cc/6500回転/75馬力)エンジンを生産する事を決めた。これは世界で最初の市販レーシングエンジンで価格は250ポンドであった。

クライマックス社は、レーシングエンジンの常として特別にチューニングしたエンジンを要求する顧客の要望には一切応じず、首尾一貫して常に同一レベルの性能を持ったエンジンを公平に顧客に販売し続けるという姿勢を崩さなかった。(これに対して自社チューンを施してエンジンの性能を上げようとしたのが、コーリン・チャップマンとスターリング・モスだったが、クライマックス社のベンチ上でブローアップする羽目になった)

 コベントリークライマックスはその後F1用に市販エンジンを開発し、クーパーなどに採用された。常に変更されるレギュレーションに翻弄されながらも、ミッドシップという優れたレイアウトのクーパーにより、コベントリークライマックスはF1に於いて4度のコンストラクターズタイトル、4度のドライバーズタイトルの獲得に貢献し、通算40勝を上げた。

 

 「一条さんのドライブで、ショップ対抗戦に出ましょうよ」

 コータはアンドリューの天下を崩せればと思った。おそらくみんな同じ思いを持っていることだろう。

 「いいえ」

 一条は首を横に降る。

 「ショップ対抗戦には出させてもらうが、私はドライブしません」

 

ローラmk1
 
ロータス11
 
ローラmk1
 
ロータス11
 

 ローラmk1が仕上がった。一条は文佳を呼ぶ。

 「川井君、仕事を与える。この車を運転するんだ」

 スバルR2で見違えるように腕を上げた文佳だったが、この一条の言葉にはみんなが驚いた。

 「どういうことですか?」

 思わずコータが聞いた。

 「ローラmk1の最大のメリットは軽さです。ということはドライバーの体重も重要だ。70kg近くある私に対して、39kgという川井君は大きな戦力になるのですよ」

 みんなが唖然とし、文佳は硬直している。スバルR2ならともかく、こんな高価なレーシングカーなんて…

 「仕事だと言ったろ?やりなさい」

 一条はそう言って文佳の背中を強く叩いた。

 

 

10

  何て重労働なのかしら…

 文佳はローラmk1のステアリングやペダルの重さに苦労していた。昔のレーシングコクピットはまさに男の職場という感じだ。ステアリングはワンテンポ遅れがちになるし、1周の変速操作で足が痛くなる。ピットガレージに戻ると、カールがゼスチャーで脇を締めろ、腰を使えとアドバイスを送ってきた。文佳は再びコースインし、カールの教えを取り入れる。脇を固めるとステアリング操作にそれほど腕力が要らない。的確なタイミングでステアリングを切れる。クラッチも膝を使わずに腰骨を前後にスライドさせる感覚で操作してみたら、重たいレーシングペダルがそれほど苦ではなくなった。みるみるタイムが縮まる。文佳はローラmk1と通じ合えた気がして、急に愛おしくなった。

 「明日は頑張ろうね」

 と、自然に話かけていた。

 

 

  ショップ対抗戦、今回はほとんどのショップが観戦に回った。蓮花と36仲間の対決となり、当初参戦しようとしたロータスエウロペの林崎も事情を察して取り止めた。アンドリューのロータス11と文佳のローラmk1の一騎打ち、声援を集めるのは圧倒的に文佳だ。

 常にスポットライトとフラッシュと羨望の眼差しの中にあったアンドリューにとって、こんな体験は初めてだ。思いもよらない嫉妬で文佳への敵がい心が燃え上がる。

 2台はグリッドに並んだ。

 性能を比較しておこう。

 

 ロータス11

  450kg 75馬力

  パワーウエイトレシオ 6.0

 

 ローラmk1

  375kg 75馬力

  パワーウエイトレシオ 5.0

 

クジによりアンドリューがイン側を得ている。レースは初めてではないがこれほど真剣になるのは初めてで、文佳は極度に緊張していた。

 「結果を気にせずに行きなさい」

 一条が文佳に声を掛け、文佳の表情は和らいだ。

 

 スタート!サーキット最速を競う2台は並んで加速して1コーナーに向かう。イン側のアンドリューが文佳のラインを塞いで前に出た。文佳はすぐに真後ろについてロータス11を追走する。単独での走行とレースは全く別だ。アンドリューは巧みにコーナー入り口でインを抑えて文佳の侵入を許さない。まるで仲の良いランデブー走行さながらに最終コーナーを迎えた。両者ともにここが勝負所だと分かっている。アンドリューはいつもと違い、イン側に文佳が入れるスペースを作らないライン取りをする。文佳はアウトからクリッピングポイントへ切り込もうとするが、ロータスのノーズがそれを阻む。結局並ぶことも出来ずにアンドリューが先頭で2周目に入る。間隔はテールツーノーズだ。

 「おいおい、結局アンドリューの天下は変わらないのかよ」

 観戦パドックには失望が広がる。

 2周目も全く同様の周回になった。まるでビデオテープでも見ているようだ。

 

 「最終コーナーにはね、魔法を奏でる20センチがあるんだよ」

 レースが始まる前に、純とコータが教えてくれた。

 「使うことはないかもしれないが、いざというときには限界と思うところからさらにインに切り込んでごらん」

 すでにラストラップの第8高速コーナーを駆け下っていた。文佳の目の前を塞ぐロータス11のテールは見飽きてきた。

 最終コーナー、文佳はアンドリューと同じラインを取った。第9コーナーのクリッピングポイントで思い切ってアンドリューよりも20センチ内側を狙う。グッとグリップが増すのを感じる。アンドリューが一度アウトに膨らみインにスペースが出来た隙を見逃さずに、文佳はアクセルを踏み足した。車速が上がり、ローラはロータスと併走する。アンドリューは完全に虚を突かれた。イン側を抑え、スピードに勝るローラmk1を抑える術はもうない。文佳は悠々と先頭でチェッカーを受けた。

 

 

11

 文佳の回りにみんなが集まり、祝福で盛り上がる。アンドリューは一人がっくりと肩を落としていた。メカニックである林崎も近寄れずにいる。そんな中、一条が歩み寄った。

 「あなたか。笑い物にでもしにきたかい?」

 「いや、見事な走りだったよ」

 一条は労いの言葉を掛けた。

 「そして見事な悪役だった」

 アンドリューは思わず顔を上げた。

 「僕は悪役になりたい訳じゃない。逆にヒーローになりたいくらいだ。このコースにどんな車が適しているのか身をもって示して、でも集客を損ねないようにオープンレースでサーキット荒らしのようなことはしていない。なのに…」

 「まあヒーローが誰でもなれる訳ではないように、ヒール(悪役)も誰もがなれる訳ではない。むしろヒーローをヒーローたらしめるための重要な準主役だ。まさに君がハリウッドでこなしてきたポジションじゃないか」

 アンドリューは思わぬ理解者に目を潤ませる。

 「あなたは凄いな。物事をよく見ているというか」

 「経営者だからね。見落としがあってはならないのだよ。そして出来れば君もサポートしたいと考えてる。このサーキットになくてはならない存在だからね。まあ君は蓄えも十分あるようだから支援なんて邪魔かもしれないが、コベントリークライマックスの整備はうちのカールに任せるのがベストだと思うよ。いつでも遠慮なく言ってくれたまえ。さて、私はヒーローを称えに行くとするか」

 そう言って背を向けた一条に、アンドリューは深々と頭を下げた。

 

 文佳は生まれて初めて大きな事を成し遂げた充足感に包まれていた。今まで抱いていた具体性のない憧れとは違う。チャラチャラした上辺だけの世界ではなくて、ずっしりとした本物の体験だ。

 一条が近づく。

 「川井君、よくやってくれた。期待以上の働きだ」

 「ありがとうございます、社長」

 文佳は心から感謝していた。

 「私は君を私の傍に縛り付けておくのは実に宝の持ち腐れのような気がしてきた。君の希望を優先したいが、どうだろう、秘書からこのサーキット事業の担当者に異動してみないか?せっかく東京に出られたのに申し訳ないが、カールひとりでは今ひとつ心もとなくてね」

 文佳は驚き、心に虹色の光が溢れるのを感じた。

 「はい、社長、喜んでお引き受け致します!」

 カヨが思わず抱きつき、一条にそっと感謝の視線を送る。

 「惚れそう…」

 

 

 

終わり